あの日 昭和20年の記憶(12)

あの日 昭和20年の記憶 12月編

12月1日 サイパン島陥落以降、一年半も山中に隠れていた陸海軍将兵45名が下山し、米軍に降伏する。

山内久さん(80 シナリオライター)昭和20年のこの頃は中国山東省で共産党軍と戦っていた。国民党軍を率いる蒋介石の命令を受け、中国の内戦に巻き込まれていたのだった。戦時中は逆に隊伍を堂々として移動するなんて事はむしろ無かったんですが、司令官は馬に乗ってる、将校も馬に乗ってる、軍医も馬に乗ってる、兵隊だけ歩いている、そういうような行列と言うのは戦争中はむしろ無かったですねえ、野戦展開していて。そう堂々と繰り出してって、山砲という小さい大砲を持ってって、それでバカバカ撃ちあいになったんですね。翌年1月内戦停止の協定が成立。山内さんの所属する部隊も武装解除された。武装解除すんで、青島(チンタオ)まで歩いて帰ると言う事になったんですね、鉄道がズタズタなんで。歩いて帰ると言う事、ちょうど百里(約400キロ)、どういうふうにして、敵意を持っている中国人の中を突っ切って行ったら良いのか、武器が無いわけですから。町の中では別に何も起こらないんですが、町外れに来ると、どっからか農民が出てきて、我々の行く手を塞ぐわけですね。それで、今考えると殺意は無い、殺そうとするんじゃなくて、背嚢の背負い綱ですね、その綱に向かって棒を添え木にした鎌、長い柄の着いた鎌、それを背嚢の背負い綱にはめて、バッと引っ張る。両方やられちゃえば、ゴロンと落ちるわけですね。そうすると若い奴らが、子供みたいのも来ますけど、バッーと突進してきて、それを掴んで持ってく。歴戦の勇士が「密集隊形!」と指揮取るわけですな。肩と肩を寄せ合わせて、農民に引っ掛けられない密度まで堅く肩寄せ合って、逃げるように帰ってくるわけです。

当時医学生だった作家山田風太郎の日記「明らかに、進駐軍を見得る土地の日本の民衆はアメリカ兵に参りつつある。軍規の厳正なこと、機械化の大規模なこと、物資の潤沢なことよりも、アメエイカ兵の明朗なことと親切なこととあっさりしていることに参りつつある。吾々は、この民衆を嘲笑したい。ただ時勢のままに動く愚衆の波を笑いたい。-しかし笑うことは出来ない。この愚衆こそ、すなわち日本人そのものだからである。」

12月2日 三菱財閥の総帥、岩崎小弥太が66歳で病死。

作家、長与善郎の日記「この間の議会で米内が立つと、恥を知れ、とか何とかいろいろ怒罵の野次が飛んだ。下村陸相の神妙な平謝りの謝り方に対して、彼はさういふ言葉を現はさなかったからだ。さうして昨日海軍省の最後の始末の報告をした後、米内は「永い事お世話になりました、これでお別れです」と一言云って永久に議会から姿を消した。彼に「恥を知れ」と怒号したやうな「恥知らず」が去らない限り、日本は永久に救はれない。

12月6日 戦後初のアメリカ映画「ユーコンの叫び」封切り

河合隼雄さん(77 臨床心理学者)当時17歳。神戸の工業専門学校の1年生だった。12月を越えた当たりで、みんなが食事の買出しに行かなければ生きて行けないので、期末試験は止めようと言うストライキをやったのを覚えています。学生が買い出しストライキ。この歳の学期末の試験は無かったと思います。学校側もある程度歓迎してたんじゃないかな、先生も大変だったんじゃないですか、みんな食べる事に。師走早々、兵庫県丹波篠山の実家に戻った。ちょうど軍医として東京にいた兄も復員、その兄と共にある物を作った。ようするに米の配給はほとんど無い。小麦粉とかコーリャン粉とか一杯きますね。そうするとパンを自分の家で焼かなきゃならない。パン焼き器を作った。箱に電極を入れて、そこにやっとくと焼けてくるんですよ。そういうパン焼き器を作って、パンをよく焼いてましたね。このパンがいかに世界一うまいかという口上を兄貴達と作って、大喜びで食ってましたよ。東条英機の口調でこのパンがいかに世界に誇るべきものかとか。

12月8日 中国からの引き揚げ船第一便が、2184人を乗せて、鹿児島県加治木港に入港

12月9日 当時医学生だった作家、山田風太郎の日記「省線電車に乗っていたら、満員の隅の方から、「誰か何かちょうだいよう」という声が聞えた。少年の声であった。「誰か何かちょうだいよう」みな、しんとした。声は一分に一度くらいの割合でつづいている。「誰か何かちょうだいよう。イモでもミカンでもいいから、誰か何かちょうだいよう」くすくすと笑う声がざわめいた。すると少年の声は憤然となった。「笑うやつがあるかい!ひとが何かちょうだいっていうのが何がおかしいんだい!笑うやつがあるかい!」声は泣声に変った。」

12月13日 専売局長官、年末には、成人男子一人当たり30本のたばこを、特別配給すると言明。

作家、永井荷風の日記「南洋諸島より帰還する兵卒の中には三四年前戦死せしものと見なされ、家族へ遺骨までも其筋より送り届けられしものも尠からぬ由なり、熱海天神町に住みし一商人あり、四年前戦死し靖国神社に合葬せられしかば、親族合議の上その妻を戦死者の実弟に嫁せしめ遺産の相続をもなしたり、子供二人出来幸福に暮しゐたりし処、この程突然死んだと思った兄かへり来りしかば、一家兄弟大騒ぎとなりごたごたの最中なりと云」

12月14日 ニュルンベルク国際軍事裁判で、元秘密警察の職員が、殺戮されたユダヤ人は600万人と証言。

12月15日 石炭不足のため、国鉄はこの日から、旅客5割減など、大幅に列車を削減。
上野地下道の浮浪者を一斉収容。

12月16日 戦犯容疑者として出頭を命じられた近衛文麿元首相、自宅で服毒自殺
前夜からこの朝にかけて、神田、京橋、荒川などで、追いはぎ、押し入り強盗が続発。

12月17日 その場で当たりがわかるスピードくじ発売。一等100円。副賞に煙草10個。

12月18日 作家、内田百閒の日記「外に出ないから道ばたの買物が出来ないのでおかずの魚が無い。鰯、三馬等はこの頃は自分で買って来る。初めは蜜柑を買うのもいやだったが、この頃は馴れた。鰯は大体三十匹で十円である。三馬は三尾又は四尾にて十円である。一度のご飯に三馬は三ツか四ツか、鰯は七ツ位食べる。それでじきに無くなるが、無くなればそれ迄であって、その為に少しずつ食べると云うのは、家風でない。」

12月19日 山手線の満員電車で、幼児圧迫死。

12月20日 作家、高見順の日記「私と玉枝さんとは、しばらく浅草の話。「この頃浅草はこわいわ」浅草育ちの彼女が、浅草をこわいという。人気(じんき)が悪くなったそうだ。そして夜は追剥強盗の横行で、壕にいる人は、男でもこわがっているという。<ついでに。-大船なども、撮影所付近は軒並強盗に襲われているという話だ。中山君のいる極楽寺の方も、夜、ピストルの音とともに人の悲鳴が聞えたりして、物騒極まりない由>

12月21日 フィリピン弁護士会が戦争犯罪人に天皇を含めるよう、米大統領に要請したと米国弁護士会が発表。
東京の地下鉄が故障で立ち往生。老人が窒息死。

ちばてつやさん(66 漫画家)当時6歳。昭和20年のこの頃は、当時満州と呼ばれていた中国東北部の街、奉天近郊にいた。終戦の日の暴動で家を追われてから、各地を転々とし、ここで冬を過ごす事になった。みんな避難民みたいに、あっちに隠れこっちに隠れしてる状況でしたから、新聞はもちろん、ラジオも聞ける状態じゃないですから、いろんなデマ、しかも非常に暗いニュース、みんな絶望してたんでしょ、だからどうしてもそういう暗いニュースになるんでしょうけど、日本へもしうまく帰る事が出来たとしても、女子供はどんな事をされるかわかんない、男なんか奴隷としてホントにこき使われる、子供なんか連れて帰ったって、子供を育てられる状況にないよ、そういうニュースが、ニュースというか噂が飛び交っていましたよね。そこで絶望して、自分の可愛い子供を、日本へ連れて帰っても、育てる土壌が無いんだったら、ましてや明日の食べる物も無い、この子はこのまま飢えて死ぬかもしれない、そうすると親としては何とか生きて欲しいと思うと、裕福な中国人を探して、そういう人に、預けてしまう。日本人の子供ってのは、小さい時から教育を受けてるせいか、中国では日本人の子供は賢いと思われてたんですね。そういうあれがあったもんだから、日本人の子供、とても欲しがって、僕の家も、四人も男の子ばっかりですけども、四人もいるんだから一人ぐらい良いじゃないって言って、来る人がいましたよね。栄養失調のせいもあって、おできが一杯できるんですね。特に僕は耳が一杯出来て、耳が千切れそうになったのを覚えてますね。いっつもお腹空いてるものだから、ベルトをぎゅーっと、ベルトだったか紐だったか覚えてませんけど、こうやってぎゅーっと締めると少し空腹が紛れるんです。

12月23日 復員将校を自称する10人組の強盗や元陸軍少尉の銀行強盗など頻発

12月27日 国内でのBC級戦犯、判決第一号、捕虜収容所で捕虜を殴った元警備兵終身刑。

小島功さん(77 漫画家)昭和20年のこの頃、浅草浅草寺の妙徳院に、下働きをしながら居候していた。空襲で焼け出され、家族は疎開、小島さん一人が東京に残ったためだった。寺に9人もいるんですよ。半分は居候。親戚の人とか、出入りの酒屋さんとか。寺の周りは闇市になっていた。そこは娯楽を求める人の活気に溢れていたが、一方で殺伐とした世界でもあった。当時みんな特攻隊が帰ってきて、世の中で荒い事するわけですよ。特攻隊帰りって非常に怖がった、やくざも怖がった。死ぬつもりでいたんだから、死ねなかったわけでしょ、何も怖いものが無い。道歩いてるとね、いきなり、ポカッーと殴ったりするんですよ。何の理由も無いの、出会い頭に、気に食わないから。荒れてた、ホントに。だからもう、一番癒されるのは歌なんですよね。サトウハチローが作った「リンゴの歌」なんてね、たいした歌じゃないんだけど、ものすごくみんな夢中になって。並木路子、歌だけでもって一杯になっちゃう。大勝館という大きな劇場なんですよ、浅草でも、洋画を主にする、ちょっとしゃれた映画館、そこ一杯になっちゃうんですよ、彼女が来て唄うだけで、一人ですよ。それでウワッーと一杯になっちゃう。僕らも鈴なりになって見る。あの娘が手を振りながら唄うと、太ってるのあの娘は、手(腕)が。太った人なんて見たことないんだから、すごく魅力的だった。僕なんかが「春の小川はさらさら流る」、あんなねえ下らないわかり切ってる歌をふっと聞いたら、プワッーと情景が出てくる。小川が流れてねえ、キラキラしてさあ。いっぺんにカッーと感情が高ぶって、涙がボッーと出て止まらない。恥ずかしいんだけど、どうにもならない。そのへんから僕は戦争中の緊張感がほどけたんですね。

12月28日 GHQ「日本を支配した旧体制は除去する、絶対天皇制は近く消滅する」と発表。

当時医学生だった作家、山田風太郎の日記「夜の炉端に近所の百姓ら集まり、ただ天皇を憂うる声のみ。たまたま新聞に、北海道にて天皇打倒を演説せる徳田球一が、地方民に袋叩きに合い、民衆天皇陛下万歳を絶叫し、君が代を高唱せりという事件報道せられ、百姓ら、球一がこの村に来たら袋叩きどころかぶち殺すという。天皇信仰の鉄壁はげに農村にあり。ああ、これら農民の信仰は盲信との区別なし。それゆえに強く、それゆえに弱し。」

12月29日 毒蝮三太夫さん(69 タレント)当時9歳。東京台東区の国民学校4年生だった。戦時中、焼け出されて以来、知り合いの家を家族で転々としていた。昭和20年のこの日は父親が作ったバラックで暮らしていた。この頃、焼け跡で暮らす人達の間で、発疹チフスが流行していた。毒蝮さんもこの伝染病に感染した。そしたらね保健所の役人が入ってきたの。DDTってのを持って、それとねMP(憲兵)が二人ぐらい俺のうちに入ってきて、「ヘイ、ユー!」って言うんだよ。で、これは何とかって話してるんだよね。これは法定伝染病の発疹チフスだって言うんだよね。これはほっといたらすぐ死ぬ。これはどんどんどんどん伝染するから、隔離しないとダメだ。それでいきなりうちの中真っ白け。頭の中までやるの。それで近くの駒込病院に入った。30人か40人いる病人の部屋。あのね、発疹チフスって高熱は出てるけど、意識はしっかりしてるから、どういう状態なのかなってわかってるの。夜になるとね、死んだ人を運ぶ車ですよ、それがガラガラガラガラッって音がすると、向こう側のベッドの人がいなくなるんだよね。朝見ると5,6人いない。って言うのはみんな霊安室行っちゃう。あっ、こんなに死ぬんだと。子供は俺しかいなかったのかな。そしたらおふくろが俺の枕元でね、「南妙法蓮華教!南妙法蓮華教!…」団扇太鼓でね、大きな音なんだよ。俺は意識はしっかりしてるから聞こえるんだよ。「南妙法蓮華教、南妙法蓮華教…」一生懸命お題目あげてるの。死んでないんだよ、俺達。生きてるのに、お経あげてんだよ。助けようと思って。まだ覚えてるのはね、おふくろが医者にね、「私はどうなっても良い。この子は助けてください。先生お願いします」って言うのをまだ覚えてるね。それで何日か経ったら、熱が下がったんです。それで医者が「峠を越しましたよ。これから風邪もひかないような子になりますよ。多少バカになりますけど」って言ったね。そしたら親父が喜んで迎えに来てね、やせ細った俺をね、自転車の後ろに乗っけてね、駒込から…、山坂あるんだよ結構、不忍池通って、谷中通って、それで竜泉寺まで帰ってきた。帰ってきたら、近所の人達が、死んで帰るって人が多いんですよ、当時の発疹チフスとか伝染病ってのはね、良く帰ってきたって拍手で俺を迎えてくれた。下町だよね。


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あの日 昭和20年の記憶 11月編

あの日 昭和20年の記憶 11月編

11月1日 日比谷公園で餓死対策国民会議開催される。

ちばてつやさん(66 漫画家)当時6歳。日本に帰るに帰れず、今まで住んでた自分の家にもいられない。あっちへ逃げ、こっちへの逃げと言う状況で、日本人がみんな避難民になって大陸を右往左往してた時期ですね。昭和20年のこの頃、当時満州と呼ばれていた中国東北部奉天近郊の民家の納屋に隠れ住んでいた。ここに移ったのは秋も早い頃、奉天を追われて、逃げ回っていた時だった。我々一家6人は、僕が新しい靴を履かされたって事もあるんだけど、靴の釘が出てきてね、団体行動で逃げ回るわけですけど、足に釘が刺さるもんだから、痛くて痛くて、それに親が気が付いて、靴を直している間に、一緒に避難してた人達とはぐれてしまって、我々一家だけになってしまったんですよ。コーリャン畑の中だったと思いますけど。我々と行動していた人達を捜している内に、中国人とばったり出会うんですけど。その人がたまたま親父と仲が良かった中国人だった。「千葉さん、こんなとこで何してるの。こんなとこに日本人だけが、一家でこんな少人数でいたら危ないよ」そこでどうして良いのか、我々わかんなかったんだけど、「まあこっち来なさい」って言って連れてってくれたんです。自分の家の納屋みたいな所がありましてね、後ろの方に小さなはしごがあって、そこをずーっと上がっていくと、屋根裏にちょっととうもろこしだとかそう言った物が少し置いてありましたけど、そこに我々を匿ってくれたんです。父親は一家6人の食料を手に入れるため、匿ってくれた中国人と仕事を始めた。我々の食事どうしようかと言う事で、匿ってくれた除さんが「一緒に働こう。私が中国語で市場へ行って買い物するから、それを持って色んな所に売りに行けば、何とか冬を越せるよ」と言う事で、親父に中国の服を持ってきてくれて、「これ着なさい。千葉さんは口きいちゃダメよ。口きいたらすぐ日本人とわかって何されるかわからないから」て言う事で、除さんとうちの親父とありあわせの金で何かを買っては、どこかへ行商して歩いたんですね。中国人も朝鮮の人達もみんな飢えてる状態でしたけど、特に日本人は自分達で市場で買えない状態でした、どっかに隠れてるわけですから潜んで。満蒙毛織(まんもうけおり)とか色んな工場がありまして、そういう工場の倉庫みたいな所に日本人が隠れてるんですね、団体で隠れてるわけです。そういう所は自分達で何かを買いに行く事が出来ないわけです、怖くて。日本人を見たら何されるかわからない状態でしたから。だからそういう所に持ってって売ったと言う話を後で聞きましたけどね。屋根裏に隠れ住む生活は数ヶ月間続いた。3歳と4歳とそれから僕ですから、ホントに表で遊びたいような子供で、後乳飲み子ですから泣きますよね、泣かせないために、声が表に漏れないために、必死で母親がお乳含ませたりしてました。そういう狭い所にずっといると言う事は非常に苦痛だったですね。中国の子供達が遠くで遊んでる声が聞こえたりすると、ハッと窓から覗きたくなるんです。そこから覗くと、あそこに人がいるとわかると除さん達に迷惑がかかると、ずいぶん母親に叩かれてね。

11月2日 東松照明さん(75 写真家)昭和20年のこの日、家族は疎開先から帰らず、名古屋で一人暮らしをしていた。敗戦と同時に食糧難に襲われて、食う物が無い。お金があっても何も買えない。だから生き延びるためには盗み以外無い。私は盗みの常習犯で、一度も捕まった事が無い。農村だけでなく、そこらの一般家庭でも、ちょっと空き地があったら、そこを耕してトマトだのすいかだのじゃがいもだの、とにかく食える物何でも作った。我が家から10分位行くと農村地帯があった。お百姓さんも、自分達の生活、作物を守るのに必死ですから、ある食物が実る時期になると樫の棒持って見張る。そこをお百姓さんの目を盗んで畑の中に忍び込まなければいけない。匍匐前進が役に立ちます。持って出てくると現行犯で樫の棒で叩かれますから、その場で食べる。家が無人なので、自由に使えた。仲間の一人に近くの菓子工場に勤めている工員がいて、アメリカから放出されるマーブルチョコレートを箱の中に入れて、山積みにされてて、それを加工しながら、売ると言う工場に勤めていて、その情報持ってきたものですから、じゃあ盗み出せと、グループを結成して、夜中に工場の塀の周りに、5メーター間隔で明かりがついてて、その明かりが届く範囲のちょうど中間に暗がりがあり、その暗がりに菓子を工場の中から投げる。中に入れるのは工員だけですから。巡回の守衛が回ってくる。向こう側に回り込んだ時がチャンス。リヤカーに積んで逃げた。我が家に運び込んで。そのまま売ると足がつくから、もう一度火にかけて、溶かして、チョコレートに片栗粉を混ぜて、型に流すと違ったチョコレートが出来る。それを銀紙に包んで闇市に持ってくと飛ぶように売れる。

11月3日 中国共産党軍と国民政府軍の戦闘は中国東北部まで拡大と外電が伝える。

中村メイコさん(女優 71)奈良県に両親と三人で疎開していた。昭和20年のこの頃は父親の教育方針で学校に通わない生活を続けていた。軍国主義一辺倒の教育に危機感を覚えた変わり者の父は学校には行くなと言った。何にも判断がつかない子供達に戦争は良い事だと教えてもらっては困る。でも今は国がそうなってしまった。国がやってくれないのは親が守らなければいけない。自分の子供だから。私がまがりなりにも行ったのは幼稚園と小学校だけ。基礎教育と、普通の子供の生活を知るため、お友達を作る事、そのためだけでも良いから仕事の合間に行って来い。父親とのマンツーマンの寺子屋式教育は結構父は怖い教授で、全科目を父が担当してるんですけど、終戦後すぐに父がした事は、進駐軍の兵隊さんをスカウトしてきて、彼らは文法は間違ってるかもしれないけど、アクセントは絶対良いからと。グレゴリーとペックと言う人。確かに発音は良かったんですけど、ずーっと戦前からアメリカに暮らしている私の従兄弟が、戦後会って、私英語しゃべれるわよとしゃべったら「どうしてそんな汚い言葉を使うの、メイコは」と怒られて、「それははしたない女の使う言葉です」って。特攻隊の慰問から帰ってきて、舌の根も乾かぬ内に、私が行ったのは進駐軍の慰問です。仕事場には先生代わりになってくれる人が大勢いた。私が今でも漢詩が大好きで、漢文がまがりなりにもわかるのは徳川夢声先生のおかげです。正しい英語は古川ロッパさんです。ロッパさんはものすごく英語がお上手な方で、レディの英語を教えていただきました。

11月13日 財津一郎さん(71)熊本の国民学校6年生だった。昭和20年のこの頃、母親がかっけになって寝込んでしまった。財津さんは食べ物を手に入れるため、衣類を持って、一人で郊外の農村へ出かけた。電車に乗って一時間半かかって行くわけです。で、「これと何か食べ物と交換してください」と農家の人に言います。メリヤスの子供用手袋を見て、ざるから乾燥したソラマメ、それを一握り僕の雑嚢にポンと入れて、スッと持ってちゃう。穀物は絶対くれませんでした。所謂麦とか、米はね。で、次の農家に行って又頼むと、レギンスを広げて、大豆の干したの、一握りバッと入れて。それを担いで、歩いて行ってたら、農村の子供達にワッと取り囲まれた事があってね、肩を突つかれて、その内一番年嵩のこんな長い棒を持ったのが後ろからガンと突く、僕は思わずよろけて倒れる、雑嚢にもらった乾いた大豆とソラマメがぬかるんだ馬車道にズワーと崩れて、落っこちちゃった。そのとたん、ぶちきれちゃったですね。狂ったように、ウワッーと、その一番年嵩の奴が持っている棒を取り上げて、地面を狂ったように叩いたんですよ。あまりの形相にびっくりしたんでしょう、ハッと気づいたら誰もいない。我に返って、大豆とかソラマメを、泥も一緒についてくるわけですね、それを全部泥ごと入れて、リュックサックしょって、一歩二歩歩き出すんだけど、又どっかの路地に待ち構えてるんじゃないかと恐怖感がよぎる。立ちすくんでると、それを見てたのかどうか知らないんだけれど、生垣の向こうに、農家の入り口があって、おばあちゃまが一人、腰の曲がった、白髪の、手でまねくんです。一歩二歩三歩近づいていく。しゃべらずに、パントマイムですね、身振りでついて来いと。泉水があって、農家独特の家の建て方で、母屋に入ってく、あがれと言う、囲炉裏がある、炭火がある、座れと。リュックサックを下ろして、座ってると、おばあちゃまが仏間にいなくなった。黙って待ってると、やがてふすまが開いて、お盆に丸いお餅を、僕ら配給でもらうのは四角いの薄い、色は白墨みたいで、見た事無い、五つばかり持ってきて、囲炉裏で焼いてくれる。ジーと見てるうちに、やがてポカー、ポカーと餅が焼けだす。匂いがプンとくる。食えと。熱い、大きな焼けたのを、ちぎろうとするんだけれど、良くつきこんであるんでしょう、良いもち米を、切れないんです、これが。その内、意味も無く泣けてきた。手に持ったままわんわん泣いたです。そしたらおばあちゃんが「よかー、よかー。食べたらよかー」それだけおっしゃる。で、泣きながらいただいて、母に一つ二つ頂いて、又リュックサックしょって、帰って、ふとんに寝てるおふくろの所に、リュックサックと、雑嚢と餅をドーンと置いたとたんに、又号泣ですよ。母は何も言わない。母の寝返った目じりから涙がザッーと落ちるんですね。

11月18日 すぎやまこういちさん(74 作曲家)当時14歳。中学校を休学していた。昭和20年のこの頃は、疎開先の岐阜から東京に戻ってきたものの、厳しい食糧不足に苦しんでいた。戦争の最中(さなか)の方がまだしも食料はましだった。疎開していた岐阜県の田舎、木曽川の支流の上流の方ですが、そこですと、イモリとか蛇のアオダイショウとかカエルとか、を捕まえて、焚き火して焼いて食べる。動物性たんぱくを補う事も出来たし、川にドンコなんて言うにぶい魚がいて、アホだから簡単に釣れる。ビタミンCは田んぼの脇に生えている現地の人は食べない野蒜(のびる)を積んできて、それを煮て食べる。都会に戻ってきたらば、配給の範囲内でしか食べられない。都会ですから、身の回りにイモリもいなければ、そう簡単にカエルを捕まえてくるわけにもいかない。魚を取ってくるわけにも行かない。父親がくそまじめな人でしたから、闇物資に手を出すと言う事はしなかった。栄養不足はひどくなる一方で、遂にすぎやまさんは生死をさまようほどの栄養失調になった。もうみんな痩せさらばえてましたけれど、はっきり栄養失調の病状が出たのは、総領の僕でした。同じ量食べても、年が上の分だけ必要量に足りなかったんでしょうね。動物性たんぱくの不足で、お腹がどんどんガスふくれて、下痢が止まらなくなって、アフリカの国なんかで、子供達がそういう症状になって、随分大きな悲劇として取り上げられた、で新聞に写真が、お腹が膨れた子供の写真があったりしたんですが、それを見ると当時の自分を思い出したりする事があります。父親がそれを見てすぐこれは動物性たんぱくの不足だ、危ないと感じて、どっかからアミノ酸を入手してきて、アミノ酸を注射したりして。それから後一回はビタミンCが不足して壊血病になりました。壊血病と言うのは歯茎から出血が止まらなくなるんですね。それも、アスコルビン酸ナトリウム、つまりビタミンCを急遽注射して何とか食い止めて、生きながらえたんですけれども。すぎやまさん達の命を救ったのは町に登場したびっくりシチューという食べ物だった。当時の高円寺の駅前なんかに、露天が建って、露天でびっくりシチューというのが売ってましたね。びっくりシチューというのは、何がなんだか訳わからない、闇市で売ってる、米軍のPX(米軍の売店)なりキャンプから放出された残飯、残飯を全部叩き込んで、で煮っちゃったと。その中には食べ残したソーセージのきれっぱしとか、ベーコンのきれっぱしとか、動物性たんぱくもあるし、それが出てくるようになって、びっくりシチューを食べて栄養を補って、つないでいった。それ食べながら父親がくやしいって言ってね、ホントは意地でも食べたくないんだけれども、生きるためにはしょうがない、くやしいって言いながら食べた。

11月19日 毎日新聞「女子に門戸開放 男子と同資格 高校、大学の入学」

羽田澄子さん(79 記録映画作家)昭和20年のこの頃は、中国東北部の大連で、家族と一緒に暮らしていた。避難民であふれ返る街には、終戦直後からソビエト軍が駐留していた。最初に入ってきたのは、罪人が兵隊になった軍隊と言うのがまず先頭にいたんですね。その軍隊がひどい事をしたものですから、ソ連軍の軍隊と言うのはものすごく評判が落ちたわけです。大連でも郊外で、最初にそういうとこから来た人に、家に入られた人達はひどい目にあってるわけです。そういうい話がパッと広がって、私なんかも非常に警戒したんですが、私のうち辺りに来た時には、最初の軍隊は全て撤収して、次の軍隊が入ってきたんですね。ですからそういう意味で治安はまったく平穏でした。ソ連の司令部は前にひどい事をした兵隊を見せしめのために広場で処刑するという事をやって、一応人心を収めた。日本人は皆失業者になった。羽田さんは母親や友人達とソビエト軍の女性兵士相手に商売する事を思い立った。その人達に日本の着物を売ろうと、そこらへんはみなすぐ頭が回るんですね、たちまち日本の着物を持って広場に行って売ったりなんかするわけです。そうするとそれがものすごい勢いで売れたりするわけです。喫茶店を開く日本人もいて、ピロシキをうちで作ってそれを籠に入れて喫茶店におろして歩くという事をやった。今度はきくやというデパートがあって、そこにケースを借りて委託販売しようという事になって。卒業生のグループと一緒に、知ってる方から色んな品物を受けて、ケースで委託販売をみんなで交代でやった。

作家 高見順の日記「進駐軍司令部民間教育情報部へ行く。磯部氏の紹介と通訳で、ファー少佐に会う。どうも気が進まなかったが、社の仕事となるとそう言っていられない。ファー少佐の態度はすこぶるいんぎんを極めていた。前を通るとき、いちいち「エクスキューズ・ミー」と言い、自分から私たちのために椅子を運んでくれる。ビルマの日本軍の報道部の傲慢不遜な空気を思い出した。同じ日本人の私が、たまらなく不愉快だったのだから、まして現地人にとってどんなだっただろう。」

11月20日 ドイツでニュルンベルク国際軍事裁判が開廷される。
GHQから戦犯として指名された本庄繁陸軍大将が自決。

11月21日 近藤芳美さん(92 歌人)建設会社の設計技師だった。昭和20年のこの日は東京羽田で進駐軍宿営地の兵舎のレイアウトを担当していた。遥か彼方にまだ鳥居が残っていましてね、その先に日本の戦闘機が集められましてね、ブルドーザーで集められていった。それに重油をかけて、毎日毎日アメリカ軍は日本の戦闘機を焼いていました。進駐軍兵士達を観察していた近藤さんは、彼らの振る舞いに、その本音を垣間見た。彼らはどこかの太平洋の島で一匹の犬を見つけまして、それを飼っていまして、「トウジョウ」と言う名前をつけまして、その犬をいじめてるんですよね。蹴ったり突付いたりしましてね。そうしてうっぷんを晴らしてるんです。何のうっぷんかというと早くアメリカへ帰りたいんですよ。「トウジョウ トウジョウ」と言って犬をいじめていましたけれどね。

11月22日 やなせたかし(86 漫画家)戦時中は中国戦線で野戦重砲部隊の軍曹だった。昭和20年のこの日は上海近くの村で国民党軍の捕虜になっていた。僕らは武装解除されなかったんです。なぜかと言うとすっごい匪賊と言うか盗賊が多いんですよ。ですからぼくらがそこにいるとそういうのが来ないんで、この村を守ってくださいと言う事で武装解除もされなくて、ただし階級賞は全部剥がされました。

11月23日 米軍が大阪城を接収したと米紙星条旗が報じる。

馬場あき子さん(77 歌人)昭和20年のこの日は東京の専門学校の1年生だった。新学期は11月の上旬に始まったが、校舎は空襲で焼けていた。代わりに使う事になったのは焼け残った陸軍の兵舎だった。秋になると払い下げられた校舎に金づちとやっとこを持って集まれと言う指令が来た。行って見ると兵舎だった。兵舎の中に二段ベッドがどの部屋もどの部屋もあって、これをやっとこ入れて金づちで叩いて、ベリベリと剥がすんだと言うわけ。それを5人ぐらいで一部屋を受け持った。みんなしてやっとこをこう入れて、こんちんこんちん叩き込んでね、せいのーでベリベリベリ剥がすんだけど、それこそ足をかけて、男仕事ですよね。ベッドの一番表になってる横板がね、バリバリバリと落ちるんですよ。そうするとそこの所に南京虫がビッチーと隙間も無く並んでるの。秋でしたからね、活動しなくなって、ただペチャンコになって張り付いていて越冬するわけなんですよね。それをねえ、我々ゾクゾクッーってしたけれども、そんなの驚いちゃいられない。何かでもってピッーと払い落としてね、箒でもって集めてね、南京虫を。そこに小学校から椅子をもらってきて椅子を並べる。机はまだ無い。11月の9日ぐらいでしたか、本当の勉強の始業式になったわけ。そこの所で勉強してると、11月の半ばぐらいになると、小春日和っていう暖かい日があるじゃありませんか、太陽がさんさんと窓を通して入ってくるとストーブが無くてもね結構あったかいものなんですよ。そうするとどこに潜んでいたのか、我々が掃除をし余したのか、南京虫が前の座ってる人の背中をだんだんだんだん這ってんですよ。襟元のとこまで行ったら落とそうと思ったの。襟元の所に行くと、パッと鉛筆で落として、足でギュッと踏んづけてつぶしてやるわけ。その頃とても良かったのは兵隊さんが入ったお風呂があったの、学校にね。で色々解体工事して山のように材木があったでしょ。それでお風呂をたいて、学校が学生にお風呂を提供したの。おかしくない時代なの、そういう事が。みんなお風呂、入れないんだから。入浴券くばられてね、好きな時に入っていいわけ。やがて通学途中の駅で、進駐軍の兵士に呼び止められるようになった。大きい駅にはアメリカの衛生兵がいて、日本人は敗戦で防空壕暮らしをしたり、あるいは廃屋に住んでいたりして汚い、ばい菌を一杯持ってて、進駐したアメリカの兵隊がそういうしらみにかかっては大変だと言うので噴霧器持ってるんですよ。そこには粉のDDTが入ってて、そういう日にぶつかると、みんな集まりなさいと並ばされて、頭から襟元から真っ白に噴霧器でもってDDTをかけられて、うちへ帰って又その頭を洗わなきゃならない。そしてね、腕にもうおまえは消毒したって証拠にはんこ押すの。青い判子をベタッと押してもらえば、次の駅通過したとき見せればいいわけ。見せなくたって頭が白いからわかりますよね。

作家、高見順の日記「専売局が新煙草の図案と名称を募集していましたが、その当選の発表がありました。名称一等「ピース」。戦争中英語全廃で、私たちになじみの深かった「バット」や「チェリー」が姿を消しましたが、今度はまた英語国に負けたので英語の名が復活。日本名だってよさそうなものに、極端から極端へ。日本の浅薄さがこんなところにもうかがえるというものです。「ピース」(平和)なんて、ちょっとあさましいじゃありませんか。

11月24日 GHQ、理化学研究所、京都帝大、大阪帝大等の原子力研究用サイクロトロンを破壊、海中に投棄。

11月28日 朝日新聞「一日八十四石平らげる 都の幽霊四万人 猫も人間にして登録」

小堀宗慶さん(82 遠州茶道宗家)戦時中は旧満州に会った陸軍航空情報部隊の少尉だった。終戦後まもなく、部隊はソビエト軍の捕虜になってシベリアに送られる。昭和20年のこの日は極寒の中で強制労働をさせられていた。11月になると零下40度だ、30度だとそういう日にちが、三寒四温ではないけれど、たまに暖かい日があるんですね、零下20度くらいの。20度くらいの時は仕事に出されるんです。30度以上になると仕事にならないんです。仕事に行ったらまず火を炊く、暖を取るという事が一番なんですけど、そういう時には火が燃えないんです。命じられたのは兵舎の柱を立てる穴を掘る事だった。地下3メートルぐらいは凍っている。(焚き火で)溶かさなきゃならない。溶かさないと柱が立たない。当番で不寝番して、一人ずつ行ってはマキを炊いて、時間になると次の者が行って。あれだけ焚き火してどれくらい掘れたかなと思うと1メートルまで掘れて無いんですよね。いくら火を絶やさないようにして、氷を取っても、50センチか60センチまでいけば、上々なんです。想像を絶する寒さの中、日本兵達は次々に倒れ、死んでいった。一番よく倒れたのは、零下40度の日が三日も四日も続く時があるんですね、そうすると、ペーチカにマキを入れて、そうしてペーチカ燃やすわけですが、段々薪が無くなって来るんです。薪を取りに行かなきゃならない。薪を取りに行く時は、本当に全部開門して(?)、それって言って駆け足なんです。死に物狂いで駆け足して、枝でも棒でもとにかく燃やす物を持って帰らないと入れてくれませんからね。ところがやっぱりもう疲弊しちゃって、だけど義務だから、みんなのためだから、体が弱ってても何ででも行かなきゃならないでしょ。気はせく、体はもう栄養失調でどうにもならない、疲労困憊してる、そういう人は行くとこまで行く間に倒れる人もいるし、帰りがけに薪持ったまま倒れる人もいるし、こういう人達が一番多かったですね。

11月29日 八王子でメチルアルコールを飲み4人が悶死。

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あの日 昭和20年の記憶 10月編

「あの日 昭和20年の記憶」 10月編

10月2日 財津一郎さん(71 俳優)当時11歳。 昭和20年のこの日は熊本の国民学校6年生だった。アメリカ海兵隊が来よるぞって言うんで、防空壕で食うものも食わずに避難していた人達が、着の身着のままで見に行くわけですね。上熊本の駅前はこんな(5センチ以上か…)砂が積もっている、砂っぽこりなんですよ。今で言う十輪車て言う向こうの軍用トラックが、10台か15,6台来るわけですね。駅前の広場に止まるわけです。幌の中に海兵隊がいるわけです。みんな顔が真っ赤でね、南の方から来た人達でしょう。真っ赤にグリーンの海兵隊の制服着てるから、これが鬼に見えたんですね、本当に。周りを日本のお巡りさんがガードしてまして、サーベルしてました。点呼が終って、宿営地に移動と言う事になって、又トラックが一台ずつものすごい砂っぽこりあげて、グワッーと行くわけです。みんな埃を吸わないように口鼻を手で押さえて見てる。一番最後の重輪車のトラックの兵隊がダンボールの箱を持ってましてね、ワーッと(つまり箱の中身を遠くの方にぶちまけたと)やったんです。チューインガムとかキャンディとかそういうもんでしょう。それがパーンと下に落ちるわけです。見てた群集と子供達がブワッーっとたかろうとする時に、お巡りさんがですねえ、裂帛の気合で「よう、拾っちゃならーん!!」て言うんですよ。「拾うんじゃなかー!!」とすごい気合なんですね。みんなビクッとしてストップモーションですよ。そのお巡りさんの顔見たら、眼鏡ピッーとひび割れててね、こっちは紐ですよ(右の耳に紐でかけていたと)、かたっぽは眼鏡の枝。今にも抜刀せんばかりの気迫で、だからみんな止まるわけです。そのうち最後のトラックがバッーッと向こうの遥か彼方に消えていった。一人二人と足で寄せて拾い出す。それはお巡りさん黙認しましたね。

10月3日 「日米会話手帳」発売される。二ヶ月で450万部が売れた。
山崎巌内相、特攻警察の活動は継続すると談話。
帝劇で久保田万太郎演出、六世尾上菊五郎出演の銀座復興初演。

細江英公さん(72 写真家)当時12歳。昭和20年のこの頃、疎開先の米沢から東京に帰ると、神社の管理人だった父親の生活が一変していた。神社に収入の道が無いでしょ。何をやったか。やっぱりねえ、闇屋ですね。場所があるでしょ。物の集結の場所になってきてるわけですよね。本来それはコミュニティの物ですけど、コミュニティが食わせられないわけでしょ。そしてコミュニティの役員達、仕事もしてるわけですから、親父がいないと困るわけですよ。だけども収入が無いわけです。自衛のためにそういう場所を使いますね。だからこれは陸軍の何とかの倉庫からの物だ、とかね、そういうのがブーッ(?)と入ってくるわけですね。どうやって、いろんな事やってたのかな、うちの親父は。そしてそうすると女の人が朝早く来るんですよ。その女の人ってのは、大体年齢は30から50くらいの人で、大きな荷物を抱えてね、出かけてくんです。それがですね、銀座、新橋、その他のね、露店でもって売るわけです。売ったお金を持って、それから売れ残った物を持って、帰って来るでしょ。で、親父が色々仕分けしてね、お金を数えてね、それであげたりさ。言ってみれば、元締めだね。細江さんは闇市を見回る父親について、焼け跡の東京を歩き回った。浅草から上野へ行き、上野から神田へ行き、神田からそのまま、今の銀座通りですね、そのままずっと歩いていくと、日本橋があり、京橋があり、銀座があり、そして新橋がある。新橋より先は行きませんでしたね。それから銀座四丁目を右に曲がって、日比谷に行く。日比谷を真っ直ぐ行きまして、すこし左側見ると、国会議事堂が立派に見えるわけでしょ。その前が畑ですから。瓦礫が一杯ですから。それからあの辺の道、ズッーと、アメリカ軍のジープだとか、乗用車がねえ、駐車してるんですね。そして、新橋は特にそうですけどね、露店が沢山ありました。闇市ですね。食べ物がまずあるでしょ。食べ物が一番目立ちますね。ドラム缶みたいなものに、お湯を入れて、水はどっから持ってきたのかな、そこにイカをそのまま丸ごとバーンと入れる。イカの丸煮ですね。それが一匹いくらだったかな、十円だったかな。みんな復員してきたような人達、戦闘帽被っている人達なんかががね、そういう所にいてね、それが又物売ったりね。露店には秩序が無いんだ。ここで家の戸車を売ってたと思ったら、隣にね、アンパンのアンコは無いんだけど、パンみたいなのを売ってたりね。どこが専門ってのは無いんだね。専門があったのは神田ですね。これが今の秋葉原。あの辺はね、陸軍だか海軍だかの、そういう所で使っていた様な物、放出物資ですね、真空管ばっかり扱ってるとかね。かなり専門家したような状態で、電気屋さんというのが、いち早く立ち上がった感じがするよ。

作家、高見順の日記「東洋経済新報が没収になった。アメリカが我々に与えてくれた「言論の自由」は、アメリカに対しては通用しないということもわかった。しばらく銀座へ出ないので、様子を見ないかと山村君を誘って新橋で降りた。銀座通りはアメリカ兵の氾濫だった。雨上がりの秋の陽を浴びた白いセーラー服の反射が眼に痛い感じだった。「石鹸をふんだんに使っているな」セーラー服の純白に対する私の感想だ。「機械でサーッとやるんでしょうね。手でゴシゴシ洗ったりするんじゃなくて…」と山村君が笑った。(山村君、大当たり。アメリカは本国から最新式の機械を持ってきて、大々的に洗濯工場で洗ったそうだ。日本人が雇われたが、給料良かったそうだ。最新式の洗濯機械を見て、これじゃ負けるなと思ったそうだ。場所は築地だったかな…?)

10月4日 米軍が函館、小樽に進駐。

近藤富枝さん(83 作家)朝日新聞に「失業四七七萬と推定 女子は極力家庭へ復帰」と言う記事がある。昭和20年のこの頃、1年ばかり勤めた日本放送協会を退職する事になった。アナウンサーの人達が沢山出征してました。司政官やなんかになってね、南方やなんかに行ってた人もあるんですね。そういう人達がいっせいに帰ってくるとポストが無いじゃないかと。辞めさせたいという機運を感じたものだから。その頃回覧板が来ました。おばの家にまだ下宿してましたがね。それにはね、素足で外へ出るな、アメリカ兵さんに笑顔を見せるな。ビビリましたね、私なんか。なるべく、ジープなんかの見えない所を歩かなきゃいけないと思ってね、日本橋でしたから、あちこち遊びに行ったんだけれど、いっつも裏道行きました。私、ホントに、アメリカ兵さんなんかと口きいたなんて無かったですね。避けていましたからね、当時ね。随分色んな問題があったもの。数寄屋橋から、理由も無く投げ込まれた男の人もいたし、性の問題がいっぱい起きたでしょ、新聞に出ましたよ、ちゃんと、大きくね。誰がどうしたとは書いてないけども。再疎開って言葉が出たんです、その時。もう一回疎開する人がいっぱい出てね。私なんか、親戚がみなかみで旅館してましたので、友達なんかがね、おじさんの所に、私、疎開出来ないかしら、って聞かれて、えっ、と言って。噂ではした人聞いたけれど、私の周りの人はみんなねえ、向こうっ気が強いからいましたね。でも出ないようにしてたから。夜はうちに引っ込んでて。神田駅の周りはねえ、ものすごい闇市になりましたね。無い物無いの。何でも食べられた。進駐軍の物がずいぶん横流しになってあったでしょ。洋モクもあれば、チョコレートもチューインガムもあったし。やっぱり私が一番嬉しかったのは、日本料理をちゃんと食べさせてくれる所に連れてってもらった時、嬉しかったですね。もう何年間かそんな物、食べた事、無かったからね。おすし屋さんもちゃんとねえ、営業、密かにやってましたね。知り合いのうちがね、お汁粉屋を開業したんですよ。で、行ってみようって事で、おばと二人で行ってね、ビックリしたの。まだ敗戦二月か三月にもならない頃、秋の深まった頃だと思うんだけど、戦前とおんなじコッテリした良いお汁粉で、お餅も本物がちゃんと入ってるのね。にこにこして食べ終わるとね、おばがお幾らですかって言ったら、咳払いしてね、一人前20円でございます。40円払ったの。私は、おばの家に下宿していて、一月20円だった、戦後でもね。戦前も一緒だったんですけどね。

10月5日 東久邇宮内閣総辞職。GHQからの政治的宗教的自由に対する制限撤廃要求を実行できないと。
東京都で簡易住宅の建設申し込み受け付け開始。

朝日新聞 政治犯の即時釈放。内相らの罷免要求、思想警察も廃止、最高司令官通牒。治安維持法、修正考慮、共産主義運動は部分的に認容。秘密警察なほ活動。山崎内相、英記者に語る。

羽仁進さん(76 映画監督)当時16歳。昭和20年のこの頃は、東京東久留米の自宅で、母や妹達と父の帰りを待っていた。歴史学者の父、羽仁五郎さんがこの年の三月、思想犯として捕らえられ、獄中生活を送っていた。父が帰ってくるというふうな事は、若い刑事さんが母と大分長い事話してましたから、そういう事言いに来たんじゃないかと思うんです。ただ、思想警察の警官の人達っていうのは、任務をやってたわけですよね、敗戦したにも関わらすですよ。母が子供集めて、その後みんな食事しながら、父がどうも釈放されるようだって話して。その時に母が特高警察について批判的な中身の事を入っている会話をしたんだと思うんですが、そしたら食堂が、もちろんカーテン閉めてたんですけど、食堂の外が玄関にくる道に面してて、そこでズルッと大きな音がしましてね、カーテン開けてみたら、刑事さんが向こうへ走っていくのが見えましたからね。政治犯釈放の記事が載ってから十日ほど後、父親が帰ってきた。帰って来た時は、もちろん父はもうすごくふらふらだったですから、ちょっと物は食べましたけども、すぐベッドが用意してあって、ベッドに行って、それから一週間ぐらいは寝てたと思うんですね。もちろん食事の時は起きてきたこともありましたけど。特高警察っていう部門がありましてね、思想犯だけを調べるんです。調べる時、すごい勢いでぶん殴られて、何べんもぶん殴られて意識が無くなってしまったらしいんですけどね。そうすると、担いで父を留置所に持ってくるわけですね。父が気が付くと、父の周りに、留置所にいるやくざとか泥棒とかそういう人達がみんな集まってね、拝むようにしてるって言うんです。どうしてかって言うと、この人はきっと偉い人に違いない、ここまで死ぬぐらい殴られても、何か大事な事言わない人ってのはえらいもんだって。父はすぐ、じゃあ何か食い物よこせって言うと、やっぱりやくざの偉い人がみんなの食い物はねて持ってるのがあるわけですよ、そういうのを食わしてもらったりしてね。時々はひどい汚い風呂に大勢で入るんでしょうけど、そういうのも父はちゃんと入ってね、そのふらふらになっていきながらお風呂に入って、体丁寧に洗うらしいんですね。父が牢屋からうちに帰って来たという事は、喜ばしい事ではあったと思うんですけども、僕自身の記憶としては、わが家にとって、みんながすごく喜んだというふうには覚えてないんですね。非常に厳しい顔をして帰ってきたんですね。っていうのは、社会の敗戦に対する受け取り方が父の考え方とは大分違っていて、父としてはそういう事に対する怒りがあったんだろうと思います。それでもやっぱり父が帰ってきたという事は僕達みんなにとっては嬉しかった。よく死なないで帰ってきてくれたと思います。

10月6日 4日のGHQ指令に基づき、全国一斉に、特別高等警察が廃止される。
米軍が広島の呉に進駐。

ペギー葉山さん(71 歌手)昭和20年のこの日は、東京中野の国民学校6年生だった。私のうちは東中野だったんですが、まわりは全部焼け野原で、なぜかうちだけが、ポツンと残ってたんです。焼夷弾は一応落ちたんですよ。それを消して。ですから私のうちから新宿がポカーンと、その間何にも無かった。夜になりますと、新宿の伊勢丹が丸見えで、遥か彼方に。三階から上が米軍の接収のビルになります。一階、二階はかろうじてデパートの営業してたんですが、夜になると三階から上がワッーと明かりがつくの。ちょうど大きなクリスマスケーキが空中に浮いてるみたい。ちょっと異様な光景でした。お隣のうちが大きなお屋敷だったんですけど、それが全部焼けてしまって、お風呂だけが残って、それが五右衛門風呂だったんですね。私のうちから裏をちょっと通って、20メートルぐらいあったかな、お風呂に入れてもらいにね。とにかく誰もいないんですから。草の中から虫の音があの頃もう聞こえて、空は真っ黒な中にお星様が降るように綺麗で。食糧不足が深刻だった。母親と二人、度々闇米の買出しに行った。私が住んでた所の近所の友達の田舎、千葉の、房総でしたかねえ。千葉県安房郡という所にお米を買いだしに行って。お巡りさんが眼光らせてるんですよ、プラットフォームに。突然ねえ、このリュックサックは何ですか、って言われたの。お米を頂いた、その上にたくあん、もらったの。たくあんは、パッとリュックサックを開けられても、パッと匂うから、パッと閉めるだろうっていう、そういう事もあって。母がとっさにね、ほらほら早く早くって私に言ったのね。何ですか、そんな急いでどこ行く?子供がね、お手洗い行きたいって言ってますので。その荷物は?なんて言ってる内に、すいません、すいませんって言って。その前にパッと開けて、たくあんの匂いがしたんでしょ。だから、お巡りさんもあきらめたんじゃないですか、匂うから。

10月7日 別府航路室戸丸、兵庫県沖で機雷に触れ沈没。死者、行方不明者、236人。
観世定期能が復活。

小林亜星さん(73 作曲家)当時13歳。東京の慶応中学1年生だった。戦争中、教練てっいうのがあったの。教練ってのは軍事教練。その先生が、軍人がなるんです、どこの学校でも、その方が戦争中は厳しい方で、軍人勅諭をちょっとでも間違えると往復ビンタ。戦後、私が慶応に復学した間もない頃、教練は無くなって、首になっていたが、その先生が現れたんですよ、学校に。のこのこ教室に入ってきたんですね、休み時間に。当時ははつらつとしてい、威張っててね、ちょっとたるんだ奴だと、お互いに並んでビンタを執行しろとかいじめられたんです。その先生が何かこう、尾羽打ち枯らしたって感じで、何か変な袋をしょって、現れたんです。「ところで、みんな…俺はソーセージ売ってるんだけど、ソーセージ買ってごらん。お前らソーセージって食ったことあるか。うめえもんだぞ」それでみんなたまげちゃって、誰も向かわなかった。そんな事生徒に言ったって、ろくすっぽお金持ってないしね。先生はすごすご帰っていかれたけれど。この時やっぱり大人の価値観が全く崩れたなと実感しましたね。この頃、町では闇取引が横行していた。中学生だった亜星さんも、こづかい稼ぎのために闇物資を手に入れた。進駐軍経由ってのが多くてね。よく仕入れに行きましたよ、進駐軍。慶応はね、日吉が進駐軍に接収されてたんです、校舎。そんな関係で、日吉に行って、進駐軍と交渉して、へたな英語使って。レイシーってのがありましたね、進駐軍の非常食なんだけど、一応ねデザートのアイスクリームまであって、タバコも二本入ってる、ガムも入ってる、ちゃんとね缶詰の料理、そういうの仕入れてきてね、売ったりね。タバコが一番金になるんですね。これはキャメルとラッキーストライク、チェスターフィールド、この三つですね、これを仕入れてきて、まあ多少高く売って。戦後の雰囲気っていうの、忘れられないほど好きなんです。今の世の中より、終戦後の、物が無い、つらい時代だったってみんな言うでしょ、僕ら少年はもう例えようも無いほど自由な時代だったんです。戦後の空のイメージは明るい。誰にもしばられない。大人が全部アウト。我々の時代だ。

10月8日 東京の私立上野高女で生徒がスト。学校農園の作物の公正な分配、校長の排斥を求める。
夕張炭鉱では朝鮮人労働者およそ6千人が労働条件改善を要求しスト。

猿谷要さん(82 アメリカ史学者)昭和20年のこの日は復員して東京大学で西洋史を学んでいた。その頃は空腹の連日、空腹に次ぐ空腹。一般の人はね、戦争中に空腹を味わったと思うんですけど、僕はパイロットの将校でしたから、戦争中はあんまり空腹ではなかったんですね。戦争が終った時にね、まったく情けない話で、そんな事言ったら怒られちゃうけれど、今までの長い人生の中で一番体重が重かったんですね、戦争が終った時が。それからが飢餓の生活に入ったわけですねえ。未だに戦争が終った時の体重に戻ってないんですよ。申し訳ない話ですけどねえ。東大の地下の食堂で、何を食べたか思い出せないですけども、食券をもらって町の食堂でも食べられたんですね。グリーンピースがどんぶりで出てきたんですよ。グリンピースだけがどんぶりに山盛りなんですよ。半分ぐらい食べたらね、げんなりしちゃってね。空腹ですから食べないわけにいかない。結構食べましたけどね。ある時たまたま闇市っていうのがあちこちにあって、何でもかんでも売ってるよ、特に新橋の駅前の焼けた後の広場が、そうとう広かったんですね、あそこに行くと何でもあるよって言うので、行ってみました。すごかったですねえ、やはり。リアカーかなんかで焼け残った人達が荷物を持ってくる。衣類や家財道具が多かったですけど。むしろをひいてねえ、じべたに。それを積み上げて売ってるわけです。僕も回って行ったら、湯気が出てる所があってね、雑炊屋。みんなねえ、込んでましたよ。白米のおにぎりを三個10円っていうのがあったんですよ。当時は白米の事を銀シャリって言ったんですね。「さあ銀シャリだよ」って大きな声で、お兄ちゃんが声あげて。もうノドから手が出るくらい欲しかったです。買おうかなと思ったんですけどね、まあ一回りしてからにしようと思って、一回りしてるうちに、かなり品の良い中年の人がね、リアカーで積んできたんですね、自分の蔵書、みんな中古ですけど、それを山のように盛り上げてね、三冊10円って言うんですよ。僕がこう見ててねえ、おにぎりにしようか、この本にしようかって思ってね、この一冊に出会ったんですねえ。(と傍らにある古い本を取り上げる)グリム童話集の英語版なんですね。こんな古い、こんな汚い、こんな小さなもの、まだ僕大切に持ってるんですね。その中でペラペラっと見てったら、所々にカラーの絵がありましてね、この絵にまいっちゃったんですね、僕は。(夜空を背景にした、赤いマントの男が金髪の長い女性の三つ編みをよじ登ってる絵。うん、綺麗。ラプンツェル?)あるシャトーの窓からお姫様が体を乗り出していて、彼女の長い髪の毛を伝わって若者がよじ登ってくるという。この絵を見た瞬間に、これはおにぎりどころじゃないよ、あっ、こういう世界があったんだ。これが長い事日本がシャットアウトされていたヨーロッパのね、ぶんかの広い奥行きを持った世界なんだっていうことをね、この絵が教えてくれたような気がするんです。これ見た時、僕はなんだか体がジーンとしたですねえ。もう決めた、おにぎりよりもこれを買おう。三冊の本の一冊にこれを選んだんですねえ。この一冊だけは今でも大切に持っています。

10月10日 加賀乙彦さん(76 作家)当時16歳。戦時中は陸軍幼年学校の生徒だった。昭和20年のこの日は東京の実家に帰って暮らしていた。我が家は明治の初めから東京住まいですので、親戚が田舎に無い。そこで買出しに行くよりしょうがない。闇の買出しですね。千葉に行ったり、栃木行ったり、宇都宮行ったり。あの頃の農家の人って非常に酷薄でしてね、入っていくと「無いよ。売るもの無いよ。出て行ってくれ」ってどなられる。着物持ってるから、これ見てくれないかとやると、なるべく哀れっぽく言うんですね。ちょっとじゃあ見せろって見せると、こんな絹のもなあ、我々農家はいらねえや、木綿のねえか。実は木綿は必ず一つぐらいは用意してあるわけで、これならどうでしょう。ああこれなら良いよ、これだったら芋一貫目かなってなもんですよ。こっちは必死だから。一貫目って4,5キロでしょ。イモでも勝手帰らない事にはうちじゅうが飢えてるんだから。結構です、有難うございますって感謝しながら芋入れてもらう。新宿駅で降りて、夜なるべく警官に会わないように裏道を通って帰ってくるんだけど、巡回の警官に会って「ちょっと待てっ!」と言われて。何が民主主義だと思ったなあ。戦争中の警官と少しも変わらない。そのリュックを開けてみろ。ひあ。ちょっと来い。交番に行って、山のように食糧積み上げてて、そこへダッーと。よし、行ってよし。没収ですね。調書も無しに没収だから、あの食糧はどこへ行ったか、私達はすぐわかるわけだけど。警官も飢えてましたからね。加賀さんは自宅の前でアメリカ兵と初めて遭遇する。すごい音がするんで、ヒュッと見たらカーキ色のトラックがダッーとあって。乗ってるのは黒人兵、みんな自動小銃を構えて。それを何か命令でパッと置いて、ザッーと並んで、点呼でもするのかなと思ったら、小便を始めた。ちょうど傾斜地ですので、ゆるやかな、一斉にするとダッーと流れていって。そのもうもうたる湯気が私のアメリカの最初の経験ですな。やあ、日本は負けたと思いました。ああ、これに負けたんだ、この人達に負けたんだと思った。みんな頑丈な大男でねえ、すごい栄養が良い。トイレを終えて、向こうを向くと、何とお尻がピュッと突き出ててるではないか。ああ、あれがアメリカだと思ったんです。ようするに、日本人は飢えてましたので、ペチャンコのお尻で、ダブダブのズボンって感じだった、日本人はね。アメリカ人ははちきれる様なお尻をしてて、丸いお尻がピュッと突き出してる。

10月9日 GHQ 東京の五紙に対する事前検閲を開始

角田房子さん(90 ノンフィクション作家)新潟に疎開していたが、ひどい食糧不足で、1歳の乳飲み子共々栄養失調になっていた。昭和20年のこの頃、赤ん坊を乳母車に乗せ、病院通いをしていた。穴だらけの道を力不足の私が押すと、ギーコギーコと音は立てるんですけど、なかなか前に進まない。抱いていく体力は無いし、負ぶっても無理なんです。とにかくそのギーコに乗せて毎日午前中に医者んとこ行くんですね。それが三日目か四日目か、なんかその頃に、空き地に人だかりがあった。占領軍が、自分達に反抗したと、日本の労働者を、ぶったり蹴ったりしてるんです。留学経験があり、英語を話せた角田さんは助けなければと思いながら、躊躇していた。私の隣の人が「もう、死ぬよ、あれは」と泣き声を出した。その声で自分の背中押されたような気がしたんです。その人に反射的にこれ頼みますって、ギーコを彼に押し付けようて、出ようとしたんです。そしたらその男の人、びっくりして、私を後ろから羽交い絞めにして、女の出る幕じゃない、お前が殺されるだけだって言って止めようとした。わたしはそれを振りほどいて、とにかく前に出ちゃったんです。そうして気がついてみたら、大尉の前に言って、「誤解!誤解!」と英語の単語をわめいた。そしたら向こうの表情がぐっと楽にって「良い所へ出てくれた。一体どうしてこんな事になったのか、説明してもらいたい」わたしはそれまでに了解した事をとにかく話し、向こうは色々質問してくる。私の方も腹が立ってるんですよ。ちゃんとわかるような通訳呼んで来て、訳を調べてから、ここまでひどい、死に至るような事をするとは何事だと思って。私は嵩にかかって怒りました。そしたら向こうが良く分った、良く分ったと言って、ちゃんと聞いてくれて。その後角田さんは進駐軍に呼び出された。給料はいくらでも望むだけ払うから、アメリカ軍の通訳になってくれないかと。私は言下に断りました。医者が見離してるほど、子供の健康状態がひどいんです。私は24時間、いつも膝に乗せてい、夜は隣に寝かせて、又息をしてるかしらと思ってそっと手を出すような。それにあなたはご存じないでしょうけど、お金というものは役に立ちません。もし私が働いたら粉ミルクいただけますか。いくらでもあげるよ。クッキーもいただけるんですか。うちはねえ、将兵に食べさせるもんだから、赤ん坊に適当なクッキーがあるかどうかは知らないけれども、とにかくクッキーとか粉ミルクとかあんたが欲しいだけあげます。それで私は勤める事になったんです。

10月11日 東京高校教授、亀尾栄四郎、闇食糧を拒否し、栄養失調で死亡。
初の戦後企画(?)映画「そよ風」封切り。主題歌の「リンゴの唄」が大流行。

10月12日 終戦の日に、鈴木貫太郎首相宅などを襲撃した専門学校生ら七人に、懲役5年の判決。

10月13日 作家、高見順の日記「七名に懲役五年 鈴木、平沼両亭焼打事件判決 大尉に煽動された学生達が気の毒である。思えば戦争へと駆り立てられた日本国民は、みんなこの学生達と同じようなものである。終戦直後この事件の噂を聞いたが、その時は腹立たしい軽挙妄動とは思いながら、その気持ちがわからぬでもないと心のどこかでささやく声があった。しかし、今となるとー終戦後まだ二月しか経たぬのに、全くの妄動としか感じられない。時の流れの激しさ!」

10月14日 インドネシア各地で、独立を目指す人民軍が、白人、日本人を襲撃。

10月16日 新宿御苑の農耕適地8万坪を東京都民に開放

毎日新聞 「耳きこえる 人工コマク・コマク破れが人目に見えず労働も可」

俵萠子さん(74 作家)大阪千里山の知り合いの家に間借りをしていた。6月7日の大阪空襲で焼け出されたからだ。高槻に父の知り合いの人の借家があって、そこが空いていたので契約した。鍵をカチャカチャとやっていたら、中から「どなたですか」と出てきた人がいた。白内障の腰が曲がったお婆さんだった。その後ろに小学生ぐらいの男の子が心配そうに見ている。彼らも焼け出されて、勝手に住んでいたのだ。彼らは二階に住み、自分達は一階に住むという事になった。

10月17日 対米謀略放送で逮捕された「東京ローズ」、横浜刑務所に収容される。

池部良さん(87 俳優)赤道直下のハルマヘラ島にいた。武装解除はされたものの、まだ帰国の見込みは立っておらず、戦中から続く食糧難に苦しんでいた。そんなある日頭上に飛行機の爆音が近づいたいた。ジャングルにいた。上級部隊から、「台湾から芋の苗を送ってきた。それを投下するから、各部隊はそいつを拾え。畑を作って芋を食べろ」と言ってきた。あちこち探して、三束か四束拾った。牛蒡剣という銃剣で細い木をチョンチョンチョンチョンと切って、切るんだって、みんな栄養失調でもって、マラリアでもって、体力が無く、長続きしない。朝涼しいうちに切り、夕方涼しくなって切り、一ヶ月ぐらいしたら驚くべき畑を作った。畝を作って、拳骨で押し、苗を横に置いた。約一ヶ月ぐらいしたら、大きな芋がゴロンゴロンできた。それからは芋でもって大体満腹できた。食べなれてみると、すごいまずい芋だった。

10月18日 GHQ、外地から帰国する者の所持金を一般人千円、軍人は、将校が500円、兵は200円までと制限。
この日までに、南方からの引き揚げ者、21,850人。

渡辺美佐子さん(72 女優)昭和20年のこの日は、東京麻布の高等女子学校1年生だった。戦災を免れた渡辺さんの家の一部は、進駐軍に接収されていた。一間ある洋間だけ、アメリカ軍の将校さんが、日本人の女性を連れて、入ってきました。私はその洋間に蓄音機が置いてあったり、そこだけソファがあったり、そういう感じの部屋だったので、良く蓄音機一人で聞いたり、その部屋結構いたんですけれども、入れなくなっちゃって。二人が出かけている時に、その部屋どうなっちゃったんだろうと、上がガラス張りの部屋だったので、上からのぞいてみましたら、部屋中に赤の花柄のお布団。昼間は出てって、夜帰ってくる。トイレとお台所は共有なんです。朝、学校に行こうと、台所から靴はいて出ようとすると、台所のゴミ箱に真っ白い長い食パンがそのまま捨ててある。こんなに食べる物が白いのは初めて見た。白米っていうのもほとんどお目にかかった事無いし。びっくりして、こうやって眺めててね、取って口に入れる事はしない、ただそれから目が離れない。この頃渡辺さんが口にしていたのはわずかばかりの煎った大豆だった。父は又工夫好きの人ですから、どっからか、掛け軸の木の箱に、メリケン粉だか何だかをクチャクチャ混ぜたのを詰めて、マイナスとプラスの電気を通じるんです。蓋しておくと、見たと子食パンみたいなのが出来るんですね。その味たるやボロボロでどうにもならない。そんな時、台所から夕方の時間になるとジャッーってものすごい音が聞こえてくるんです。ステーキ焼いてるんですよ。その頃の日本人って食べた事無かったの。お肉ってのいうのは、せいぜいお客様が来た時、すき焼きとか、後は肉じゃがね、肉じゃがは良く食べた。だからお肉の厚い大きい固まりを焼くと、ジャッーってものすごい音がするってわからない。

漫談家、徳川夢声の日記「何気ナク、道ノ左ニ在ッタ八幡神社ノ境内ニ入ル。幼稚園の少年少女タチガ、運動会ノ予行演習ヲシテイタ。男の子が十五人、女の子が十五人、オルガンに合わせて、チカラ チカラ クロガネノ チカラ と唄い踊ってる。ーおぉ、敗戦国の幼児たちよ!私は感動して涙が出た。-日本は、ほんとに敗けたのかしら?見ていると、そんな気がしてくるほど、それは健康的で可憐で、そして世にも頼もしい景色であった。

10月19日 駅名表示が左書きに変更されると新聞が報じる。

土本典昭さん(76 記録映画作家)昭和20年のこの頃、東京立川にある米軍基地で通訳助手のアルバイトをしていた。基地の建設現場で、アメリカ兵の指示を、日本人労働者に伝える仕事だった。最初にね、全部のアメリカ兵がやったわけじゃないんですけど、ひどいアメリカの兵隊の場合は、最初に「この野郎」みたいな事を言って、並べといて、端から尻っぺたを叩いていくんですよ。いいわるいじゃないんですね。叩き終わってから、「我々に従わなければ、我々は君たちを罰する」みたいな事を言うわけですよ。それを僕は翻訳しないといけない。「今のは見せしめで、今後言う事をきかなかったら、こういうふうに殴るぞって言ってます」ってみたいな事を話したね。そういう事を言わなきゃいけない。まだ僕は他にもそういうふうなやり方を見ましからね。罰するんじゃなくて、頭からね、畏怖させるっていうか。自分のほうがボスだって言う事をね、体で教えるとかね。びっくりしましたね。日に日にアメリカ兵に対する反感が募っていく。そしてある日、決定的な出来事が起きた。ある時、彼らの兵隊の宿舎があるんですね、カマボコ兵舎って奴ですが、その中の修理に呼ばれまして、僕は行って、大工出来る人にやってもらいながら、手招きされるもんだから、どうしたのかなと思ったら、ベッドの周り4人ぐらいがね、写真を見ながら、ゲラゲラゲラゲラ大きい声で笑っている。僕を見て、僕はあまり育ちが良くなかったから、子供に見えたと思うんですね、僕を呼んでですね、見せられた写真と言うのが、どっかの野原でね、裸にした自分の遊んだ日本の女を、足を開かせて、撮った写真なんです。流行(はやり)になってるのかね、四人共それぞれ持ってるんです。見せ合ってね。笑ってる奴のアメリカ兵の顔を見たら、チンピラなんですね、ほんとになんて言うか。腹がざわついて、相手と、もし、いさかいを起こしたら、殺しましたね、きっと。理屈ぬきに、これが負けたって事なんだって、つくづく思い知らされましたね。

当時医学生だった、作家、山田風太郎の日記「戦争のない世界、軍隊のない国家ーそれは理想的なものだ。そういう論にわれわれが憧憬するのは、ほんとうは尊いことなのであろう。しかしわれわれは、そういう理想を抱くにはあまりにも苛烈な世界の中に生きて来た。軍備なくせいて隆盛を極めた国家が史上のどこにあったか。正直は美徳にはちがいないが、正直に徹すれば社会から葬り去られる。それを現にわれわれは戦争中の国民生活でイヤとういうほど見て来たではないか。

10月20日 被選挙権も男女同権で、満25歳からと閣議決定。
岩手県盛岡市の国民学校、食糧難のため午前で終了となる。

高橋玄洋さん(76 放送作家)戦時中は海軍兵学校1年生。原爆が落ちた直後の広島で、救援活動を行った。昭和20年のこの日は広島県大崎下島で親戚のミカン農園を手伝っていた。この頃高橋さんの体に異変が起きた。働いている時にかすり傷を負う事がある。うんだままで、なかなか治らない。下着の、特に脱ぐ時に、僕は背中がひどかったんですけど、背中の爛れから、シャツなりパンツなりが剥がれないんです。ちょっと無理すると皮がついたまま、体から皮を剥がすような形になっちゃうんですね。その後が又、痛いんですけどね。マムシを焼酎につけた薬がありましてね、これが良く効くんですよ、これつけると少しの間は良い、だけど膿が出てくる。治っていかない。体の異変の原因がわかったのは、しばらく経ってからの事だった。その年の12月の28日ぐらいにミカン採りが終わったんでしょう、そん時だけは小遣いをもらって、従兄弟二人と一緒に広島へ出て、遊んで来いって事になって。広島に行けば闇市があった。そこへ行った時に、広島に救援に行った時に、遺体処理の仕事したわけですが、その時に一緒だった生徒とばったり宇品の、港の近くだったんですけれど、会ったんですよ。「おまえ、こういう事はないか?体がだるくて、傷跡は治らなくて、時々頭がフッとする事があって…」と色々聞くんですね。僕の症状とおんなじなわけ。「それがどうしたんだ?」と言ったら、「それは、おまえ、原爆症だよ。俺もそうだけど、おまえもそうだ。絶対医者にすぐ行け」って言うんですね。「同じ広島に来てるんなら、俺の行きつけの所で、血液検査だけでもしてもらえよ」その頃、ぎりぎりぐらいだったかな、原爆症、原爆症ってあちこちで言い出したのは。それまであんまりそれ程に言ってませんでしたからね、自分でもまったくそんな事思ってもいなかった。「俺は原爆症なんだ」不治の病を宣告されたような気が当時したもんなんでです。前に悲惨な最期をとげた人達見てますからね。「俺もああなるんだ」死ぬ事が怖かった。「白血球だけでも調べてもらえよ」とてもその勇気無くって、宣告される事が嫌で、広島のバラックの旅館みたいなとこで、一睡も出来ずに帰ってきた。

10月24日 児玉清さん(71 俳優)滝野川区の家が空襲で焼け、一家は親戚の亀有の家に身を寄せていた。昭和20年のこの頃は集団疎開から帰ったものの、食べる物がなくやせ細っていた。疎開から帰ってきた時、母親にまっさきに会いに行って、ただいま、お母さんと言ってるのに、しらんぷりして通り過ぎた。おっかけてって行って、「おかあさん」と叩いたら、何この子と言う顔で、良く見たら僕だって事わかってくれて。完全に面変わりしていた、骸骨みたいになっていた。父親は埼玉や栃木の親戚を頼って、度々買出しに出かけていた。買出しについていった。間々田という栃木県に母親の親戚が疎開していて、切符が配給制度で買えない、だからいんちきで乗る。窓ガラスも何にもない列車で、買出しに行く人達で超満員。帰りに、僕だけ一人でかえらなきゃいけなくなった。かぼちゃを3個縄で繋いで、それを二つ持って帰らなければいけなかった。汽車に乗る所が無い。ふっと見たら一番前が空いている。大人三人ぐらいがいた。乗った。汽車が走り出した。一番先頭を、風切って。ぞくぞくして、気持ちが高揚し、嬉しく、怖さもあり。大宮で降り、赤羽で降り、上野では僕一人。降りた瞬間、駅長にものすごく怒られた。一片にぺしゃんこになった。

10月23日 運輸省、制服を着用した進駐軍軍人の国鉄運賃無料を通達

10月26日 藤本義一さん(72 作家)当時12歳。大阪の中学1年生だった。昭和20年のこの頃、戦時中から入院していた父親に続いて、母親も交通事故で入院。生活費を稼ぐため、闇市に出入りするようになった。ミカンは6個で十円。蒸しパンは4個で十円。タバコが一箱、大体30円。ぜんざいも売っていた。小豆、30粒入れたら10円で、40粒入れたら15円。カラスの肉も売っていた。鳥肉として売っていた。子豚をリボンつけて散歩させた。散歩させてると警察にあがらない。これをばらして肉にして売るとすぐ捕まる。散歩の途中で生きたまま売る。藤本さんが得た仕事は、何ヶ所もの闇市を回って価格調査をする事だった。ヒロポンも当時は市販されて、初めのあたり薬局で売っていた。取締りがあって、闇値が上がってくるんだけども。闇値になってからね、ヒロポン、1日で変動するんですね。朝1本、十円の奴が、夕方13円になってる日もあるし、朝13円の奴が、昼から9円になる事もあるし。それも全部連絡していくのね。連絡して行って、闇市に届けると、闇市の総元締めみたいなのがいましてね、各部署に、そこへ又連絡して行って、全体の経済の平均価を作っていくわけね。その先端に僕がいた。先端にいて、食べる物は食べられるし、親の入院費用も出せるし。仲間と米軍キャンプから盗んだ物を売りさばく事もあった。Dボックスって言う、携帯食品、これは皆入ってるんですよ。タバコ3本入ってたとか、5本の奴もありましたけどね、チョコレートが入っていて、パンが入っている、アメリカの乾パンみたいなのが入ってて、コーンビーフみたいな缶詰一つ入ってて、その他にジュースも入ってて、缶じゃ無い、箱のジュースが入ってて、ズシとした重い奴です。我々が米軍キャンプから持ち出したものに、レボルバー、32口径の拳銃と、実弾が入っていた。1発ずつ撃って、売った。買った奴は我々よりだいぶ年上の奴なんだけれど、予科練帰りと言ってましたけれど、大変な金が入ってきた。それを山分けした。買った奴がそれで強盗した。強盗して捕まった。出所はどこやと言うので、調べていったら、我々が浮かびあがってきたわけ。逃げるしかない。捕まったら米軍の物ですからね、日本の警察でとどまらんと。アメリカの裁判もあるから、へたしたら、強制労働で沖縄に連れて行かれる。日本海側から北海道に逃げた。今の金で百二、三十万持ってたの、違うかな。40日後、大阪に戻り出頭。

10月28日 マニラで山下奉文大将の戦争犯罪裁判が始まる。フィリピン人への残虐行為を許した容疑。

当時医学生だった作家、山田風太郎の日記「七つか八つくらいの男の子が、柱の下に座って泣いていた。はじめ狼の子かと思った。長くのびた髪の毛に埃を真っ白にかぶって、模様もわからないぼろぼろの着物をまとい、手足は枯木みたいに垢で真っ黒だ。その前には三つか四つのさつま芋がころがっている。通りがかりの人が与えたものであろう。ときどき芋をくわえたまま、アアーン、アアーン、と悲しげに泣く。その声は心ある者の腸をえぐるようだった。」

10月29日 秋田師範男子部、食料難で二週間休校。学生を食料増産のため帰省させる。

10月30日 讀賣報知新聞より 「都電、都バス廿銭に 乗換制復活や三ヶ月の定期券 十二月一日からの實施」

大田昌秀さん(80 参議院議員)戦時中は沖縄の学徒で組織された鉄血勤皇隊の一員だった。沖縄では終戦後も米軍に抵抗する敗残兵が数多く残っていた。大田さんもその一人だった。昭和20年のこの頃、潜んでいた洞窟に、元日本軍将校を名乗る男が投降を呼びかけに来た。我々が入っていた壕の中に日本の元将校が宣撫員として、戦争に負けたから、こんな所に潜んでいないで、命を大事にして、本土へ帰れるようにしたらいいよと言う事で、宣撫工作に来た。みんなこれはいんちきだと言う事で誰も信用しなかった。翌日も、元将校はあきらめずにやってきて、全員出て欲しい、ホントに戦争に負けてるんだと言うんです。今から考えると、まともな事を言っているんですが、あの戦場ではまともには聞こえずに、何かだまされているような、うまく捕虜にするためにやってんだというふうに受け取れて、それで反発が強かったわけですが、特に下士官なんかの中には、大阪から来た見習い士官と言っとったんですが、この人なんかも日本刀を抜いて、「貴様こんな事言うんだったら叩き切るぞ」と言う事で、追っ払おうとしたりした。一般兵も手榴弾の安全ピンを抜いて、やろうとして。入ってきた元将校も後ずさりして帰った。次の日、元将校、軍司令部の将校と名乗っていたんですが、天皇の終戦の詔勅をコピーしたのを持ってきて、みなさん信用しないならばこれを聞いて下さいと言って、我々敗残兵の前にですね、そこで詔勅を読み上げて、ホントに負けてるんですと言ってやったわけです。壕の中に元の軍医、中尉が二人おりまして、この人達が、他の文書ならいんちきして誰でも書けるかもしらんが、この天皇の詔勅だけは、簡単に書けるものじゃなくて、この用語から言っても、これは本物と間違いないと思うと言う。だからもう出た方が良いんじゃないかと言う事になって。それでみんなそこで反対する人もいましたけど、多数が出る事に決めて。わかりましたと、憲兵を連れてトラックを持ってくるから、それで捕虜収容所に言って欲しいという事になって。

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あの日 昭和20年の記憶 9月編

9月1日 東京の国民学校で正規の授業再会。
放送電波の管制解除される。ラジオの第二電波も再開。
東京劇場、大阪歌舞伎座、京都南座などが開場。

9月2日 米艦ミズーリ号上で全権重光葵外相、梅津美治郎参謀総長、降伏文書に調印。
大陸からの第一回引き揚げ者七千人、山口県仙崎港に上陸。

小堀宗慶さん(82 遠州茶道前宗家)当時22歳。旧満州、中国黒龍江省チチハルの陸軍航空情報部隊の少尉だった。昭和20年のこの頃は戦闘停止の命令を受け、ソビエト軍の捕虜になる事になっていた。しかし部隊の中には捕虜にならず、逃げ延びようと考える者も多かった。飛行機の操縦もできるのもおりますし、そういう人達で仲の良いのを集めて、俺達は飛行機を操縦できるように直して、うまくいきゃあ日本まで帰っちゃえば良いかと。一団となって山の中に入って、匪賊や馬賊という生活をして、とにかく逃げのびようと、焚き火のまわりに集まって、そういうグループがいくつも出来ていて、ずぅーと考えてましたね。帰るのには生きてなければ帰れないんだから、そういう中には自分達の居所がわからなくなると言う事で、狂ってしまって、やたらとサーベル抜いて振り回したりですね、そういうのを取り押さえるのは毎日のようにありましたし。大人しく一応捕虜になってみるという事は、仕方が無いでしょうね。やって来たソビエト軍は行き先を告げないまま列車に乗れと命令した。日本軍が壊した鉄橋とかそういうのがあるから、それを直して、三ヶ月もあれば、お前達は出来るだろう、三ヶ月経てば、日本に帰してやる。捕虜になる条件はそういう条件だった。それで汽車に乗った。小堀さん達を乗せた列車は数日間走り続け、ある朝大きな湖に到着した。シベリヤのバイカル湖だった。止まった時に、ある兵隊がバイカル湖を日本海だと思って、何にも見えないですからね、広くて、海だとしか思えないですね、波も来るし、日本海だ、日本に近くなったとみんなものすごく喜んだんですけど、ある兵隊が飲んだわけですけれど、しょっぱくない、しょっぱくないのは海じゃないんじゃないかって。すこし頭がおかしくなって、気が狂ったようになった兵隊もいましたね。

作家、高見順の日記「八時、香風園に行く。牛肉が氾濫している。もちろん、闇でだが。一斉に密殺したらしい。香風園でも牛肉の大盤振舞だった。牛肉を買わないかという話が、私たちのところへもいろいろの方からやってくる。横浜に米兵の強姦事件があったという噂。「敗けたんだ。殺されないだけましだ」「日本兵が支那でやったことを考えれば…」こういう日本人の考え方は、ここに書き記しておく「価値」がある。」

9月3日 山下奉文大将、フィリピンで降伏文書に調印。
進駐軍、全国の駅名、主要道路名をローマ字で表記するよう指令。
九州進駐の米軍第一陣が鹿児島県の鹿屋飛行場に到着。

山下惣一さん(69 農民作家)昭和20年のこの日は、佐賀県唐津の国民学校三年生だった。新学期になり学校に行き、あまりの変わりように驚いた。それまで教室の中に張ってあった軍人の写真とか肖像画といったものがそっくり入れ替わっていた。乃木希典大将、東郷平八郎元帥、広瀬武夫中佐、山崎保代大佐…。それらがモーツァルトとかバッハ、フォスター、ベートーベンに替わっていた。山下さんの父親は昭和18年に招集され、奄美大島の部隊で終戦を迎えた。九月になって、復員兵姿で家に帰ってきた。戦時中人影が少なかった町は復員兵や引き揚げ者で一杯になった。人口は増えた。復員は少なかったが、戦争末期から疎開してきた人がいる、それからここは朝鮮半島からの引き揚げ者が非常に多かったですね。ある日の事山下さんの家でも外地からの引き揚げ家族を受け入れる事になった。山下さんは引き揚げてきた子供達がうらやましかった。その年だったと思うんですけど、引き揚げ船があそこの浜で難破したんですよ。全部村の中で割り当てで受け入れたんですね。うちにも母親一人と娘と息子と親子三人を受け入れて、二ヶ月ぐらい置いてたんじゃないかな、山口県の人でしたけどね。外地いった人と言うのは、都会から来た子でしょ、我々とは違うんですね全然。すぐ冬になると風邪ひいて、喉の所にガーゼを巻くんです。あれがかっこよくってね、あこがれたけど、俺一回も巻けなかった(笑)。一番違ったのは我々土着の子で、生まれて育ってる者達は本を買って読むという週間が全く無かったですね。私、本好きだったけど、一年に一冊しか買ってもらえないという時代でしたから。引き揚げ者は本を買って子供に読ませるという習慣があったんでしょうね。ちゃんと漫画とか雑誌とか子供に買ってやるんですよ。子供が学校に持ってくるわけだ。それをガキ大将が取り上げて、自分で読めないもんだから、俺は読み方上手かったから、おい惣一ちょっと来い、という事で俺が読むわけですよ。みんなわっーと集まって、私毎日読んでましたけどね。それで文章の書き方を覚えたような気がするんですよ。

漫談家、徳川夢声の日記「“戦争が終って”でなく“戦争が敗けで好かった”と思われる点はないか?万一勝ったとしたら、軍人は益々猛烈に威張り、役人は益々横暴になり、神がかり連は凱歌をあげ、一般大衆は人間扱いをされなくなっていたであろう。実に、私たちにとってやりきれない日本になっていたろうと思う。敗戦は情けないことに違いないが、首相の宮殿下のご意見を伺った時、敗戦も悪くなかったと感じた。

9月4日 米軍の進駐を受けて、神奈川県が女学校の休校を指示。

9月7日 ミンダナオ島で第35軍参謀長、友近美晴少将が米軍に降伏調印

日野原重明さん(93 医師)聖路加国際病院がアメリカ軍の病院として接収された。交渉役として奔走した。2週間で病院を明け渡して欲しいと言われた。患者を移す努力をした。300人ぐらい入院していた。歩いて帰れるような人は疎開して田舎に行きなさいと言ったんですが、担架で運ばなければならない人はどこかの施設が無いとダメですから、八王子方面とか、鎌倉とかに運び、早く動ける人から病院を開けてもらうようにやりましたが、大変でしたね。9月の半ばにはすっかり病人がいなくなった所にアメリカの軍医団が来て、レントゲンの機械はこのまま、後の手術の機械などは我々は持っているからそれは使わなくても良い。おそらく私達の使った道具は、アメリカには古過ぎて、野戦病院で使っている手術器具のほうが良いと思ったんでしょう。私達が使っていたレントゲンのフィルムの大きさは、彼らが使っていたのの半分以下で、向こうの人は大きいですから。フィルモも用をなさないと言うので、私達は持ち出しました。彼らが接収をして、病院の運転を始めるやり方のスマートさとスピードが速いのを見てね、これじゃあ日本のスピードはスローでレベルが低いから、戦争も負けるのは当たり前だなあと言う事になって。仕事場を失った日野原さんは、その後無医村での診療を始めた。助けてくれたのは米兵のボランティアだった。ずっと奥深い所、お医者さんもない所で、満州から引き上げた人とか色んな人が声をたててるんです。そういう所に私は日曜日には出かけていって、行くのに自動車が無いから、ジープが欲しいから、GHQ(連合国軍総司令部)の人に会って、誰かボランティアで、教会関係の兵隊がおれば、教会の事業としてやりたいから、一緒に付き合ってくれないかって。その時には薬が無いから、薬も寄付してもらえないかって言ったら、薬とか色んな物を寄付してくれる。だからアメリカは兵隊でありながら、向こうのデューティー(勤務)でない時は自由にボランティアをやってもいいと言う事で、軍服を着たまま。そうするとGI(米兵)はねえ、コーラーなんかは一緒に持ってくれるんです、車に。コーラーを一杯、氷で冷やした奴を、嬉しかったですよ。コーラーに氷を入れて飲みたいなあと言う気持ちは大人にもあるんですね。

9月8日 連合国軍、東京に進駐。
ブーゲンビル島で第17軍司令官と第8艦隊司令官がオーストラリア軍に降伏調印。
ルソン島の第41軍司令官、横山中将、米軍に降伏調印。

小山明子さん(70 女優)埼玉の国民学校5年生だった。昭和20年のこの頃、元の軍の兵舎が解放され、疎開していた農家から引っ越した。旧陣地って言ってたんですけど、兵舎ですね、疎開してるもんだけが優先的に借りられた。周りはよしず張りみたいだったと思うんですけど、ちゃんと屋根があって一戸建て、二部屋です。前は豪農に疎開していて、十畳のお部屋が4つもあって、その一部屋をお借りしていた。戦争中は母が自分の御召しとか自分着物を、わたしは割りと良い着物でもんぺを作ってもらった。もんぺって言うと普通は絣っとかなるけど、うちは御召しとか大島とか上等の着物で作ってもらった記憶があります。後、お雛さんの毛氈、お雛さんは疎開しなかったんですけれども、毛氈はネルって生地が厚いから、それでパンツを作ってくれて、赤いパンツをはいてました、私は。9月にはいるとすぐに学校が始まった。7月に大阪から移ってきた小山さんは埼玉の国民学校に転入した。まず、裸足でみんな学校に来るのね。田舎の子だから、皆農家の子で。私は運動靴はいてるじゃないですか。からかわりたりね。いたずら小僧に蛇持って追っかけまわされたりね。学校からイナゴ取りに行くんです。カルシウムじゃないですか、イナゴは。ガーゼの袋みたいなの持って、竹筒をガーゼの袋を入れて、縛るのね。それでイナゴを入れると出られないでしょう。音楽の時間が一番楽しくて、色色な唱歌とか、昔の子供の歌なんですけど「春が来た」とか、でもその時に、ああすごく、こんなに良い気持ちで、それは戦争が終ったから出きるんだってすごく実感しましたね。それまではあんまり大きな声出さないとか、大阪でも空襲になれば逃げなきゃ、空襲警報っていうとみんなうちに帰りましたから、それがまったく無くって、のびのびと、それはすごく嬉しかった、音楽の時間が。

9月9日 米兵による強盗事件、銀座大森で起きる。
支那派遣軍総司令官岡村寧次大将、南京で中国軍への降伏文書に調印。
日本放送協会、歌謡曲と軽音楽の放送を復活させる。

9月10日 オーストラリア軍がラバウルに進駐

9月11日 連合国軍総司令部、東条英機ら39人の戦争犯罪人の逮捕を命令。
東条英機元首相、ピストル自殺を図るも失敗。
米陸軍省、山本五十六連合艦隊司令長官の戦死について暗号を解読して待ち伏せ、撃墜した事を公表。

山藤章二さん(68 イラストレーター)当時8歳。国民学校3年生だった。昭和20年のこの日、山藤さんは自宅近くの目黒駅周辺で友達と遊んでいた。そこで初めてアメリカ兵を目撃する。当時目黒駅の売店を母はやっていた。売店で遊んでいる時に僕は初めてGI(米兵)なる者に対面したわけですね。当時までは非常にアメリカ兵ってのは日本人は怖がってました。鬼畜米英というスローガンが全国民知ってたしね。それから赤鬼と盛んに言ってましたね。ある日売店にいましたらね、四人連れの米兵が何か物を訪ねて売店の前に並んだんですね。それはもうほとんどまさに壁ですよね。狭い売店の表に2メーター近い男が四人並んで、フェンスですね。物を訪ねたんでしょう。でも英語だし、母親がもちろん応じられるべくもなく、何かジェスチャーで断ったら、行ったんです。僕は裏手からすっと出てって、彼らは何をするんだと好奇心で後をつけてったんです。目黒駅の線路の上にかかっている陸橋の上にすずめのようにポッポッポッポッと腰掛けて雑談をしてるんですね。日本人は高い欄干の上に腰掛られるなんていうな体型じゃないんだけど、彼らはヒョンヒョンてね、まことに小鳥のように並んでてね、線路ですからね、そんな危ない所で、冗談言いながら笑いさんざめいてる。一々の行動がまことに日本人とまったく違うんですね。駅の構内にいた靴磨きのオジサンの所に足をヒョイと乗っけて磨かせてる。そばに行ってジーと見たら、僕の目の高さが彼らのヒップなんですよ。足が長いですからね。軍服の中ははちきれんばかりの筋肉ですね。出てる腕は毛むくじゃらですよね。それからある種の、異臭っていうのかな、西洋人独特の匂いが、体臭ですね、そういう色んな五感全てが違った人種、違ったカルチャーを感受してね、非常に子供にとっては鮮烈な記憶ですね。僕の友達で、誰か、言うとガムやチョコレートくれるぞと言う話を聞きましてね。何て言うんだってったら、「ギブミーチョコ」とか「ギブミーガム」って言えって言うんですよね。それ覚えて、側によっては「ギブミーチョコ」「ギブミーガム」って言うとね、尻のポケットから出してくれるんですよね。赤鬼どころかサンタクロースみたいなもんですよ。一遍に親米派に転んじゃいましてね、情けないんだけど。

9月12日 シンガポールで英軍への正式降伏式。板垣征四郎大将が出席。

石井好子さん(83 シャンソン歌手)当時23歳。昭和20年のこの頃、石井さんは夫が結成したジャズバンドに歌手として参加することになり初舞台を踏もうとしていた。夫は突然ニューパシフィックオーケストラっていうジャズバンドを結成したんですねえ。そしてそのリーダーだったのは森山良子さんのお父さん、森山久さん。トランペット吹いて歌う方だったんですね。森山久さんは「ゼロアワー」(戦時中の米軍向けのラジオ番組)の一員でアメリカの2世でございました。そんな関係で、森山さんと親しくなって、ジャズのバンド作ろうという話しになったんでしょうけど、そのあたりは私は何の相談も受けて無いし、わたしは自分とジャズっていうのはとても遠いものだと思って、ドイツ歌曲を専門にしてましたから、何もわからないし、わからない人に話しても仕方が無いって思ったのか、聞いてないんですね。突然ある日「ドリーム」っていう歌の譜面をね持ってきて、ちょっとこれ歌ってくれよって言われたんですね。とても綺麗な歌で、これなら私歌っても良いかな~なんて言ったら、そうそうすぐ歌って欲しいんだって言うから、ええーって言ったら、作ったジャズバンドが今度進駐軍のいるとこで演奏するのに歌手がいないから、一曲で良いから歌ってくれってこう言われたんですね。なにしろ日本にもジャズの演奏者は沢山いらしたんですよね、戦前は。ところが戦争中ずーっとジャズは禁止になって、敵国音楽っていうんで、禁止されて、うずうずうずうずしてた方達が、ジャズバンド結成って言った時、パッーとみんな手上げてね、一流中の一流の人達が集まったジャズバンド、それが「ニューパシフィックオーケストラ」と言ったんですね。22,3人のメンバーだったかしら。9月のある日ですよ、覚えた歌でね、着る物無いんですよ、もんぺとかね、よそゆきの洋服なんて無いから、ブラウスにスカート履いてご出演ですよ。行った所はね、私の記憶では横須賀だと思うんですけど、電車に乗って行ったんですよ。横須賀の米軍キャンプに連れてかれて。何しろジャズバンドが素晴らしいんですね。だから熱狂したんですよ、米軍達が。万雷の拍手で、みんな騒いで、大騒ぎ。特に私なんか綺麗なイブニング着てたわけでもない、ブラウスとスカート、若かったから、出てっただけで、私の声なんか聞こえないですよ、キャーと言われて。その中で「ドリーム」って歌いましたね。それが私の戦後のデビュー。

作家、当時医学生の山田風太郎の日記「「東条大将はピストルを以て……」ここまできいたとき、全日本人は、「とうとうやったかー」と叫んだであろう。来るべきものが来た、という感動と悲哀とともに、安堵の吐息を吐いたであろう。しかし、そのあとがいけない。まぜ東条大将は、阿南陸相のごとくいさぎよくあの夜に死ななかったのか。なぜ日本刀を用いなかったのか。逮捕状の出ることは明々白々なのに、今までみれんげに生きていて、外国人のようにピストルを使って、そして死に損っている。」(私は自殺なんかそう簡単に出来ないと思います。死刑になるまで生きてたって良いじゃんと思います)

9月13日 戦犯指名された小泉親彦元厚生大臣、自決。
東ニューギニアで第18軍司令官がオーストラリア軍に降伏調印。

常盤新平さん(作家 74)当時14歳。仙台で中学2年生。アメリカ兵は日本各地に駐留していた。常盤さんは日米会話手帳と言う本を買った。今の文庫本の半分ぐらいのサイズでしょうか。60ページありましたかねえ。背とじのね、ホントに薄っぺらな本です。中身は道案内だとか、食べ物屋での案内だとか、簡単に書いてます。今は何時ですか、時間の聞き方とか、英語で書いてあって、左のページに英語が書いてあって、右ページに翻訳が書いてあって、英語の活字の上にはカタカナで発音が書いてあったんじゃないかと思います。せっかく手に入れた日米会話手帳だったが、常盤さんは使わずじまいだった。それ見てたら間に合わないから。実際には街角のアメリカ兵、黒人の兵隊もいたし白人の兵隊もいましたけど、話しかけるチャンスは無かったです。近づく事がかなわなかった。みんな、気後れしてたんじゃないかと、特に東北の人間ですから、気後れして話しかけなかったんじゃないかと思いますね。

9月14日 元文部大臣、橋田邦彦、自決。
日比谷公会堂で日響定期演奏会が再開される。

9月15日 神宮外苑野球場、競技場、進駐軍による接収決定。

堀田力さん(71 弁護士)当時11歳。昭和20年のこの日は疎開先、兵庫県浜坂の国民学校5年生だった。戦争が終って、学校での教え方はガラッと変わったですよね。それまでは堅苦しくて、うっとうしくて、重苦しい、そういう学校だったのが、戦後、自由、解放と言うことで、あれぐらい爽やかと言いますか、気分が転換した事は無いですね。戦争中はそんなもんだと思ってるわけですよね。クラスの先生ももちろん軍隊方式で、若い当時独身の先生が問答無用と書いた棒を持っておられて、それでいきなりガーンとやられるんですよね。問答無用ですから何でやられたのかわかんないし、聞いても問答無用なわけですから。それが戦争が終って、まず問答無用棒が消えますよね、軍事教練が消える。こんなにすがすがしい事は無いですねえ。堀田さんはこの年の通信簿を大切に保存している。一学期と二学期で明らかな変化があった。武道が無くなってますね。この武道でやられたんでしょう、軍事教練は。一学期は体錬には根気を持ち当たる事、二学期は体操見学をしたから。もう戦争終っちゃって自由になってから、体操サボってたんじゃないですかね。ホントに体錬がいやだったんですよ。休めるようになった所が大変化ですよ。二学期になっても、これまでと同じ教科書が使われたが、いくつかの科目では生徒自らの手で修正が行われた。墨を持って来いって言うんで、墨を持ってきて先生のおっしゃる所を消していく。もう戦争の嫌な所を押し付けられる所、そういう所がどんどん消えていく。それまでは軍国主義一本で、ぶん殴ってた先生が、ここを消しなさいとおっしゃるわけですからね。これも不思議な感覚で、うーん、大人ってそんないい加減なのかって思いも一方ではやっぱりありますよね。非常に大人に対する不信感、勝つと言ってて負けた、そういう大嘘つきの大人。その大人達が、どんどん、先生も含めて新しい価値観に変わっていく。それ自体は快い事なんですけど、同じ、子供にとっちゃ、ずっと信頼してきてるその大人が、180度変わって行って、前の事謝った人が誰もいないですよねえ。謝らない。間違った事を教えたんなら、間違ったっていう事をまず謝らなきゃ、勝手にすぐ消すだけで済むのかと。戦争にあんだけ勝つと言って、なぜ負けたんだ。負けて、それが良いっつんなら、そこはなぜなんだ。そういう事も教えてもらえない。で、本人は謝らずにケロッとして、今度は新しい事を教える。大人は信用できないと言う思いも非常にありましたねえ。

9月16日 香港守備隊がイギリス軍に降伏調印。

9月17日 枕崎台風が西日本で猛威。死者、行方不明者、3756人に及ぶ。
マッカーサー元帥、日比谷の第一生命ビルの連合国軍総司令部に入る。
重光葵(まもる)外相辞任、後任に元駐英大使の吉田茂。

9月18日 赤木春恵さん(81 女優)戦争中、かつて満州と呼ばれていた中国東北部で軍や開拓団の慰問活動を行っていた。昭和20年のこの日はソビエト軍占領下のハルビンにいた。当時の赤木さんは兄嫁とその子供との三人暮らし。身の回りの物を売ってようやく食いつないでいた。街路で日本人の着物売ると、絹なので、長襦袢なんかロシアのおばさんがワンピースにして着るんですね。後で見ましたけど、なるほどと。そういうのが売れたのが食べる事に助かりましたね。バザールに買い物に行くんです。お米も一斤、二斤(一斤=600グラム)とか、そんなような買い方でしたけど、少しずつ少しずつ勝って持って。パンパンと銃声は非常になるから、ピタッと陰に隠れて、両方見て、ダッーと走る。初めは北京旅館という所、旅館と言っても旅館ではないですが、大きな建物の一階に私達はいました。ソ連が来ると同時に、日本人は五階へって言うので、五階へ上がって、中国人が四階とか、三階まではソ連軍が全部入ってきたもんですから。ソビエト軍の日本女性に対する暴行は日常化していた。赤木さん達は怯えた。夜になってくると、ドンドンドンドンって、女を見つけて、日本人のいる階へドンドンドンドンやって来て。ホントはいけない事なんでしょうけど、若い兵隊がやってきて。戸を開けないと小銃みたいな、マンドリンみたいなのでダダダダダッとやられますので、そうっと戸を開ける。私達はね、良い考えがありまして、女優ですから、夕方になるとお婆さんに化けちゃうんですよ。一番汚い衣装を身にまとって、顔はもうどうらん塗って、影をつけて、頭はねえ、粉白粉とか練りおしろいでサッサッサッと刷毛でやって、白髪になります。とても汚い女達の集まり、3,4人おりましたけれども。ドンドンドンって、フッと開けたら、変なお婆さん達がいたら、ニェ・ハラショ(ここは駄目だ)って言って又次を探す。それで私達はホント命を救われましたねえ。

」9月19日 GHQ,日本の新聞に対し規制。連合国に対する破壊的批評や公安を害する記事を禁止する。
内務省、民間の刀剣所持を禁止。日本放送協会が実用英会話放送を開始。

服部公一さん(72 作曲家)当時12歳。昭和20年のこの日は山形市にいた。前日住んでいる町に米軍が進駐してきた。ほんのわずかの間に山形の少年にもアメリカ人や英語が身近な存在になっていった。英語会話のパンフレットみたいなのが売り出されて、それを買って持ってきた奴がいましてね。新聞紙みたいな粗末な紙に印刷してあり、それを畳んであるだけで、切ってないんだよね。カタカナで「ハウ ド ヨ ドウ」「ナイス チュー ミーチュー」。僕の一番側にいたのは、たぶん司令官だと思うんですけど、ホスカ中佐ってのがいたんだよね。なぜホスカって名前を知ってるかと言うと、表札にカタカナで「ホスカ中佐」と書いてある。ホスカ中佐がいなくなってもホスカ中佐と書いてあるんですよ。

当時医学生だった作家山田風太郎の日記「鈴木前首相が米人記者に、大命降下当時から和平工作の意志があっただの何だの、得々として語っている。しかも国民には最後の一兵までとか何とか演説しなければならなかったこともよく分る。しかしである。彼の叫びに応じて死んでいった特攻隊があったということを思わないのか。東条でもそうである。死に損ったのち、なぜ敵将に自分の刀など贈ったのか。「生きて虜囚の恥しめを受けることなかれ」と戦陣訓を出したのは誰であったか。」

9月20日  東京湾で大量の鰯水揚げ。都民一人当たり五尾配給。

船越義彰さん(80 作家)昭和20年のこの日は沖縄本島名越市久志にある収容所にいた。けして良い生活環境とは言えなかったがそこにいる誰もが明るかった。一つのうちに何所帯も入った。ヤギ小屋やブタ小屋にわらを敷いて(ヤギ、ブタはいない)、屋根をつけて寝た。汚くないです。綺麗でした。一番何と言っても良いのは弾が飛んでこないと言うことです。みんな同じような境遇だったので、バカにしなかった。思いやりもあった。沖縄の言葉で誠になったと言いますが。船越さんは市役所から呼び出しを受けた。ローマ字が書けるかと聞かれ、書けますと言ったら、書記に採用された。名簿を作るのはアメリカ人との関係なので、名前、性別、歳、本籍地、それをローマ字で書かなくちゃいけない。現物給与だった。避難民は一日一合いくらあたりの配給があるんです。現物給与として配給券をもらった。芋一斤とかメリケン粉一合とか。普通の避難民でも作業に従事してるんです。村の作業です。農耕班(農耕地に手を入れる)、清掃班(村の道を綺麗にする)、漁業班(魚を獲りに行く)、衛生班(汚物を担いでいく)、そういったもので作業に行くと現物給与をもらえる。沖縄では戦後餓死した人はいなかったと思うんです。

漫談家、徳川夢声の日記「焼酎を飲みつ放送を聴く。邦楽小品集というもので、まず小唄勝太郎である。その中の「お染」というので“恋ざかり”という文句が出る。此間までこんな文句は絶対マカリナランものであった。吉村りうの小唄“とかく浮世は色と酒”なんて文句が出てくる。えらい変わりかただ。霧島の「誰か故郷を思わざる」。これは聴いているうちに、つい引き込まれて了う。これを聴いていると、悲しい寂しい気持ちになる。

9月21日 山田耕筰を団長として東京音楽団が結成される。

9月22日 GHQ、原子力に関する研究の禁止を命令。
GHQ情報部、映画制作会社代表を集め、民主化促進、軍国主義撤廃などの政策方針を通達。

宮沢喜一さん(85 元内閣総理大臣)当時25歳。昭和20年のこの日は戦後すぐ発足した東久邇内閣の大蔵大臣秘書官だった。この内閣で最初に議論されたのは、進駐軍が来てからの治安問題だった。閣議で一番最初に決めた事は慰安所って言うんですか、女性達のクラブみたいなものを、大森海岸に作ったんだと思いましたけどねえ。私の経験によると実にアメリカ軍の軍規とういうものは、しっかりしてましたねえ。進駐軍の先遣隊は日本に入るとすぐに、占領統治の準備を始めた。大蔵省には建物を明け渡すように命令してきた。私秘書官やってましたが、大臣室へ指令書を持ってきまして、3日間、72時間だったかなあ、明け渡せと言う。有楽町にあいてる銀行の建物を借りて、大臣室はそこにいたんですねえ。この時宮沢さんは大蔵省の倉庫に米軍に引き渡すのが惜しい品物が大量に貯蔵されている事を知っていた。当時大蔵省は塩を管轄してたんですねえ。専売だったんです。塩を大蔵省の倉庫に持っていたんですねえ。それを占領軍に引き渡さなければならない。塩というのは大変貴重な財産なんで、何とかして占領軍が来る前にどっかに移せないかなあとみんなで苦労した覚えがあります。夜中に持ち出したような記憶がありますけどね。

喜劇俳優、古川ロッパの日記「電車が来ると大混雑、えいと飛び込むと、生憎米兵が沢山乗ってゐる。一人の米兵が、「タバコ」と僕に呼びかける。見るとチェスターフィールドの十箱包を見せて、「スリーハンドレット・フィフティー」と言う。相場ぢゃ三十円故、高いのだが、「オーライ」と、ズボンへ手を突込んで三百五十円出すときの格好は自分乍ら、いやな姿であった。それから此奴、缶詰を一つ出して、「フィフティー」と言ふ。手にとってみると「ビーフ・ベヂタブル・スチウ」とある。これも買はされた。

9月23日 進駐軍向けラジオ放送AFRS放送開始。
京都大学グラウンドで戦後初のラグビーの試合開催される。

金子兜太さん(86 俳人)当時26歳。昭和20年のこの日は捕虜として南洋のトラック諸島にいた。もともと日本海軍の基地だったこの島に上陸した連合国軍は残っていた日本兵を一箇所に集めた。日本軍の中心基地は夏島だったわけですね。そして春島があり、秋島があり、冬島があり。春島に米軍が進駐してきた。春島に日本人の軍人、軍属を集めた。そして捕虜収容所に入れさせられた。連中はガムガムガムガム、日本軍との交渉の間にも噛んでいた。

9月24日 BC級戦争犯罪人が発表される。
8月24日の皇国義勇軍による島根県庁襲撃事件、一ヶ月ぶりに記事解禁となる。

9月25日 関西進駐の米軍第一陣が和歌山に上陸。青森、新潟にも進駐。
山下奉文大将がマニラの戦犯裁判で起訴される。

妹尾河童さん(75 舞台美術家)当時15才。神戸の中学3年生だった。昭和20年のこの日妹尾さんは関西への第一次進駐軍が神戸の町にやってきたのを目にした。この日、進駐軍ってどういう兵隊達か見に行った。三日間学校休みで。混乱を避けるためにって言うんでね、とにかく街の中へは出るなと言われた。進駐軍がやって来るはずの道っていうのは、両側に警官が並んで、非常にビクビクしてました。やってくるのを見てびっくりしたのは、みんなジープに乗ってくるんですね。なぜビックリしたかと言うと、日本の兵隊は歩兵と言うのは、歩く兵隊なんですね。車に乗って戦争なんかしないんです。彼らはジープに乗ってやってくる。あるいはトラックの乗ってやってくる。全部車です。そして彼らは手を振ってね。沿道の市民達も、この前まで鬼畜米英と言っていたのに、みんな手を振ってましたね、歓迎の意味で。僕がビックリしたのは彼らが持っている銃なんです。僕は教練射撃部というのに入っていたんです。教練射撃部と言うのはおそらく兵隊よりも沢山に実弾射撃をさせられたと思うんです。本土決戦に備えて、敏捷に動ける中学生の方が使い物になると思ったんでしょうね。後で沖縄の少年達が実際に戦ってますから。一発一発、精神を込めて、必ず狙って撃てと言われたんです。弾を無駄にするなと言われて。三八式歩兵銃で訓練したんです。これは実弾を五発入れる事が出きるんです。撃ったら、槓桿(こうかん)を引っ張り、薬きょうが飛び出し、次のが入る。どんなに早くても、一旦引っ張り、又入れてという作業をしないと撃てなかったんです。アメリカ兵はすごく短い銃を持ってたんです、ジープの上で。もっと見たいと思いました。何だと思いました。槓桿が無く、弾が入っているらしい箱がある。もっと見たい。何とかしてアメリカ兵のいる所に行こう。アメリカ兵の病院に行ったんです。慰問と言うことで。彼の似顔絵を描く。描いて親しくなったら銃を見せてもらおうと思ったんですね。案外簡単に見て良いよと言うことで、持ってきてくれたんです。触ったら軽いんですねえ。三八式歩兵銃というのは3950グラム。四キロ近いんですね。アメリカ兵の銃は目方を量ってもらったならば、2500グラム。箱の中に15発の弾。しかも、引いて、最初の弾を送り込むと後は引き鉄を引くたんびに、撃ってたんですね。三八式歩兵銃と言うのは、明治38年に制定された銃なんです。昭和20年まで40年間も使われていた。だからこの間に改良が無いんですね。小銃の差は戦争の始まる前からあったんです。

9月26日 青島幸男さん(73 タレント)当時13歳。東京の中学一年生だった。昭和20年のこの頃、復員してきた父親が、稼業の弁当屋ではなく、日本橋で旅館を始めると言い出した。終戦一ヶ月経ってからの話しだけれど、前にうちの、強制疎開で壊されちゃった弁当屋があったんだけれど、その前のうちに子供の頃から眺めてた病院があったんだよね。元、軍医さんだった人が主治医をやっていたささやかな病院なんだけど、そこが6,7部屋あって、二階にもトイレがついてるし、下にもトイレがあるし、お風呂場もある。ここを上手に改造すれば、旅館になるんじゃないか。元々日本橋って言う地区は呉服屋さん、問屋なんか多かったし、幸か不幸か焼け残ったからね、繊維の名所の関西辺りからも、多くの売り手だとか、買い手だとも来るんじゃないかなと。そうなりゃ旅館業をするともうかるぞ。少なくとも子供らと一家の食うに困らないぐらいの生計は立てられるはずだって計算をしたらしいんだな、親父が。父親は半分焼けた病院を旅館に改築するため、材料集めに走り回った。親父が木場行って、材木を石(こく)で買っちゃうんだ。尺の角でね、二間の奴を一石(いっこく)って言うんですよ。これ一石でねえ、板にして何枚取れるからね、計算尺なんか使って即座に計算しちゃうんだって。それでこれを何枚、何ミリの厚さの板に挽いてくれってねえ、挽かせてねえ、すぐ大工に削らしたりなんかして、うち立てちゃうんだよね。屋根の葺くのに、ブリキの板が何枚あったら、何坪になるからね、いくらになるって計算をすぐ計算尺でやってね。その頃トタン板なんて闇だったんだよね。それ仕込んできてねえ。その頃屋根屋さんも、そこまで手が回らなかったんだね。全部親父がやってね、旅館にしましたよ、病院を改造しました。うちの旅館を利用なさる木綿問屋さんが多かったですね。お勝手でも良い、寝床無くても良いから、泊めてくれって人で満杯だった。部屋数にして7,8部屋しか無かった旅館に多い時で40人以上泊めたって言うんだから。だって断っても断ってもお客が来ちゃってね、台所でも風呂場でも良いから泊めてくれって言うんだって言うんだから困ったもんだよね。三食なんかもってのほかだ、外食券食堂に行ってめしを食ってくれば良いんだから、泊めるだけ泊めてくれって言ってね。とにかく日本橋界隈にいなきゃ商売になんないって事でね。旅館でお互いに持ち寄った品物をその場で売り買いして、商売にして、そのまま帰っちゃった人もいるくらいだから。旅館をアパート代わりにする長期滞在者もいた。中にはね、何か良く分らない入れ墨の先生なんてのも、住んでたりしてね。カストリなんて言うのがあったんだね。メチルアルコールを水で薄めて、酒に入れて飲んだりして、メチルアルコール中毒なんてのがね、盛んに出た頃だよ。その頃その入れ墨の先生がね、ある日突然、メチルアルコール中毒で死んじゃったりしてね、大騒ぎだった事があったんだねえ。

当時医学生だった作家、山田風太郎の日記「午後、寮のおばさんと林檎を買いにゆく。全部で十五貫買う。一貫十六円也。「ポリに気をつけておくなんしょ。どう逃げるかって?ま、何処で買ったかと問います。知らんなぞいったら、そらっとぼけるなと叱られますよって、正直にいったほうがええ。値は勿論公定で一貫三円……」と、老翁大いに心配す。狡猾と傲慢その面にてらてらと赤く輝く。戦争中に農夫が得たる新しき表情なり。

9月27日 天皇、マッカーサー元帥を米国大使館に訪問。

津本陽さん(76 作家)昭和20年のこの日、関西に進駐するアメリカ軍が、和歌山に入ってくるのを見物に出かけた。一杯なんですよ。手前の方は小さい駆潜艇とか駆逐艦とか、だんだんだんだん巡洋艦になって。それで奥の方に戦艦とか航空母艦が並んで。その間に水兵が小さいモーターボートに乗って、一人乗りのね、立ったままで、今の波乗りするようなああいうちっこい板にエンジンついている。そんなんでパッーと方々連絡に走り回ってる。台風と言うほどのものでもなかったんですけれどね、吹いたんですね。そしたらアメリカの海軍と言うのはそういうの知らないんですよ。和歌浦にはずっと防波堤がありますからね、すぐ側についた(?)駆逐艦や駆潜艇がね、みんな乗り上げるんですよ。それを見物に行っていた我々ぐらいの若い男の子がね、わっと呼びかける。向こうが最初呼びかけて来たのかも知れないですよ。一杯舷側に集まってね。いつのまにやらお互いに歌のね、交換が始まったんです。9月ごですから、暑いから夕方からですね、堤防の上に若い男が一杯になって、一杯電気つけましてね、サーチライトも照らして、歌の交換をやるわけです。その当時の流行歌を歌うと、向こう方はそれに対して二部合唱なんかやるんですよ。それでまたこちらの方は合唱したりね。向こうも褒めてくれたりするんですよね。それで「アンコール」なんてやるわけですよ、こっちも。向こうはもう喜んでね、又歌う。それでねえ、口笛を吹いたりねえ。そのうちにね、ロープを向こうから投げてくるんですよ。カゴがスッーと下りてくるんです。それにね、物々交換しないかと英語で書いてあるわけです。日本人形とかね、ちょっとした瀬戸物とかを入れて、紐を堤防の上に上がると、向こうの方にピューッと下りていくんです。中にラッキーストライクとかねチェスターフィールドとかねキャメルだとかカートンで五つぐらい入れてくれるんです。お菓子とかもねくれるんです。パイナップルの缶詰だとかね。それでみんな家の中の要らない物捜して、便所に置いてた香炉とかね。そうすると思いがけないものをくれるんですよ。

漫談家、徳川夢声の日記「中野花柳界ノ小母サンアリ、アメリカ兵タチノ女買イノ実情ヲ語ル。大和撫子ノ特攻隊ノ話大イニ銘記スベシ。或る夜、一人の妓の酔いたるが、憲兵にしなだれかかり、正にキッスせんとす。この状を見て、群集の日本男児ども、彼女を罵る。彼女柳眉を逆立てて曰く、「あたしたちがいればこそ、手前たちの嬶アや娘が無事でいられるんだよ。何を言ってやがんだい!」と。日本の男ども、グーの音も出でざりし」となり。

9月29日 三木睦子さん(88 三木武夫記念館館長)当時28歳。昭和20年のこの日は夫で、後に首相となる国会議員の三木武夫と目白の雑司ヶ谷に暮らしていた。夫の三木武夫は留学経験もある米国通だったが、戦時中に国会議員であった事の責任を感じ、政治家を止める決意をしていた。 大変なショックで、彼は田舎に帰って頭でも丸めようかぐらいの事考えたんだろうと思うんだけど、私が「そうはいかないでしょう。みんな、アメリカの事なんかろくすっぽ知らない人がね、そこらじゅううじゃうじゃいるんだから」って言って、だからむしろ、又アメリカの事も良く知ってるんだから、国会に留まっても少し日本の国のために働いたらってそう言ったんですけれども。なかなか本人はね、辞めようと決心していて、考え込んでたようですけれども。再出発を決意した一家は、雑司ヶ谷で借家生活を始めた。そこには多くの人が集まってきた。学生さん達も下宿屋なんてないから、みんなぶつぶつ(?)寄って来たりするから、満州やなんかから引き上げてくる人はどういうわけだか、ちょっと足場(?)に寄るんですよ。満鉄のお偉い理事かなんかした方も、単身、奥さん達どこへ疎開してるのかわからなくて、単身引き上げてきて、いるとこ無いから、三木さん、お世話になるわ、なんて言って。それから、親戚の者も、夫婦で子供を2,3人連れて、そんなに大勢泊まれないのよって言ったんですけど、まあ、一日二日泊まって、郷里へ帰っていく。その他、まあまあ、色んな人がやってきてましたね。満州から引き上げてきたってあれ、満鉄の社員でもあったのかしら、まっ白い綺麗なズボンをはいて、いやにダンディーなのもいましたよ。東京の連中はすすだらけ、汚れてひどいのにね。家には常時20人以上の居候がいた。生活費はどんどんふくれあがった。食事なんか毎日おいもですね。までも、徳島っていうねえ郷里がありますから、お米なんかもこそこそ運んでもらったり、良いおイモも結構届いてきたり。ただやっぱり夜通しおイモを焼かなきゃいけないから、8本なり、10本なりを、大きな電気コンロの中へ入れて、焼くわけです。夜中にメーターが回ると、電気代が大変だから、メーターを朝、ひっくり返すわけね。回っちゃたぶんを元に戻すと。でも、そういう事上手にやるお嬢さんがいましてね、ちょっと踏み台持ってきて、こうやって天井あれして、回すわけ、毎日。で、みんな、協力してそれぞれにね。朝、新聞にくるんで、おイモを持ってでかけ。でも、そりゃあお手洗いは、ずらっと並んだお手洗いが、臭くなってね。すごい臭いんですよ、おイモなんかばっか食べちゃって。

9月30日 金田龍之介さん(77 俳優)当時17歳。大阪都島工業学校の4年生だった。昭和20年のこの日、母親と一緒に集団疎開している妹と弟を迎えに行った。貨物列車に乗せられた。座る所の無い普通の貨物列車。夜中に敦賀かどっかに止まった時、貨物列車って止まるときガターンガタガターンとなるのね。そのたんびに目が覚めてね。妹達が疎開していたのは石川県小松のお寺だった。妹はお寺の庫裡の濡れ縁みたいな所で集まって遊んでいた。僕達が入ってきたら、おかーちゃん、にーちゃんってニコニコしながら飛び出してきた。弟の方は又違う所のお寺にいたんですよ。妹を連れて三人で違うお寺へ行って、金田壮輔って言うんですよ、壮輔はいますかって言ったら、寄って来るんですね、子供達が。ジッーと顔を見て、ポカーとして見てるんですが、壮ちゃんって見たら、いたんですね。何か知らないけれど、しりごみしましてね、あんまり物も言えないような、泣きべそかいて。そのうち馴れて。脚もこんな細いんです(手で握れるぐらい)、手でもね、ひょろひょろと背だけ伸びて、顔が細いもんだから、可哀想だなあと思ってね。あんまり惨めな形だったんで、お母さんが近所の温泉で一泊させてやろうと、おできなんかも出来てるしね。山中温泉に行って、旅館捜して、一軒入って聞いたんですけど。上から下までじろっと見るって感じですね、女の人がね。結局今うちは一杯です、お泊めする事出来ないわって言われて。もう一軒、ちょと規模が小さい感じの温泉旅館でしたが、そこに泊めてくれて。その時妹が、お寺に特攻隊の兵隊さん達が沢山いて、可愛いお嬢ちゃんや、お嬢ちゃんやって言いながら、遊びにおいでなんてね言うてくれるんでね、良くちっちゃい女の子同士連れ立って行ったなら、喜んでくれたわ言うてね。歌を習ったとか言ってね、そういう歌を教えてくれたりね、聞かせてくれたりした。貴様と俺とと違うんですね。“重い泥靴”「雨に打たれて アカシヤの 花もこぼれるぬかるみを 重い泥靴踏みしめて 進む緑(?)の戦線へ」って歌なんですよ。


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あの日 昭和20年の記憶 8月編

「あの日 昭和20年の記憶 8月編」

8月1日 漫談家 徳川夢声の日記「前田君が焼夷弾の直撃で、何もかも焼いて了った。ヴァイオリンとスーツ一コだけ助かったきり。この遭難談を、彼はさも愉快で堪らぬという風で語る。その話しぶりに何度も腹を抱えて笑わされた。本来、愉快であるべき筈でないことが、斯うも面白くて可笑しいというのは、人間の性のオモシロイところである。大きにこれこそ大和民族の特色かもしれないと思う。」

8月6日 マリアナ諸島テニアン基地から飛び立ったB29エノラ・ゲイ号が午前8時15分、広島市に原子爆弾を投下。広島の街は一瞬の内に廃墟と化した。推定被爆者数は42万。この年の末までにおよそ14万人が死亡したと推定される。

平山郁夫さん(75 画家)広島の陸軍兵器補給廠に勤労動員され、原子爆弾にあった。8時に陸軍兵器補給廠に行って、朝の点呼を受けて、作業場に数人で出かけて行って、「これから作業しましょう」って言うんで、仲間3人と準備を始めたとこでした。南の方からB29が三機編隊で広島へ侵入してきた。その時ぱっぱっぱっと落下傘を三個ほど投下した。落下傘が開いて、ゆらりゆらり落ちてくる。作業小屋にいた友達二人に、「変な物落ちるから君達外へ見に出ろ」と、最後まで言い終わらない内に、突然ピカッーとものすごい光が周辺を立ち込めて。ちょうど私の目の前で昔のマグネシウムの写真機のフラッシュたいたように。暗い小屋の中が黄色い光で充満される。目と耳を本能的に押さえて、床にうずくまった。這い出してみましたら、真上に大噴煙が、ちょうどきのこ雲の、ていうよりは、普賢岳の火山が爆発したような瞬間だったですね。その噴煙も瞬間なんですけど、真っ赤とまっ黄色とまっ白と真っ黒と紫の大きな煙がうずを巻きながら、段々段々立ち登ってくる。小さな小屋がなぜ助かったかと言うと、すぐ後ろに弾薬箱作る原木のこんな太いのが山積みしてあった。そこを爆風と熱線が来て、上の方にあったやつは吹き飛ばされたんでしょうけど、それが爆風と熱線を守った、シェルターの役目したわけですね。兵器廠の将校に「我々中学生、どうしますか?」「いやこりゃもう、新型爆弾、絶対爆発して、もう見ての通りだ」と言う。「自分の命は自分で守れ」「勝手に逃げて良いんですか」「もう、解散する」「大丈夫ですか?」「大丈夫だ」こりゃしょうがないから、どこかへ逃げなきゃという事で。向こうの方からぞろぞろぞろぞろ傷ついたり火傷を受けたりした避難民の群れが移動してる。みんな麻痺して、麻痺っていうのか、茫然としてるっていうのか、ショックで、口もきかない。ただ生きてる人間もガラスが刺さったり、火傷で皮膚が垂れ下がったり、そういうのは早く亡くなったみたいですけど、それがもうお化けみたいなのがぞろぞろ歩いているわけですからね。背中に子供おんぶして、目の前にいる、明らかに死んでるわけですね。親気づかずにもくもくと歩いてる。黄金山って言って、海に近い所の山まで逃げて、斜面で腰おろして、何時間か広島市が燃えてる、バチバチ音を立てて、ドラム缶が爆発したりして、広島市炎上、どうにも手がつけられないから見てたんですけどね。周辺には負傷者が一杯横たわってる。水くれーなんての、静かになったと思ったら亡くなってる。その時、これは世界のおしまいかなと思ったですね。とにかく全部広島市内は炎上して吹き飛んだわけですからね。

作家、内田百閒の日記「今日から夏服に着かえる。きびら色にて真白ではないが小型機の来襲にそなえて白い物は着るなと新聞などで頻りに云っているので行人(こうじん)や電車の相客の目が五月蠅いから成る可くよそうと思ったけれど外に無いのだから止むを得ない。仲間の目が五月蠅いから、口が八釜敷いから、と云う気兼ねは、満州事変日支事変以来の普通の感情なり。こんな事がどれ丈日本人を意気地無しにしたか解らない。」

8月7日 平山郁夫(75 画家)この日広島県生口島の自宅に帰りついた。惨状を撮影に来たグラマン戦闘機が目の前を飛んでいった。夕方になって山を下りて、東に向かって尾道の方に線路伝いに歩こうと思ったが、まだ火に阻まれた。子供が目がつぶれたり、火傷でふらふらになって目の前で倒れて、なす術もなく手がつけられない。又グジャグジャに全壊した中、火が燃えて来て、親が、この中に子供が埋まってるから、何とかしてあげてーと泣き叫んでも、もうどうしようもないわけですね。中には足を叩き切って、救い出した…。そのまま火事でどうしようもなく亡くなったり、というのを見ながらですね、東へ向かっていつのまにか鉄道線路に出た。夜目にもまだ燃えてますから、暗い中の火事の光を見てると、路肩にマグロを並べたみたいに、亡くなった人や、途中で行き倒れになった人が累々なのですよ。枕木の上を歩いて、時々は路肩に出て、見るともなく見てると、足が切断されてる、骨が見えて、もう血も出てない。暗い中でもお腹が上下してる、まだ息があるんですね。この人、まだ生きてると思っても、そのままぼろ雑巾みたいになってる。そういうのが累々なんですね。海田市(かいたいち)という駅に客車が止まってた。客車の座席で眠りこけてたら、右手の方から光が射して、汽車が動いている。東へ向かってる。周辺は負傷者の人が一杯で、座席に眠る形になってたのが、よっかかって座らされていた。目が覚めた。いつのまにか人を一杯乗せて、東の方へ、負傷者を運んだり、家帰る人を運んでる。駅に止まっちゃ、飛び降りてを繰り返し。私の島影が見えて、みはらし(?)の一つ手前の駅で降りて、海岸へ行って、私の島まで行く手押しの郵便船を探して、家へ帰った。「ただいまー」と帰っていったら、両親がびっくりして、NHKの広島放送がプツッと切れて、しばらくしたら岡山放送にラジオ放送が代わって、西の方から、広島の方から、ドッカーンという大きな音がしたという。それっきりで、プツッと切れて、岡山放送が来て、広島空襲されたけど、損害軽微なりという。私が帰ってきた第1号だった。さっそくみんな集まって、こういう惨状だったと説明したが、誰も信じない。そのうちに傷ついた人がどんどん帰ってきて、私よりうんとひどい情景で、自分も傷ついてるし、というのを見て、これは大変な事になったとという日でした。

作家 高見順の日記「新橋駅で義兄に声をかけられた。「大変な話-聞いた?」と義兄はいう。「大変な話?」あたりの人をはばかって、義兄は歩廊に出るまで、黙っていた。人のいないとこへと彼は私を引っぱて行って、「原子爆弾の話-」「……!」広島の全人口の三分の一がやられたという。「もう戦争はおしまいだ」原子爆弾をいち早く発明した国が勝利を占める。そういう話はかねて聞いていた。私はふーんと言ったきり、口がきけなかった。」

8月9日 午前11時2分、B29が長崎に原子爆弾を投下。長崎も一瞬にして廃墟と化す。
ソビエト軍が満州に侵攻を開始。
深夜11時過ぎより御前会議開催。翌未明、国体護持を条件にポツダム宣言受諾を決定。

美輪明宏さん(70 シャンソン歌手・俳優)当時10歳。昭和20年のこの日、長崎市内の自宅で夏休みの宿題の絵を描いていた時、原爆にあった。描き終わった絵を机の所に立てかけた。ガラスがずっと張ってある所だった。2階だったので、向こうは何も無く。そのまま描き続けていたら、光線でもってケロイドになってたんでしょうが、書き終わって、立てかけて、出来具合を見ようと思って、椅子から立って後ろに行った。見たとたんにピカッときて、ちょうどマグネシウムを百万個ぐらい焚いたような明かり。こんな良い天気に雷?と思うか思わないかぐらいの間、その一瞬に世の中の音と言う音が全部無くなった。シーンとしちゃって。あんな無窮の静寂と言うのは初めてですけど。後にも先にもありませんよ。世の中の音が全部ピッと止まって。とたんに今度は、世界中の雷を全部集めたような音で、ものすごい大音響でしたね。何が起きたか解らないような状態ですよ。外へ出たら、地獄なんですよね。馬がドタッと横になって死んでいる。馬というのか、火傷やケロイドでベロンベロン。その側で馬車引きのおじさんが踊っているというか、飛び上がってる。精神錯乱になったのか、それとも反射神経でピッとなってるのか、踊ってるという言い方が不謹慎なくらい飛び上がってる。郊外の村に逃れた美輪さんは、6日後、終戦を知るとすぐに長崎市内の自宅に帰った。うちへ帰ってきましら、玄関の所が畳みになってますでしょ、前にカフェーやってる時に、うちはちょっと変わったカフェーで、ショーウィンドウのとこに女のマネキンを置いて、着物着せて、お客さんを招き猫の代わりに入れるような、そういうショーウィンドウ作ってたんですね。その下が畳だったんですよ。私がうちの前に立ってましたら、女の人が来るんですよ。矢絣の着物で、下もんぺだったんですけれども。もんぺがちぎれてどっか飛んじゃったんでしょうね、ぞろぞろぞろぞろぼろぼろの矢絣の着物引きずってきて、そしてね畳を見たらなつかしくなったらしいんですよ。ふわっと柔らかい顔になったと思ったら、畳の上で寝ちゃったんですね。私困るなーと思ってたんですけど。私にね「すぃましぇん、みずぅくださぁい」唇がケロイドでこんなに腫れ上がってて、火傷してるんで、うまく唇が合わさらないんですけどね、良く聞いたらね、「あの、すいません、水を下さい」って言ってるのが分ったんですよ。あっ、そうかと言うので、土瓶にお水を入れて、土瓶でこうやって渡したら、持てないって言うんですよ。手が無いんですよ、ぐじゃぐじゃになちゃってて。だからそうかと思って、口にお水を注いであげて。そしたら、私はまだ子供なのに、私を拝むんですよ、その方が。「どうも有難うございます」って私を拝んで、それで、水を飲んでね。水を全部飲めないんですよ、垂れたりなんかして。しばらくすると、眠ってんだと思ってたら、死んじゃうんですよね。水をあげると、死んじゃうんんですよ。そして、次から次と来るんですよ、男の人やお爺さんとか、色んな人が来て。そいで私一人でさばき切れないで、お手伝いさん呼んで、でお手伝いさんと二人、お手伝いさんはバケツにお水を汲んで、一生懸命飲ませてあげて。だから、ずいぶん、末期の水ですよね。飲ませて上げて。ホントにあの悲惨ていうか。

8月11日 なかにし礼さん(66 作家)その頃満州と呼ばれていた中国東北部牡丹江で生まれ育った。家は造り酒屋だった。この日ソビエト軍から逃れようとする人々が駅に殺到した。怒号が飛び交い、人々は「避難列車を出せ!どうしてるんだ!」と叫んでるような状態。母親はやたら機転のきく女性で、日頃から関東軍にうちはお酒を収めていたりしていたものですから、よしみを通じていたという事もあって、関東軍にかけあって、軍用列車に8月11日の夜、乗せてもらう事になったんです。牡丹江の駅からかなり離れた所からね。駅で騒いでいる声を遠くで聞きながら、夜陰にまぎれて汽車に乗り込み、汽車はもちろん汽笛を鳴らさず、ゆっくりと静かに逃げるように走り出した。うしろめたさは僕達も感じていたけれど、軍人達も感じていて、汽車の中は何とも言えない暗い沈痛な、どんよりとした空気が流れていた。何かものしゃべっても、しっ、というよな感じ。翌日の昼、ソ連機が機銃掃射してきた。ミジン針で列車の天井縫うように撃ちぬいて行く。大人達は窓から飛び降りたり、てんでに逃げるんですが、おふくろに「あんては小さいんだから、座席の下に隠れなさい」と言われ、隠れたんだが、何の効果も無い。屋根を撃ち抜き、床を撃ち抜いていく。僕の目の前でバッタリ人が倒れて、血が流れていくのを見てね、生きた心地もなく、震え上がった。別の軍用貨物列車に乗り換えて、逃避行は続いた。途中で、開拓団民なんかが歩いて逃げてきてるのに会ったりする。「この汽車に乗せてくれ。病人だけでもいいから乗せてくれ」と言うんですが、全然乗せられないほど汽車が一杯だったわけでは無いんだけど、一人乗せると全員乗せなきゃならないわけで、それは不可能な事であり、もう一つはこれは軍用列車であって、民間の避難列車ではないんだという建前のもとに、開拓民達をけちらして、汽車は走る。無蓋車だったんですが、開拓団の人達がすがりつき、刀で切って落としはしなかったけれど、刀振り上げて、指を切るぞと言わんばかりに手を振り解いて、空に向かって拳銃を鳴らして、とにかく開拓団達を振り払って、又逃避行を続けた。日本国の民を守るべき軍人が、自分達が逃げるのに忙しくて、そして追いすがる同胞を蹴散らして逃げていくという風景はねえ、又ちょっと忘れがたいですね。その中に自分もいた。
 
8月14日 連合国側からの回答を受け、御前会議で再度ポツダム宣言の受諾を決定。
天皇、戦争終結の詔書を録音。
一部の将校が終戦に反対して夜半、宮城を占拠。森近衛師団長を斬殺。玉音版を奪おうとするが果たせず。

毎日新聞大阪本社記者、藤田信勝の日記「連絡部では、東京から送稿して来る原稿を總がかりでとってある。整理部も全員配置についてゐる。むしろ冷静に仕事をつづけてゐる。降伏の新聞をつくるために、こんなに落ちついて仕事がつづけられるというふことをわれわれはかつて考へ得たであらうか。抗戦を主張した政府によって!宣戦を布告遊ばされた天皇陛下によって!そして必勝を叫びつづけた同じ新聞によって!」

8月15日 B29、熊谷、小田原に焼夷弾攻撃。
阿南陸軍大臣、自決。遺書、死をもって大罪を謝し奉る。
正午、玉音放送により、ポツダム宣言の受諾を発表。

作家、高見順の日記「ラジオが、正午重大発表があるという。「ここで天皇陛下が、朕とともに死んでくれとおっしゃったら、みんな死ぬわね」と妻が言った。私もその気持ちだった。ドタン場になってお言葉を賜わるくらいなら、どうしてもっと前にお言葉を下さらなかったのだろう。そうも思った。十二時、時報。君ガ代奏楽。詔書の御朗読。やはり戦争終結であった。-遂に敗けたのだ。蝉がしきりと鳴いている。音はそれだけだ。静かだ。」

8月16日 スターリン、ソビエト軍による北海道北部の占領を提案するが、トルーマン米大統領、拒否。
特攻隊の生みの親、大西瀧治郎海軍中将、自決。

久米明さん(81 俳優)東京の陸軍幼年学校の見習い士官だった。昭和20年のこの日、陸軍の若手将校達の決起計画に巻き込まれる。校庭の方に馬でパカッパカッパカッと来る軍人がいる。馬から下りて久米さんがいる部屋に向かって駆けてくる。射弥(いや)少佐(久米さんの上官)の幼年学校からの戦友の後藤少佐という大本営の参謀だった。射弥少佐と話を始めるんですが、将校室で話しているんで、私は隅で聞くともなしに聞かざるを得ない。最初はひそひそと話してるんですが、段々声高になって、話す内容を聞きますと、「昨日玉音放送が遂に出た。しかし近衛師団は天皇を奉じて決起するつもりでもって、決起部隊を組織したんだけれども、森師団長が聞かないので、とうとう森師団長を斬殺した」近衛師団長が殺されて…、こっちは民間人の気分がまだ抜けませんからびっくりして、こんな話があるのかしら、これはえらいことじゃあないか、反乱じゃないか、二・二六じゃないか、というような色んな思いに駆られてましたが、その翌日は今度はサイドカーでバカッバカッバカッと来る。「昨日こうゆうような動きがあった。ついては、もう玉音放送が出て、日本はこれを受け入れざるを得ない。しかし我々はアメリカ軍を水際でもって要撃して、天皇陛下をとにかくお守りするために、松代に…」松代に秘密の大本営を作っているというのは内々民間にも耳にしてたんですが、「陛下をお連れして、日本の再起を図ろうではないか。ついてはお前達は…」陸軍幼年学校は焼けたとは言えども、トラックは持ってますし、馬は持ってますし、軍装品は持ってますし、弾薬は持ってますし、食糧は充分持ってるという一大部隊ですからね、親衛隊としてそれを全部活用して、松代まで行けというような事をしゃべるんですね。段々打ち解けてきて、「陸軍の情勢はこうなった。河邊虎四郎中将がマニラに飛んで、降伏条件の使節に行った。それが帰ってくると、マッカーサーが厚木に向かってこういう風に来る」そういう情報を全部聞かせてくれて、ついてはこれはもう完全武装解除だから、武器は携行していけない。ついては平服でもって松代まで陛下をお守りしていこう。そのために武器は何処の山のどこそこの下に隠せとか、何処の所に穴を掘ってこういうふうに保管しろとかいうような事を立案してるわけですね。8月15日に戦争終ったと思ったら、まだ続いているんだと、いささか私も慌てふためきましたが、そのうち情勢がいろいろと静まってきまして、日に日に情報が変わるんですけど、1週間ぐらい経ってからでしょうかね、後藤少佐が来て「これはもう軍としての行動は無理だ。軍は解散しなきゃいけない。これから戦後の事を考える。とにかく日本は船は無い、トラックは無い。しかしまず陸運を考えなきゃいけない」射弥少佐は岡山出身の方で、牧場かなんかをお持ちで、その牧場を拠点に、幼年学校にはトラックがありますから、そのトラックを持って行って、九州と関西、名古屋、東京を結ぶ陸運局をつくろうではないか、我々は平服に着替えて、戦後の事を考えよう。それを聞いた時に、いやなるほど、大本営参謀というのは、戦後の事もこういうふうに着実に考えるのかと思って、感心したんですけど、「久米見習い士官、おまえは東京商科大学学生だそうだから、ついては経理をまかせるから、やってくれ」ってわけで、よしてください、この人達とまたやるのかあと思って…。

当時医学生だった作家、山田風太郎の日記「朝九時全員児島寮に参集。これより吾々のとるべき態度について議論す。滅ぶを知りつつなお戦いし彰義隊こそ日本人の真髄なり。断じて戦わんと叫ぶ者あり。聖断下る。天皇陛下の命に叛く能わず。忍苦また忍苦。学問して学問して、もういちどやって、今度こそ勝たん。むしろこれより永遠の戦いに入るなりと叫ぶ者あり。軽挙妄動せざらんことを約す。」

8月17日 近衛文麿元首相の側近 細川護貞の日記「聖上御放送の前後、軍は全軍を挙げて、方針の転換に反対し、阿南の如きは木戸内府に対し、戦争の継続を薦め、木戸内府より、然らば戦争継続の成算ありやと反問せられて、「是なし、然れども大義存すれば、日本国滅亡するも亦宜しからん」との暴言をはく等のことあり。然し乍ら斯の如き考へは、全陸軍上下を通じての考へなり。嗚呼、何が大義ぞ!」

8月18日 満州帝国皇帝溥儀が退位し、満州国が消滅する。
ソビエト軍が千島列島北端、占守島に上陸。日本の守備隊と激戦。
内務省、占領軍向け性的慰安施設の設置を指令。

杉本苑子さん(80 作家)東久邇宮首相の屋敷に住み込みで女中として働くことになった。実家は東京世田谷。父親の知人の紹介によるものだった。進駐軍が入ってきたら、若い女の子なんかどうされるかわからないというとんでもないデマがあった。進駐軍の方は一人必殺(いちにんひっさつ)の神風の国に行くんだと思って相当怖がってたかも知れませんが、こっちはこっちで…。その時にたまたまこういうお話があったものですから、娘をどっか安全な所にやってしまうという意味では渡りに船のお話しだったわけです。行きましたその晩にコックさんが、「お苑さん、今晩マグロですけれど、照り焼きにしますか、お刺身にしますか」世の中、闇市に行ったからたって物は買えない。窮乏のどん底の敗戦。その時にマグロを照り焼きにしますか、お刺身にしますか、たかが一女中の夕食に。食べました、大喜びで。まっ白なご飯でしたし。毎日のようにそういう食事でした。お台所の戸棚開けると、何年もお目にかかれなかったカニの缶詰がぎっしり詰まっている。うちの父と母が、一人娘で他に子供がいない、宮様というような所にご奉公に上がったものですから、心配で心配で、毎晩のように裏口に来て、苑子ちゃん大丈夫?、苑子ちゃん、今日ね、闇市でね、何とかが買えたんだけれど、苑子ちゃんがいたらね、食べさせてやりたいと思った…、冗談じゃない、あたしはそんなもんじゃないもん食べてんのよと言いましたけど。東久邇宮内閣の成立の時でしたけれど、お屋敷に人がわいわいいらっしゃるというような事は無かった。静かな御日常でした。宮様御自身は東久邇内閣でお忙しくいらしったから、ほとんど私ども女中なんかは、お目どおりもする機会も少なかったですが、事務官とか何とか役人がいましたよ。時々接して、その方々がお食事する部屋なんかありましてね、そこで食事しているのを見たりしましたけどね、その事務官達の食事の後を見るとね、私ども、子供の時からだってそんな事したら怒られるのに、お茶碗にね、点々とお米粒付けたまんま、こうして置いてあるんですよ。闇でもってようやく何が買えた、お米が一合買えた何ていう時代にね、そんな食べ方をしてるって事事態がね、信じられない思いでしたね。びっくりしちゃいました。やがて杉本さんは体調を崩し、実家に帰る事になる。東久邇宮家での生活は一ヶ月あまりで終った。

8月19日 降伏交渉の日本全権、河邊虎四郎参謀次長の一行がマニラに到着。
関東軍総参謀長、秦彦三郎中将がソビエト軍と第一次停戦交渉。
退位を宣言した満州国皇帝溥儀、日本への亡命途中、ソビエト軍に捕らわれる。

8月20日 灯火管制解除 信書検閲停止される。
河邊虎四郎中将、マニラで連合国総司令部から降伏文書、一般命令第一号を受領。
ソビエト軍が樺太の真岡に侵攻。

小田島雄志さん(74 英文学者)その頃、満州と呼ばれていた中国東北部で生まれ育った。昭和20年のこの日はソビエト軍の侵攻を恐れて逃げ出した新京(長春)の町に再び一家で舞い戻ったばかりだった。8月9日にソ連軍が満州国境を越えて入ってきたと。関東軍は無抵抗らしい。小田島さんのお父さんは単なる会社員だったが、会社の人達をまとめて、無蓋貨車でぎゅう詰めになって南へ逃げた。新京の次に大きな街として奉天(瀋陽)があって、そこに8月15日について、夕方になっていて、そこからもっと南の朝鮮半島に逃げようとした。ところが動かない。どうしてかと思ったら、やっと日本が負けたんだという情報を知った。どうするかという激論が始まった。ちょうど半々だったんだが、負けたなら奉天から歩いて朝鮮半島を通って、内地まで歩こうという人達。父は、新京というのは曲がりなりにも一国の首都だった、だから国際的な注目を浴びるだろう、だから新京に戻った方が安全だと言い出した。二派に分かれた議論で、結局半分ずつに分かれようと言う事になった。父は又みんなから金を集めて、同じ貨車で北へ戻る。離れていた十日ばかりの間に新京の街の雰囲気は一変していた。この日から敗戦国民としての、いつ終るとも知れない厳しい生活が始まった。こっちは現場にいなかったから後で聞いた話しですけど、一応新京という町でも中国人の暴動があった。日本人にいじめられた人達は、日本人に復讐と言いますか、襲い掛かって、僕の同級生で一家惨殺という目にあったのがいたわけです。そう言う暴動が収まった所に又戻ったと。あまりにも運が良過ぎたかもしれないけれど。住んでたとこ行ったら、近所のおばさん達が出てきて、まあ、よく帰ってきたと。水も出ない、電気も無い、建物だけある。終戦の直後にソ連軍が占領した。最初はかなり柄が悪いって言っちゃいけないんだけれど、通りがかりの日本人から金目の物、時計から何から何でも取っちゃうし、うちにもドカドカ入ってきて、うちにあったウイスキー、親父が大事に取っておいた一本だけ取っておいたウイスキーを一息にカァッーと飲み干してたね、ラッパ飲みでね。何人かで束になってやってくるんだけど。姉は結局坊主になって、屋根裏に隠れるとかね、そういう事をしながら、いつまで続くか、いつになったら日本に帰れるとかわかっていれば、我慢しやすいんだけど、何にもわかんないんです。

8月21日 支那派遣軍の今井少将、中国側と停戦協議

塩田丸男さん(81 作家)昭和20年のこの日は陸軍響(ひびき?)旅団司令部がある張家口でソビエト軍と戦っていた。終戦によって旅団司令部の本部から、張家口という所に司令部があるんですが、そこにすぐ戻って来るようにと私の部隊に対する命令が出たわけです。張家口という所には日本人が3万人以上暮らしていたわけです。日本人が沢山住んでる町にですね、ソレン軍が北の方からズッーと攻めてくる。そのソ連軍によって邦人達が被害を被ってはいけない、それをどうしても部隊としては守ってやらなければいけない。全旅団の兵士を張家口の周辺に集めてソ連軍から守ろうという事になった。一日20里ぐらいの急行軍で行った。張家口の北の方にある○一陣地(まるいちじんち)という要塞に閉じこもってソ連軍と戦闘した。3万人の邦人を一人残らず帰すまでは、絶対にお前たちは退くなと言う命令だった。二十日まではソ連軍と戦闘を続けていた。ソ連軍との戦闘は武力の差を思い知らされるものだった。ソ連軍は機甲部隊で、戦車か何かでダッーと来るし、第一鉄砲だって違った。我々が持っているのは三八式歩兵銃(さんぱちしきほへいじゅう)という物で、一発ずつ弾込めてポツ、ポツと撃つ物。ソ連軍は立って腰だめで、ダダダダダダッーと撃つ物だった。実際問題として、ちょっとね、私なんか臆病だから、塹壕から中々飛び出せませんでした。「つっこめー!」なんて隊長が言って、飛び出しってたら、その隊長がすぐ撃たれて死んじゃうしね。日本人は全部鉄道に乗せて送って、その後鉄道を使えない様に爆破して、兵隊達は全部歩いて北京まで帰るわけですよ。歩いて帰るたって、ソ連の機甲部隊で追っかけられますからね、平地を歩いたら戦車の方が速いから、すぐ追いつかれて我々は殺されますから、山の上に上がる。尾根伝いに北京まで何百里という所を何日もかかって帰る。とにかくもう思いっきり早く帰らなくちゃいけないから急行軍なんですけれど、体が疲労しきってるから弱い兵隊はついていけない。私も弱った兵隊の鉄砲を持ってやったり、何か色々しましたけれど、それでもついていけない。どうしても動けないというのはしょうがないから、「良いか、お前、わかったなー」と言って手榴弾を渡して、そこに残しておくんですよ。つまり自決しろと言うことですね。部隊はズッーと去っていって、後で残されたら敵の捕虜になるしかないんだから。戦争に負けて捕虜になるよりは自決しろと言う事で手榴弾を持たせて、可哀想だけれども、部隊へ行くわけですよ。中々自決できないんですね。手榴弾持たせても、手榴弾の音が全然聞こえないんだけれど、大分経ってから一発バッーと、あっ、やったな誰かって。そうするとそれにつられたように、次に次にバッー、バッーと音がして何人か自決するわけですよ。

当時医学生だった、作家、山田風太郎の日記「各地の防空陣、敵襲来るときはいまだ猛烈に応戦す。東京都内にては各所に貼り出されたる降伏のニュース、一夜のうちに、ことごとくはぎとられたりと。またフィリッピンの日本軍は総攻撃を開始せりとの噂あり。このありさまにては戦意全国に炎のごとく燃え上がり、不穏の状況いちじるしきものあり、みな、この分にては面白くなるぞとよろこぶ。夕また日本戦闘機来る。翼ひかる。旋回して去る。

8月22日 無条件降伏に反対する尊王義軍の12人、愛宕山で集団自決。
ラジオの天気予報が3年8ヶ月ぶりに復活。
大本営、外地の各軍に25日0時以降、任務解除と武力行使の停止を命令。

西本幸雄さん(85 野球評論家)この日は陸軍歩兵部隊見習士官として中国湖南省の衡陽(こうよう)という街にいた。8月15日、終戦というのは私らは知らなかった。中支派遣軍、一番最前線まで行っている広部隊(ひろぶたい)と言う所へ転属を命じられた。8月上旬、西本さんは最前線の部隊に赴任する事になった。この頃最前線では日本軍と中国軍の戦闘が続いていた。それまで初年兵を輸送したり、小隊をもらったりしてたんですが、一向に戦闘らしい戦闘は無かった。一番最前線まで行ったと言う事で、これから戦地なんだ、戦場なんだという気持ちで、気持ちの上では張り切って行った。ところが出発してわずか数日後、前線から撤退してくる日本軍と出会った。赴任するはずの部隊だった。西本さんは追撃してくる敵を阻み、部隊の撤退を助ける殿(しんがり)を務めることになった。そこで兵隊を貰って、一個小隊の小隊長を仰せつかったわけですけれど、日本の軍隊は攻める時は将校が一番先頭、退却してくる時は将校が最後尾なんです。私等はなりたての将校でして、しかも一番若いと言うことで、一番辛い所へ置かれて、毎日部隊の最後尾を歩かされた。小隊がもってたのは、馬部隊でして、ラバとか、ロバとか、中国馬とかは、故障して動けないに等しくなるとすぐ殺せるんですが、日本馬は日本の兵隊よりお金がかかっていて、獣医さんが簡単には殺す事を許してくれない。だから非常にふらふらした馬を歩かして行軍するわけです。それでいて私等は部隊の最後尾から歩かなきゃいけない。よろよろしながら歩いてくる部隊に激しい戦闘を挑むという事はしない。腰すえて、向き直って日本軍が攻めてくれば、広部隊と言うのはとても向こうでは強いというそういう評判だった。二発,三発、ポーンポーンと、嫌がらせですね、そういう弾を撃ってくる。その中をポコポコ歩きながら、こんな流れ弾に当たって死んだら、ホントに犬死だなというそういう感じですよね。ようやく衡陽の街に戻ると様子が一変していた。衡陽の街に差し掛かったら、汪精衛の、日本軍が作った中国の政府みたいなのが、発行している儲備券(ちょびけん)が、儲備券というのは貨幣ですね、紙幣ですね、紙幣が道に散乱している。これは何かあったなとそういう異様なものを感じましたね。

詩人、安西冬衛の日記「けふから大阪、劇映画再会。小包も電報も制限なし。生活を娯しむこと。芸術の無力だったこと。自分の場合。しかしいつの場合でも美意識は喪はなかったこと。昼まへ塩鮭の配給。十二時のサイレンが遠くでなる。けふから音響管制が解除されて昔にかへったのだ。昼の報道の時、天気予報をやってゐると子供が注意した。」

8月23日 皇居前で愛国団体明朗会会員の13人が自決(ネットで調べると12人と書いてあったりするけれど…。)

早坂暁さん(76 作家)この日、山口県防府の海軍兵学校分校で除隊。郷里の愛媛へ向かおうとしていた。僕らが一杯荷物を持って、毛布だとか外套だとかを一杯持って歩き始めたんですが、暑い夏だったので、数百メートルいかない内にボトッボトッと落としていったんです。それをリヤカーで拾って歩く人達がいたわけです。防府の駅から貨物列車に乗って、尾道に向かった。尾道から船が四国に出ていた。二週間ほど前に広島に原爆が落ちたという事は教官から聞いていた。広島は消滅したって言われた。僕が学校に入る前に通った広島がとても大きな街だという印象があったのが、たった一発で消滅したというのが腑に落ちないわけです。どう消滅したのかこの目で見たい。しかし宮島口という手前の所の岬を巡りますと、車内に異様な匂いが入ってくるんですね。広島が近づくにつれ強烈な匂いがする。これはみんな、これは広島の匂いだ、広島で沢山死んだ人の、死者の匂いが入ってくるんだなとわかった。もう真っ暗ですよね。広島について、飛び降りたんです、広島に着いたぞっと。裸のポール(?)がプラットフォームに三本ほど立っていて、木に広島と書いてあるのが打ち付けてあって、これ広島駅だよ、確かに確かに広島駅だ。しかし駅舎も無い。その内にリンが燃えてるんですね、ちっちゃなちっちゃな青い火がポッポッポッポッポッポッ燃えてる。最初は十個かな、いや百個だ、いや千ぐらい燃えてるよ。段々目が慣れるにつれ、見渡す限り燐光が燃えてるんですな。みんな立ち尽くしたんですが、ガタガタガタガタ膝頭が震えるですよ、あまりのすさまじい光景に。その時にオギャーオギャーと赤ん坊の声が聞こえたわけです。そんなバカな、こんな燐光が燃えて、死臭漂う中で、赤ん坊が泣くわけが無い、空耳だと言ったら、いや、あそこいらで泣いてるとみんな言うわけですね。しかしこんな所で生まれた赤ん坊って一体何だろうと思ったですよ。こんな中でも産む人がいるんだ。生命を誕生させる人がいるんだ。異様な感動を覚えると同時に、しかしあの赤ん坊は生きられないだろう、こんな中ではそう長く生きられないなと思ったですね。その時が一番日本は負けたんだな、敗れたんだなと一番深い実感がありました。

8月24日 松江市で降伏反対の皇国義勇軍48人が県庁、新聞社、放送局等を襲う。
陸軍予科仕官学校生徒67人、埼玉の川口放送所、鳩ヶ谷放送所を一時占拠。

江尻光一さん(79 園芸研究家)当時19歳。昭和20年のこの日は愛知県豊橋の陸軍予備士官学校の幹部候補生だった。空を見ると例のB29が低く舞っている。お腹の所に砲塔がある。それがグルグル回りながら下向けている。向こうも士官学校がここにあると言うことを知っている。そういうのを見ると敵愾心が起こる。「これから豊橋の市内を威示運動する。全員集合」と言うので、完全武装して、当然鉄砲も持って、弾薬はありませんでしたが、きちんとしたなりで、隊列を組んで、三つの方面に行った。ある場所で、なだらかな坂で、我々は上から下がってくる、ザッザッザと歩きながら、隊列組みましてね、その時下の方から上がってきた一人の若い女の方がいたんですね。その方はなんとスカートです。今何でも無い事ですが、当時もんぺと言う姿で、くるぶしの所まで全部、今のズボンですね、一切何も見せてはいけないと言うか、そういう習慣だったんでしょ。そういう姿ばっかり見慣れてますから、スカートの姿って言うのはドキッとする位に強烈な印象だったですね。それを見た引率者、私達で言えば区隊長と言うんですが、我々の先輩ですね、約200人ぐらいを引き連れてる、それが突然大きな声で、私は前から3番目にいましたから、良く聞こえましたが、「ああいうのがいたから負けんたんだ!俺はこれからぶった切る!」そう言われまして「ぶった切るぞ」。さすがにこれには我々もびっくりして、そういう会話はいけないんですが、「区隊長、止めて下さい」「やってはいけないと思う」「なぜだ?!」こうなんですね。で、我々5,6人、ダッダッダと歩きながらですよ、その内に通り過ぎちゃったんです。後で呼び出されましてね、「おまえらは何で俺を止めた」って言うんで、大層怒られたんですね。やがて、軍の指揮を離れ、自分達だけで米軍を迎え撃とうという機運が高まった。将校生徒である事を示す徽章があるんです。それを全部取って、大きな穴を掘って、石油をかけて、皆燃すんですね。ですから軍隊手帳というのも燃してしまいました。身分を明かさない。全員が自分の私物を燃して、その周りで歌を歌っていた。それは例の有名な貴様と俺、あの歌でしたねえ。どなるような唄い方でしたねえ。次の朝、非常召集がかかるんです。確か6時頃だったと思います。全校生徒、庭に並びましてね、学校長が戻ってみえた。「おまえらは蜂起するな」それから諄々と話しが始まるんです。3時間ぐらい。八月ですよ。もう9時頃になったらすごい暑さです。もちろん朝飯なんかは食べていません。何人か倒れましたね。そして「戦いをする、戦いをして国を守る、そうじゃなくて、戦いはしないで、お前達一人一人が日本と言う国を守る、そういう気持ちを持て」何回も繰り返して言いました。解散。当時19歳ですから、ガクンときちゃうんですね。自分の区隊へ帰る時なんかとぼとぼと帰りましたよ。

8月25日 この日をもって日本軍の戦闘は停止する事に。海軍解体を開始。
ソビエト軍、樺太の大泊に上陸。

坂上二郎さん(71 コメディアン)当時11歳。昭和20年のこの日、家族と一緒に鹿児島市郊外の村に疎開していた。鹿屋に米軍が上陸するというので、慌てたんだなあ。私がいた重富というのは鹿屋から意外に近いんです。アメリカさんが来たら、みんな皆殺しだと言うんでね、山に逃げろと言うんで、今で言う農協さんが、一人一俵ずつお米配給と言って、赤ん坊から全部一俵ずつですよ、すごいですねえ。みんな山に逃げた。で、飼ってる牛とか馬とかニワトリとかそういうのを全部連れて山に逃げて、山の中で、牛も殺すわ、豚も殺すわ、贅沢三昧ですよ。みんな殺されるの、死ぬの知ってるから。その代わり煙は立てないように。まあ食べた、食べた、肉は食べるわ、そりゃあすごかったですよ。一週間ぐらいいた。飲めや歌えやですよ。歌えやってったて、ちいちゃな声で。偵察隊が降りて、こっちには上陸しないと聞いて、慌てて帰ってきて、「解除ー!上陸しないよ」と又みんな米を一俵ずつ抱えて降りてきたんですよ。山を下りてから本当の苦労が始まった。父はシベリヤに抑留、母は仕事と食べ物を求めて駆けずり回っていた。幼い妹や弟、そして二郎さんは親戚を転々としていく。せっけん売りのバイトをした。鹿児島の駅前に闇市があって、そこでせっけんをつくる。洗濯石鹸。最初は泡が出る。友達と唐津に行った。売れた。売ったらすぐ逃げた。2時間後には解けちゃって、ちっちゃくなっちゃうのだ。進駐軍のアメリカ兵と出会ったのも食べ物がきっかけ。チューインガムだった。友達がガムがおいしいと言う。進駐軍ってみんなガムをかんで歩いているんですよ。みんな我々後ろからついて歩くんですよ。ガムを吐き出すのを待ってるわけですよ。プッと吐いたらみんな一斉にバッーと飛び掛って、早くとった奴がマロマロマロ(?)、ジャルジャリジャリ、よっしゃあと。進駐軍もちゃんと心得て、又新しいのを食べて、又みんなついて行って、又プッと吐いて又飛び掛って。「おいしいか?おいしいか?」まず聞くんですよ。「おいしいよ、おいしいよ、甘い、甘い」「おいしか、おいしか、おいしか?」「おいしかど。うめえど」舌からガムを引っ張って見せて。憎たらしいでしょう。触りもしなかったよ。

8月26日 内務省の指令により、接客業者ら特殊慰安施設協会を設立

栄久庵(えくあん)憲司さん(75 工業デザイナー)昭和20年のこの頃、山口県の海軍兵学校防府分校から復員列車で実家のある広島に向かった。夜中に着いた。何も無くて、ぼうっと燐が燃えている状況だった。降りてもしょうがない、自分のうちに行ってもしょうがないと瞬間判断してすぐ帰った。で、又無蓋車に乗って、母の里にいるかもしれないと思って福山で降りた。母が私に会うなり、これが昌子(ヒロコ 妹さん)です、昌子の骨ですと新聞紙みたいなのに包まれたお骨を見せて、広島で死んだ、原爆で死んだと言うことで、その頃すでに原爆と言われていました。食糧調達に行ってる時の原爆だったらしくて、母も気になって、広島に妹を探しに行ったようなんです。広島の日赤の前に庭に人を焼いた跡があって、そこに棒ッ切れに板が打ち付けてあって、墨で「エクワン」と書いてあった。消えていったといった感じで、母も涙一つ見せず、私も涙が出るという感じではなかった。住職である父親と一緒に広島の寺に帰った。住める様な状態ではなかった。お墓が爆風で倒れていました。光線でお墓の色が変わっていました。押しなべて無いという感じでした。お寺があったというのはわかるんですが、哀惜の念みたいなそういうのも無いんですね、不思議と。

8月27日 進駐軍向け特殊慰安施設「小町園」大森に開業
真珠湾攻撃以来途絶していた日米間の直通無線が再開される

水野晴郎さん(74 映画評論家)当時14歳。昭和20年のこの日は、当時満州と呼ばれていた中国東北部、ソビエト軍占領下の吉林に暮らしていた。家家に蹴飛ばして入ってくるんですよ、ものすごく大きな体で。むしゃむしゃの赤毛で、何か怖い感じで、鬼が来たんじゃないか位の気持ちでしたね。それで蹴破って入ってくるは、家の中を平気で荒らしまわるは、これはすごいもんでした。殺されると思いましたね。うっかり反抗しそうもんならば、すぐ銃向けますからね。撃たなかったでしょうけれど、それにしてもねえ、いろんな事をやってましたから。ご近所の奥様を旦那様の前で暴行するとかね。そういうつらい目をねえ、我々側で見聞きしましたねえ。あらゆる物を持ってかれました。金品をねえ。その上に彼らが一番欲しがったのは時計だったんですねえ。「トケイ、トケイ」という言葉ばっかり言って、腕に山のように時計をしていて。家の中も土足ですからメチャクチャになっていく。僕が大切にしていた親父から貰った手風琴、子供用のアコーディオンですねえ、これを持ってかれてしまうし。くやしかったなあ、ホントくやしかった。略奪をまぬかれたわずかな財産も生活のために手放さざるを得なかった。私と年の離れた弟三人と、一番下は乳飲み子でしたけど、母と祖母と五人でいたわけです。祖母が自分の持っていたあらゆる物を売り始めたわけです。最初は着物ですよ。着物、すぐ底をついてしまう。今度は指輪を売ったり、色んな飾り物を売った。お婆ちゃんは自分の沢山持ってた薬を売りましたねえ。風邪薬だとか、お腹の薬だとか、そう言う物をドンドンドンドン。それを僕が町に持ってって、箱に入れて、街角に立って売るわけですね。ある時、お婆ちゃんが自分で歯を一生懸命抜いてるんですよ。お婆ちゃん何してるのと聞いたら、金歯抜いてるんですね。

8月28日 池部良さん(87 俳優)当時27歳。昭和20年のこの日は陸軍中尉として、赤道直下のハルマヘラ島にいた。食糧難に苦しむ日本軍は、武装解除に来たオーストラリア軍に、食糧援助を依頼する事になった。英文科出身の池部さんは通訳を命じられた。「池部中尉いるか?」「おります」君はこれからオーストラリアの、オーストラリアとは言わないんだ、豪軍と言うんですね、豪軍の駆逐艦に、食糧の交渉に、おまえ通訳…、いやおう無く乗せられた。そしたら兵隊さん達がねえ、「隊長、大丈夫ですか?向こう行って、向こうのねえ、豪軍だか何だか知らないけれど、赤いこんな奴(鼻が非常に高い)にみいられて、すぐこれですよ」「脅かすなよ」って事言われて。ワシレ湾にその船があり、そこまで30分ぐらいかかったのかなあ、その船に、舷側に着いたんです。小杉参謀、先年亡くなられたんですけど、この方が、「おい、池部。おまえ行ってこい」「自分は通訳ですから」「いいんだ。そういうもんだ、おまえは」参謀長に初めてお目にかかるんだけど、閣下の方を見て、救いを求めて、「行け」みたいな顔をするんです。ホントにいやだったな、あの時は。縄梯子を上って、3メートルぐらいあるんじゃないかな、上がったら、鬼の軍団だな、赤いひげがこうはえてて、鼻がこんな高くて、目玉は青いんだか綺麗なんだかかわかんない、雲つくようなのがズラーと並んでる。で、艦長室に連れてかれる。交渉しろったって、何を交渉するのか見当もつかないし、食糧が無いって言えば無いんだから(?)、「我々、師団、Rice…」「We,have not.」「This?]「We have not.」「This?」「Also we have not」結局何ももらえないで、でもせっかく来たんだから、国に電報を打って、希望の何分の一かはあげるであろうと。で、艦長が、日本語で言えばだ、「まあまあまあ、それはそれ。いやいやいあy、どうだどうだ、コーヒーでも飲まないか」と言ってくれた。コーヒー、これは、もう5年間飲んだことも無いし、匂いかいだことも無い。「サンキュー、サー」頂いちゃったんだよね。そしたら、このコーヒーの香りの良さね、たちまち目が眩み、危うく椅子から落っこちそうになった。そんでまあ、テーブルの所にグッとしがみついた。艦長が「何をしてるんだ?」みたいな顔で覗き込んできたが、何をしてるって聞かれたったって、「目を回してます」なんて言え無いし、「I’m all right… I’m all right」ああ俺、今、目を回してる、下倒れてるなっていうんで、情けないんだなあ、皇軍の陸軍中尉としては、ホントにみっともない姿だったんだけど。船から下りた池部さんは交渉の結果を参謀長達に報告した。「ただ今戻りました」「うん、どうだった?」「豪州軍にも、米だの小麦だのそう言う物は、この戦争で使い果たして無いと言っている。でも、少しは希望の何分の一か、何百分の一ぐらいは送ってくれる事が出きるであろうと言う話です」「そうかあ。そうか、良かった、良かった。わしはもう全然ねえ、くれないんだと思った。それだけでも大変な成果だ。ああ、よく出てきた、。良かった良かった、よし、帰ろう」なあに、冗談じゃないよと言いたかったけれど。

8月30日 連合国軍最高司令官マッカーサー元帥、厚木飛行場に到着。横浜の総司令部に入る。
日本に抑留されていた連合国軍捕虜引き上げ。
横須賀で連合国軍による婦女暴行事件が二件発生。

漫談家、徳川夢声の日記「大本営発表が嘘八百だったという話、-こんな話は信じたくないが、そうかもしれないという気がしなくもない。嘘八百とまで行かないにしても、嘘四百ぐらいには行ってるかもしれない。報道すべき真実を、半分しか言わなければ、やはり嘘四百である。この戦争を通じて、アメリカの航空母艦は、たった四隻しか沈んでいないというではないか!大本営発表によれば、空母などは既に幾十も海底に消え失せている筈だ。それがたった四隻!」

8月31日 横浜で米兵がビール輸送のトラックを襲撃。

山田洋次さん(73 映画監督)中国東北部大連の中学一年生だった。昭和20年のこの頃、山田さんはソビエト軍が来ると言う噂を聞いて、町外れに見物に行った。何千人と言う部隊がやって来た。占領した町に堂々と入場してくるという感じでしょう。示威行為でもあるっわけだけれど、大勢の市民達、見てるし。着てる物はボロボロで、靴なんかもキレの靴でねえ。ただ異様だったのは、兵隊がほとんど銃を持ってるんだけれど、この銃が俗にマンドリンと言ったけども、こういう大きな銃、弾入れがついてる自動小銃なんですよ、引き鉄を引いたら一挙に何百発ブッーと出ていく。それはちょっとビックリしたねえ。こんなすごい武器持ってるんだっていう。大勢市民が見てるからなんだろうなあ、歌、歌い始めたの、ソ連の兵隊達がね。向こうのスタイルなんだね、一人非常に声の高い、テノールの、通る声の、将校だか何だか知らないけれど、歌を歌うわけ、一声。それに合わせて全員がねえ、大合唱するわけ。それが何とカチューシャの歌ですよ。「リンゴの花ほころび…」と僕達は覚えたけれど。着てる物は粗末でも、何だかエネルギーに溢れてるんだよ。体は大きいしね。声は大きいし、歌声は朗々と町中に響かんばかりに素晴らしい歌声だし、しかも美しいしさあ、ハモってて。やっぱり日本の軍隊をふと思い返すと、何だか貧弱で、みんなみじめったらしいなあと思ったねえ。数日後、家の近くで轟音が響き渡った。山田さんは窓に駆け寄り、外を見て仰天した。僕のうちの前に戦車がやってきたの、ソ連の、でっかい戦車がねえ。戦車の中から兵隊が出てきて、あっちこっちその辺の家に行って、略奪って言うか、そんなひどい事はしないんだけれども、みんな着る物がろくに無いから、シャツなんかちょっと持ってっちゃたりするわけ。僕のうちには将校が来るわけ、肩章なんかで分るでしょう、僕の親父が出てきて、応接間に座りなさいって。最初ロシア語で言ったんだけれど、僕の親父はロシア語は知らない。英語もわからないみたいだ。僕の親父は、高等学校、大学でドイツ語やってたんだね、エンジニアだったけど。ドイツ語でしゃべりかけたら、向こうドイツ語でしゃべるわけ、片言で。そいで色んな話をしてて、蓄音機でレコードをかける。僕がショパンをかけたらね、ショパンって言ったのね、彼がね。うわー、この野蛮なロシア兵と思ってたけれど、ショパンなんてわかるんだなあと思ってた。後で、親父に何話してたのと聞いたら、何故ドイツ語を知ってんだと聞いたらね、俺はベルリンで戦争してたとそう言うんだよ。長い長い旅だった、つらかったって言うのよ。夜眠れない、なぜか。シベリヤの夜っていうのは、ものすごい蚊と虻(あぶ)なんだってさ。実際、この辺(顔)ブツブツされてたけれどね。ある日、山田さんはソビエト軍の将校と話しをしていて、その心のうちを知り、驚いた。ある時、僕達一生懸命覚えた片言のロシア語で、しゃべるわけよ。僕が直接聞いたのは、学校の先生している、かなり年配の、中年の将校だったけれども、これから平和になるんだって僕が言ったら、ニエッット(いいえ)ね。どうしてって聞いたら、アメリカンスキー。こうこうこうこうって言ったねえ(指を幾度か交差させ、拳骨を合わし、つまり戦うという事ね)。それからその後で終るんだ、戦争はねえ。へぇーって思ったねえ。そうかあ、ソ連はアメリカとまだ戦うんだ。この人達、戦争まだ終らないのかってねえ。

当時医学生だった、作家、山田風太郎の日記「友人続々帰郷。駅に見送る。待合室内に兵士数名座る。戦闘帽になお徽章あれど、丸腰の惨めなる姿なり。ただ背には何やら山のごときものを背負う。解散に際し軍より半ば押しつけられ、半ば掠奪的に運び来るものなるべし。米俵、馬、トラックまで貰いし兵もありときく。八十年、日本国民が血と涙しぼりて作りあげし大陸軍、大海軍の凄じき崩壊なり。」


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あの日 昭和20年の記憶 7月編

「あの日 昭和20年の記憶 7月編」

7月2日 猿谷要さん(81 アメリカ史学者)北海道西春別にあった陸軍の飛行場で教官を務めていた。一人、5,6人を受け持って、午前中に一人30分同乗して訓練した。四人目にプロペラが飛んでしまった。松根油のせい。ガソリンに松根油を今日は10パーセント、次の日は20パセントというふうに、混ぜながらテストパイロットしていた。自分一人で飛んでみた。いつプロペラが止まるか分からないから飛行場の上だけ飛んでいた。松根油だけでは飛べない。四人目の訓練になった。幌をかぶせる装置が後ろの席にだけあって、雲の中に入った状態での飛行訓練だったので、前方の席に乗っていた。後で考えてみると離陸の時にポツンを変な音が一回した。普段の旋回地点に来ても高度があまり上がっていない。おかしいなと思ったらスーと止まってしまった。よし後は俺がやるぞと自分が運転した。一生懸命操作したがプロペラはブルブルン、ブルブルンと鳴る程度。その内下から原始林がウワッと盛り上がってきて、僕は眼鏡をはずして、何故なら眼鏡をしたままガシャッとゆくと目が危ないから、ガラスの破片で。激突する瞬間に操縦桿を倒す。真っ直ぐ行くとお腹付いちゃうから。ハッと気が付いたら、川のほとりで、すずらんがびっしりだった。翼が高い所に引っかかっていて、川の向こうに胴体の後ろ半分がかかっていた。うまい事二回ショックで、緩衝しながらガシャッといったのだ。それでも僕は気絶した。

山田風太郎の日記「日本のこの大危局に追いこんだのは青白き理屈屋にあらず、理屈を頭から食わず嫌いにする連中なり。日本人はもう少し、理屈っぽくならねばならず、物事の解剖、総合、批判などがお互いに理屈とは感じられなくなるまでにならねばならぬと痛感しきりなり。かかる習慣が長き歴史の間に科学精神を養うなり。今となってあわてて「天才教育」などやるは無益無意味にしてばかげたことなり。」

7月3日 天皇、木戸内大臣にソ連による和平仲介について聴取
食糧配給基準量一割削減を決定 主食、一日一人、二合一尺に
横須賀市で燃料用アルコールを盗んで飲んだ11人が死亡

加藤武さん(76 俳優)東京麻布中学校の四年生だった。三年生の時から授業は無く、勤労動員の日々を送っていた。大井町の三菱重工で働いていた。流れ作業で私達は歯車にやすりをかける作業だった。ちっとも流れていかなかった。一週間前に一生懸命やすりをかけた歯車が積んであって埃をかぶっていた。ある日ここから一歩も出ちゃいけないとものものしくなった。戦車のキャタピラにすごい浮き輪がずっーと付いていた。水陸両用戦車だそうだ。浮かぶとは思えなかった。新しい仕事が来た青梅の寺にある防空壕堀りだった。兵隊さんと一緒だったが、老兵ばかりだった。

 漫談家、徳川夢声の日記「先月の代用食配給は十八日分もあったと言う。すると三度三度米を食ってると十二日分しか飯は無かったことになる。今朝の放送を聴いてると、今後益々代用食が幅を利かすことになるらしい。甘藷蔓の粉だの、桑葉の粉だの、甘藷からアルコール用澱粉を抜きさった残りの粉だの、矢鱈に粉を食わされるらしい。日本のジリ貧状態は、家庭面にも鋭く反映している。」

7月4日 米政府、日本への原爆使用に関して英国の同意を確認

馬場あき子さん(77 歌人)4月13日の東京空襲で高田馬場の家を焼け出された。家族三人で知り合いの家に間借りしていた。小さい道を一つ隔てた所に焼け残った家があったので、お婆ちゃんと息子と嫁さんと暮らしている家に入れてもらって八畳間を一つ頂いてそこで親子三人で暮らした。そのお婆ちゃんとは顔見知りだったんですけど、お互いの事だし、お婆ちゃんも、もうそこまでいくと疎開、田舎に帰りたくなっていますから、喜んで、頼もしいから一緒に暮らしてくれるの嬉しいと言って入れてくれたんです。主食は配給になるけど、副食の配給はほとんど無し。お腹が空いた時は紐でお腹を縛って空腹を我慢する。本を読む事によって空腹を忘れる。焼けた家の跡を耕して色んな物を植えて、まずはおイモね。そのおイモもね、金時とかそんな上等の物じゃないの。金時とかおいらんというような種類のおイモはなかなか収穫が悪いのでね、農林一号とか農林二号とかすぐと大きくなるおイモを植えて、ただまずいのね、甘みは少ないしビチャビチャだしね。だけどお腹の足しにはなるわけ。そういうおイモを植えて、後イモに続いてカボチャね。みんな疎開しちゃっていなくなってるから、畑は見渡す限り使い放題だった。イモ畑、カボチャ畑、きゅうり畑、ナス畑。父は田舎の人なので、農耕の経験があるからそういうのがうまくて、近所、隣の人を指導して畑を作ってました。カボチャなんか一杯獲れた。カボチャは翌年の三月くらいまで取っとけるので、天井まで沢山積んで、それが三畳の部屋に一杯あると、嗚呼頼もしいなあ、これで飢えなくてすむなあ。千葉の手賀沼まで行って釣りをした。なまずとか鯉とか、それから一番大きな雷魚ってのがいた。なるべく雷魚を釣りたいので餌を一生懸命工夫した。なけなしの闇でもって金時イモを買って、ふかしてつくと、とっても粘りが出て、農林一号では釣れないので、金時イモは人間が食べるためではなく、魚に食べさせるために買って、それに虫のさなぎの粉とか、そういう動物性の粉を混ぜてつき合わせてお団子にする。雷魚は大体50センチ。一人では引っ張り上げられない。父と二人で釣った。棒で頭を叩いて、脳震盪を起こさせる。鯉はよく脳震盪を起こしてくれてそのまま家に持って帰るまで寝ている。雷魚は撲殺しないと、電車で暴れると大変だから。我々は雷魚の料理が最も好きで、私はてんぷらに揚げたのが好きでした。余ったら又それを甘辛く煮付けたり、これはおいしいもので、戦中戦後最も愛した料理。

7月6日 岡村喬生さん(73 オペラ歌手)旭川に近い比布(ぴっぷ)村の農家に勤労動員。月に一遍、塩ガレイが配給された。おかみさんは食べなかった。子供が出来た。おっぱいが出ない。ミルクは無い。死んだ。乳房を叩いて「これが悪い、これが悪い」って言って、蜜柑箱に入れて野辺の送りをした。

当時医学生だった、作家、山田風太郎が長野県飯田で記した日記「この地方は午後十時以後は絶対消燈たり。一寸の灯も外に洩るるときは、戸外より叫び、叱り、はては電球をも持ち去る騒ぎなり。田舎にては敵機通過後通報出ずること多しときけばこれも無理はなし。その上わが借りたる部屋は中二階の七畳という奇怪なる部屋にして、電燈もなし。迂闊にも来るまでこのことに気づかざりき。されば夜は闇中無聊に苦しむ。」

7月7日 柳宗民(78 園芸研究家) 栃木県佐野の農事試験場でさつまいも増産の研究をしていた。味よりも収量が大事。栃木県に合う品種を栃木県の奨励品種として出していた。全国的に作られていたのに沖縄100号というのがあった。皮が赤っぽく中少し薄い黄色。非常に大きくなって多収穫。より多収穫のに茨城1号というのがあった。見た目は綺麗で、皮は真っ赤、切ると中はまっ白。水っぽくて全然おいしくない。アルコールの原料用として開発されたもの。沖縄100号は土地によっては結構おいしいものが獲れる時もあったが、茨城1号はどこで作ってもまずい。当時アレを食べた方はアレでさつまいも懲りちゃったという方が多い。

元陸軍大将 真崎甚三郎の日記「山崎十時ニ来訪、山崎ハ近時特攻隊ノ青年将校ヨリ血書ノ嘆願書ノ如キモノ瀕々ト呈出セラル、此ノ背后ニ何者カアラザルヤト、予曰ク、之に就テモ予ハ知ラズ、恐クハ背后ニハ何者モナカラン、第一線ニテハ現首脳者ヲ信用シアラズ、此ノ首脳者ニテハ戦勝困難ト考ヘアルヲ以テ動(やや)モスレバ特攻者ノ者ニテ特攻ガ内部ニ向ヒ行ハルル危険ハアラント。」

7月8日 東郷外相、近衛文麿元首相にソビエトへの特使を依頼。
横浜地検、ジャガイモを盗んだ男を撲殺した自警団員に起訴猶予の処分。
東京都、雑草の食べ方講習会を始める。

坂本長利さん(75 俳優)島根県の出雲駅で国鉄の保線員として働いていた。貨物置場に人間の形をした荷物が二つあった。それがかすかに動く。コーヒー袋みたいなのがかぶさっていて、下を見たら大きな鎖があって、それで繋がっていた。助役にアレはなんですかときいたら、米軍の捕虜だと言う。棒でつついてみたかった。爆撃で寸断された鉄道の復旧のために空襲直後の姫路に行った。焼け野が原で何にもなかったが、姫路城だけがちゃんと残っていた。壁の無い旅館に泊まった。その頃焼け跡に強盗が出没すると言う噂が流れていた。時々誰かがタカッタカッタカッタカッタカと走った。誰かが呼ぶ。それでも足音は消えない。一発銃声がする。したらパタッと前に倒れる音がした。

7月9日 鈴木首相と東郷外相、近衛元首相のソビエト派遣について会談。
外交顧問の有田八郎、至急終戦の意見書を天皇に提出。

7月13日 「讀賣報知新聞」よく噛み一日ニ食 空腹感消す青松葉

伊藤京子さん(78 声楽家)東京音楽学校の三年生だった。静岡県富士の印刷工場に勤労動員されていた。満州国とか朝鮮国とかの軍票、所謂紙幣、お札を検査する、印刷がちゃんとしてるかしてないかを検査する仕事を私達寄宿舎生はしていた。工場の寮にいたが、食事の量は少ない。お腹がすく。サツマイモ二本、ガリガリとした芋。冠水イモだ。すいとん、メリケン粉のおだんごが入ってるだけまだ良い。友達と4,5人で近所の農家に行って、カボチャなんかをわけてもらった。富士の麓は米軍の戦闘機の通り道だった。毎日のように空襲にみまわれた。毎日のように駿河湾からものすごい数の飛行機が来る。機銃掃射があった。必ずサイレンが鳴って、防空壕に入る。富士山の麓だからでしょうか、水が沸いてくるんでしょうか、膝上ぐらいまで水につかる。郷里に帰った方も多かった。みんなが帰るから寄宿舎は寂しかった、食べ物は無いし。静岡県の掛川が郷里なのだが、父に手紙でみんなが帰るから私もうちへ帰りたいと書いた。父から葉書が来まして、非常に簡単な文面で、「おまえが希望して入った学校だ。そこで死ねば本望じゃないか。帰ってくるな。父」と書いてあった。

7月14日 仏文学者 渡辺一夫の日記 「全国民は固き決意と共に、百年でも二百年でも戦争をする覚悟だ、とラジオが絶叫している。結構なことだ!我国が栄え、世界の進歩に貢献すればよいと僕は願っていた。だがこの願いは否認され、嘲笑され、圧殺された。学校もいづれ辞職せねばなるまい。埃にまみれ、荒れはてた書庫に茫然と坐す。この書物もいずれ灰となる。何ものかを築かんとして購ったこれらの書物はすべて、無に等しい。」

7月15日 漫談家、徳川夢声の日記「農耕隊の兵士というものに始めて接する。朝鮮から遙々と連れて来られて、この信州の山奥で開墾をやらされ、甘藷つくりをやらされている、彼等の気もちが私には分る気がする。給与でも好ければだが、酷いものだそうだ。中には脱走して、山深く隠れて出て来ないのがあるという、-一年も立て籠っていれば、日本はペシャンコになり、朝鮮は独立し、自分は自由の身となるであろう、などと考えるらしい。」

7月17日 赤瀬川隼(73 作家)大分の中学2年生。昭和20年のこの日未明、大分の街はB29およそ130機に襲われた。昔のお城の中に、天守閣は無かったんですが、県庁の建物があって、それが燃えてると友達が知らせに来た。すぐ近くだったので、友達を見に行った。城壁が真っ赤に燃えている。時代物の映画で見る落城だった。めらめら真ん中から炎が上がって、火勢が強いから風が起きる。恐ろしかった。しばらく見て戻ってみたら親父から怒られた。翌朝、生垣の所に不発弾が一発落ちてた。焼夷弾だった。小振りのマグロみたいな感じ。暗緑色の、落ちて半分地下にめり込んでいる。七校の学生が動員されていて、すぐ近くの航空廠に働きに来てて、休暇か休み時間かなんかでうちに遊びに来た。焼夷弾を見て、これ、何とかしようと言って、サッサッサと頭から信管を抜いちゃって、油脂を取り出して、お風呂沸かしましょうと言って。今のように石油があるわけじゃなし、どっかから枯れ木とか薪とか集めてきて、それで火をつけて、それがもつ間だけしかお湯は沸かないけど、それすらもう無いから、あんまりお風呂に入った記憶って無いんだけど、焼夷弾でたちまち沸いた。8人家族だったが、みんなが入ってもバンバン火がついてた。

7月19日 早乙女勝元さん(73 作家)東京向島の国民学校2年生だった。この頃B29は東京の上空で大量の宣伝ビラを撒いていた。そのビラを拾うと指が腐って落ちる毒物がついているという宣伝はかなり流布されていた。最初のうちは怖々落ちているビラを覗いてみていたが、毒がついてないみたいなので拾ってみた。大本営発表以外の状況が分るような気がして、ビラが落ちてればただちに拾って家に持ち帰る。学童勤労報国隊として鉄工所に動員され手榴弾を作っていた。働いている日本人の労務者はとにかくだらけてました。毎日のようにエロ話とエロ唄と、それから闇の鉄製品を作る。砂場の端っこの方にお釜の型を作ったり、ナイフの型を作ったり、くぎ抜きなんかも出来る。そういう型を作っちゃあ、流し込んで、そういうのを鞄に隠し持っちゃあ、工場を出て闇で売る。肝心要の生産品よりも闇で売る方が大っぴらです。

作家、高見順の日記「戦災で保険金をたんまり貰った連中が、金を持っていても、しようがない、飲んでしまえと、事実、口に出してそう言って、毎日、なんにもしないで国民酒場へやってくる。国民酒場を次から次へと、飲み漁っている。顔触れは、決まっている。そういう「顔」が、おとなしく行列を作って待っている人々の前に、いざとなると割り込んで来る。そこで、喧嘩がはじまる。与太者のようなのも出現してきた。「戦う国民という気がしません」と橋本君は嘆いた。

7月22日 戸川昌子(74 作家・歌手)5月25日の空襲で東京青山の家を焼け出され、母と二人、東京の銀行頭取の屋敷で住み込み家政婦をしていた。その当時、良いおうちの奥様方ってのはみんな疎開なさっていて、女手が少ないから家政婦さんが欲しいという事はあったんですね。非常にケチだった。ご飯を炊くと、うちの母がお釜に少し残っているのを手で取ってちっちゃなおにぎりを私のためにとってくれた。おかずは何も無い。住み込みなので配給は無い。そこのおうちも配給を受けていない。私達に回ってくるものは何も無かった。坊ちゃん二人と頭取さん、その方達がうちの母が一生懸命作った食事を、とても楽しげに家族団らん風に召し上がっている。朝晩そうっと見ると、トーストから目玉焼きから、新鮮なお野菜はあるし、ソーセージみたいなのもあるし、満足って顔で召し上がってらっしゃいました。大きな普通のふすまに鍵が三つ位かかっていて、うちの母に見ちゃだめと言われていたが、見たら、砂糖からハチミツから無い物は無い、お膳に並んでたのより、もっとすごい、バターから何からかにから、現在をしのぐ位の物がホントに入ってたの。屋敷の庭では野菜を作っていた。昼になるとそれをじーっと見て、おいしいだろうなあとうちの母親に言った。夜中になってそーっと行って、母は目立たない盗みをした。トマトとかきゅうりとか。私に食べさせてくれた。


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あの日 昭和20年の記憶 6月編

「あの日 昭和20年の記憶 6月編」

6月1日 米原子力政策諮問機関が全会一致で日本への原爆投下を大統領に勧告。

城戸崎愛さん(料理研究家 79)東京麹町の工場に勤労動員。防空頭巾に明るい色の余り糸で刺繍をしていた。小花に葉っぱとか、ピンクにちょっと空色の葉っぱとか。木綿のズックに白墨を水に塗らして塗りつけると白くなった。もんぺは洋裁の裁ち方でスラックスのようにした。木綿の切れでショルダーバックを作った。配給の乾パンと大豆を炒ってしょうゆで香ばしく味をつけて、それを必ず入れていた。朝出かける時は「いってきます」ではなく「行きます」だった。帰ってこれないかもしれないから。なけなしの少しのお砂糖を乾パンにからませて皆にちょっとあげた。帰ってこれないかもしれないから、2,3日分の物を重ね着していた。

6月3日 広田弘毅元首相、駐日ソビエト大使に和平交渉仲介を打診するが黙殺される。

三遊亭圓歌さん(落語家 76)東京上野の岩倉鉄道学校2年生だった。勤労動員で国鉄新大久保駅で駅員として働いていた。「配給電車ってのがあってね。夜中に一台だけコニマツ電車(?)がまわって来るんです。この駅へ止まるとこん中に今で言うと牛乳の缶缶みたいなのがあるでしょ、あのでかい奴、北海道なんかによくある。アレの中にお味噌汁が入っててね、これをその、駅員用に配達してくるんです。これなんか楽しみでしたね。加配米ってんでね、加える配る米ってん。これも駅員だという事で貰ってた時代。やっぱあの時分から、やっぱ親方日の丸だったのかな。でも我々には夜一生懸命働いてるから、お腹空いてっから助かったですよ。」「新大久保の駅なんてのは6月に焼けちゃったんですからね。夜、ピューって警戒警報が鳴って、おっこったの見た事無いですよね、若い人は。綺麗なんだよ、焼夷弾ってのが、バッーと東京中明るくするん。そこへ狙ってバッーと爆弾がおっこってくる。慌ててね、新大久保の駅はねえ、なんたって終戦直後ちょっと前にねえ、防空壕掘った間抜けな駅なんですよ。駅長が命令でね、「中島、防空壕掘れ」てん。こっちは他に仕事ねえから、防空壕堀りだけで、毎日あそこへ穴掘ってね。駅員の防空壕ってのは無いんですよ、お客の防空壕と、後駅長が一人入れるようね防空壕
と二つしかないんですけど。そこへねえ、「空襲警報発令」なんていうと、一番先に俺飛び込んじゃう。なんたっておっかねえもん。後駅が焼けるってえと、みんなバケツ持ってね、バケツリレーなんて、水運んだって、間抜けなもんで、届きゃしないよ。もっとわけのわからねえのは火ばたきってのを持っててね、火こうやって消すんです。消えねえで、火ばたきに火が移っちゃうんだから。他所をやって、他所が燃えちゃったりなんかする。「空襲警報発令」って、私が一番先に逃げ込んじゃう。みんな、他の先輩達は駅の仕事してなきゃいけない、残ってなかなか入ってこない。ざまみやがれって思ってね。その代わり、出てくるたんびに、駅長に怒られてたけどね。ある時ね、ビューンとものすごく…。まず焼夷弾がおっこってね、それから爆弾がおっこってくる。なんだかその時はね、あたしも入ってたんだけどね、後からね徐々に徐々にみんなどんどんどんどん来るんですよ。これがねえ、駅のお客だけじゃないんですね。近所通りかかってるお客まで入ってくる。だからすし詰めになって、こんなんなって。その内にぱかぱかぱかぱかって来たんでね、他の駅員もね、こんな事しちゃいられねえってんで、慌ててみんな入ろうと思った所へ、駅に空襲の爆弾がドワッーておっこってくる。みんなねえ、傷だらけになっちゃって。傷だらけってのかなあ、火傷ってのねえ。だから俺みてえに早く逃げてりゃ良かったんだよ。あれでずいぶん怪我した人もいるしね」向島に家があった。駅の仕事終わって家に帰ったら、家が焼けてた。みんな立て看板(?)でなんとかのうちはここにおりますと書いてある。圓歌さんはお婆さんと二人きりで住んでいた。お婆さんは秋田県の方にいると書いてあった。

高見順(作家)の日記「聞いた話から。東京でははだしが多くなった。女でもはだしで歩いている。盗難頻々。憂うべき道義心の退廃。ある目抜き通りで、焼け残った電柱に、中年の男がしばられていて、上に貼紙がしてある。貼紙には、-この男は焼跡で盗みを働いた者である、みせしめのためにこうしておくという意味のことが書いてあったという。

6月5日 米英仏ソ、四ヶ国がベルリン協定調印。ドイツの分割占領決める。ソビエトは占領地の工業施設の多くを賠償として持ち去る。

6月8日 正司歌江さん(75 女優)市電の電車のレールの上におばあさんがこうもり傘を持って座っていた。そこで私は傍に行って、「お婆ちゃん、夕べの空襲、怖かったねえ」と肩を触ったらそのままコトンとひっくり返った。死んでいた。漫才やりに神戸の方へ行った。いきなり空襲警報。グラマンが電車を狙っているので皆さん、降りてください。駅で止まって、みんなザッーと走って下りて、地下へ逃げてゆかれました。私と照江さんと椅子に座っていて、私の向いにもお爺ちゃんとお婆ちゃんが座っていました。私と照江は椅子の下にもぐった。私は照江さんの上にかぶさって、ギターのケースと三味線のケースで椅子の所をふたをした。前に座っていたお婆ちゃんとお爺ちゃんが逃げない、逃げられない、遅かったのね、すでにグラマンがそこまで来てる。電車の窓をダダダダダダダダと機銃掃射。椅子の下から「お爺ちゃん、お婆ちゃん、下へもぐりなさい、椅子の下へもぐりなさい」と思わず叫んでるんですけど、窓から首を出して見ている。目の前で撃たれた。

6月9日 岡田眞澄さん(69 俳優)台湾の台北にいた。交差点の渡る所にアメリカとイギリスの旗が描いていて、そこを踏みつけて歩く。その場所は遠回りだったが、わざと遠回りして踏んでいった。空襲の時とかに負傷した人を助け出す訓練を街中で急にやる事があった。負傷者役の人は赤いリボンを結ばれ、担架で運ばれるのだが、どこに連れてかれるかわからないので怖かった。日本人の父とデンマーク人の母との間に生まれた岡田さんはその顔立ちゆえ街で後ろ指を指される事があった。スパイの子供だと言われた。憲兵隊が母親に外出禁止を命じた。母の兄弟がアメリカに渡って航空隊にいるという手紙が来ていた。この戦争っていうのはいけないから止めさせなきゃと母は、天皇陛下とルーズベルトが会って話せばわかるはずだからと、早朝から日の出る方へ真っ白いのを着て膝まづいて祈っていた。


6月11日 山藤章二さん(68 イラストレーター)三重県伊勢に縁故疎開していた。この頃東京から母親が迎えに来た。焼け野原になった東京にもう空襲は無いだろうとの判断からだった。順調に行けば当時でも半日で帰れたんでしょうが、一週間近くかかって東京にたどり着いた。6月10日、東海地区の鉄道が破壊されたからだ。ただひたすら歩いた。駅舎の中の木のベンチでまどろむ、焼け残った公衆電話のボックスの中で休む、お寺さんの本堂の縁先をお借りして休む。静岡で漁師のご夫婦が一泊して何も無いけど食事でもして一日ゆっくりしなさいと言われた。ここは海から艦砲射撃がある可能性もあるけども、それを覚悟の上でうちによってみませんかと。三日も四日も歩いているから疲れ果てていた。足を引きずっていた。傾きかけたような家。足洗って、お風呂入って、頂いたご飯が白い飯と干物だった。生涯最高の飯。布団の上の大の字。夢のような一瞬。目黒の自宅。一年ぶりの東京は焼け野原だった。富士山だけは相変わらず昔のまま。
バラックとはいえ又町内が形成されてる。水道管は鉛管なので燃えない。水道管を頼りに隣組が形成されていた。

近衛文麿元首相側近 細川護貞の日記「大阪の陸軍の司令官は、「此の際食糧が全国的に不足し、且つ本土は戦場となる由、老幼者及び病弱者は皆殺す必要あり、是等と日本とが心中することは出来ぬ」との暴論を為し居たりと。空襲後の輿論調査は、挙げて軍への不信と怨嗟の声なるも、是亦彼等自らが作りたる結果なり。」


6月18日 沖縄で負傷兵介護のため従軍していた「ひめゆり学徒隊」に解散命令。米軍の猛攻の中、この日だけで47人が死亡。

6月23日 沖縄守備軍司令官牛島中将、摩文仁(まぶに)で自決。日本軍の組織的戦闘終わる。沖縄戦における日本側の死者は18万8千人。その内沖縄県民の死者は12万2千人に及んだ。

船越義彰さん(80 作家)沖縄本島にある米軍の野戦病院にいた。四日前に怪我をして捕らえられたばかりだった。それまでは海岸の洞窟に隠れていた。アメリカの艦艇が来まして「泳いで来い。この軍艦に泳いで来い。降伏した者、殺しません。泳いできなさい。日本の戦争、終わります。あんた方は良く戦ったけども、もうダメだから、降伏しなさい。故郷では親兄弟待ってますよ」と放送が来る。目の前、30メーターぐらいだから泳いでいける。でも行かない。「これから何分間、艦砲射撃止めますから、その間に来てください。泳いできなさい。泳いでこないと、又もう一遍、艦砲射撃しますから」目の前に兵隊が煙草吸うのが見えるくらい。日本軍の捕虜になった人が「私は元日本兵の誰々です。アメリカは絶対殺しません。怪我した人には病院もあります」みんな行くな行くなと言ったが、泳いで行くのがおったんです。上の方の機銃陣地からバンバン撃った、降伏していく人に。アメリカ兵がボートを下ろして助けた。米軍の艦砲射撃で負傷。右足が棒で打たれたようなしびれ方。手を入れてみたら指が3本ぐらい入る、肉がえぐられて。足は動いたが、しばらくすると足動かない、体動かない、眠くなる。「あれ、俺今死ぬのかな。眠くなるのは死ぬのかな。これが死か。なんで俺こんな落ち着いているのか」しばらくして、熱くて、目を開けたら太陽がカンカン照る下に出てる。アメリカ兵が出したんでしょう。銃を突きつけている。ヘルメットから赤い髪が見え、胸毛も見え、キラキラ光る認識票も見えた。「アイ アム ノット ジャパニーズ ソルジャー」と私が言ったら、唖然とした。口笛で他の人を呼んで、治療してくれた。

6月27日 沖縄久米島の日本軍守備隊が住民をスパイ容疑で虐殺

6月30日 秋田県花岡鉱山、強制労働させられていた中国人労働者が蜂起、収容所を脱走、憲兵、警防団と数日間戦うが、鎮圧さる。中国人の死者、418人。


 


 


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あの日 昭和20年の記憶 5月編

「あの日 昭和20年の記憶」5月編

5月2日 ソビエト軍がベルリンを完全占領。ビルマ戦線、英軍がラングーンを占領。米軍、那覇、首里に向け猛攻。

5月5日 アメリカ、オレゴン州で日本から飛来した風船爆弾によって6人が死亡。

5月8日 黒木和雄さん(映画監督 74)中学3年。学徒動員で宮崎都城の川崎航空という飛行工場に配属され、リベット打ちの練習をしていた。警戒警報が鳴った。その当時は南九州には大空襲が無く、のんびりと一応防空壕に歩いて行った。雲が低く垂れ込めていて、突然空から黒い物が二つ三つ舞い降りてきて、カラスじゃないかと瞬間思ったんですが、軍事教練で危ない時は伏せるという事が身についていたので伏せた。轟音と爆風。砂煙であたり一面が真っ暗になった。アメリカの飛行機に襲撃されたとわかった。阿鼻叫喚になった。煙が薄れていくにつれて、土砂に埋もれて、土砂のせいで体が痛いとわかった。助かったと立上がったら、すぐ側を歩いていた友人の一人が尻餅をついていて、頭がすいか割りのように割れて、脳漿が噴出す瞬間を見たような気がするんです。恐怖とショックで「助けてくれ、お母さん」という声が方々から聞こえてきて、夢中で逃げ、近くの防空壕で他の助かった工員達とふるえていた。全部で百人ぐらいいたが、この日11人の同級生が命を落とした。14,5人で歩いていて、僕らの固まりの所に一発ぐらい落ちた。4,5人が即死だった。病院を訪ねたが、即死状態の人と軽症の人にわかれていた。校葬があったのだが、興奮して40キロぐらいの所を汽車ではなく歩いて行った。中にはその時かけよって介抱したり、かついで病院まで運んだ人達がいた。私自身はまったく助けようとせず逃げたという事を大変恥ずかしく、情けなく、私の中でこの事がショックになりまして、今日まで時々やっぱり思い出し、自分が情けないという事が。
永井荷風の日記
くもりて風猶冷なり。近日見聞録。川崎の町にて家を焼かれし人民、焼け跡に小屋を立て、雨露をしのがんとせしに、巡査憲兵来り、これを取り払はむとせしかば忽衝突し、四方より罹災の人々集り来り、憲兵数名に傷を負はせしと云。深川辺にもこれに似たる事件度々ありし由。

5月11日 馬場 當 さん(シナリオライター 78)海軍三沢基地の整備兵をしていた。大型雷爆撃機連山のエンジンの油圧系統の整備をしていた。昭和20年の三月末に横須賀の基地から三沢の基地に移る事になった。二日がかりだった。上野に着いたら戦災孤児が千人もいるかと思うほどホームにうようよいて、僕達の列車が着いたら「兵隊さん、何かくれくれ」と窓から5,60本手が入ってくる。横須賀を出る時18リットル入りの缶の中にご飯を一杯詰めて来ていた。初めは握り飯を作って渡していたんだがとってもそんな事では間に合わない。子供達は目が血走っている感じで、手を突っ込んでくる。石油缶ごとホームに放った。何百人、何千人という感じの子供達がワッーと缶に寄って来る。見ていて迫力があると言うのか、すごかった。見かねた馬場さん達は次々とご飯の入ったいっと缶をホームに放り投げていった。列車が出て、乗っていた馬場さん達はどっかで良い事をしたような気持ちになっていた。だけど赤羽あたりまで来たら俺達の食う物は一体どうするんだと言う話になった。しっかりした奴がいて座席の下の石油缶をかかとでゴンゴンゴンと蹴った。二缶ばかり残しておいたよと言うのだ。みんなホッとしながらしらけた。

5月12日 笑福亭松之助さん(落語家 79)神戸で母親と二人暮しをしていた。軍需工場で潜水艦の電気系統の図面を写す仕事をしていた。家の屋根に焼夷弾が突き刺さった。母親を先に逃がした。それから言われたように天井を突き上げて消そうとしたが、何発も落ちてくるのでこれは危ないと思った。湊川神社に逃げようと思ったが、電車通りではこぶし大の火の粉がグォッーと音を立てて流れている。向に渡る事が出来ない。風上に逃げないとと思ったが風上も立って行ける事が出来なかった。パタッと地べたに伏せて這うように風上に行こうとし見つけてふと手に触ったのはコンクリートで出来た人が二人ぐらい入れるような防火水槽。この中に水がある、ここにいれば助かると飛び込んだ。先に一人入っていた人がいてふとんをかぶっていた。その布団を奪うようにして自分の方にかぶった。段々段々熱気がひどくなると向こうが布団を引いてくる、こっちもまた引っ張ると言うふうに引っ張り合っていた。中に入れない人は寝転んだままで水をくれー、水をくれー、水くれーと悲愴な叫び声をあげていた。水槽に手を伸ばして水を取ろうとする。その時人間と言うのはえげつないなあ、あさましいなあと思ったのは、水が減ると自分が危ないと思うと水を取ろうとする手をパーンとはらってしまった。後で考えてもぞっとしました。横にアパートがあって燃えていたが、これが我々の方に倒れてくると覚悟をしないといかんぞと言う人がいたが、アパートの二階の棟はそのまま垂直にパタとおちた。そうしたらおそらく覚悟をしないといけないと言った人だと思うが「安心せーい!助かったぞー!!」と言うてくれて「ああ、良かった」と思った。布団をめくって防火水槽の所にふっと立ち上がった。時間も経ってたので夜が白々と明けていた。ふっと入っていた人の顔を見たら私の母親ですねん。

5月13日 大西洋でドイツ潜水艦が米海軍に投降。同乗していた日本の海軍士官の二人が自決。
川田正子さん(童謡歌手 70)昭和18年、関東児童唱歌コンクールで二位になったのをきっかけにNHKの専属歌手となる。連日のようにラジオ番組に出演。この日もNHKのスタジオで小国民歌と言われる歌を歌っていた。

「勝ち抜く僕等少国民」作詞:上村数馬
勝抜く僕等少国民 天皇陛下の御ために 死ねと教えた父母の 赤い血潮を受け継いで 心に決死の白襷 かけて勇んで突撃だ

こうした歌は児童向けの歌番組の他、戦地にいる兵士に向けた番組「前線へ送る夕べ」で度々歌われた。

「欲しがりません勝つまでは」作詞:山上武夫
どんな短い鉛筆も どんな小さい紙切れも 無駄にしないで使います そうです(?)僕達私達 欲しがりません勝つまでは

5月14日 B29、四百機あまりが名古屋を空襲。名古屋城、消失。
最高戦争指導会議、終戦工作にソビエトの仲介を求める事に決定。

5月15日 加賀乙彦さん(作家 76)名古屋の陸軍幼年学校にいた。学校から名古屋の大空襲が見えた。他の市街は翌日になると真っ黒焦げになっていたが、お城だけまだ燃えていた。三日目になってもまだ燃えていた。陸軍幼年学校は全寮制。起床ラッパで起きてから一時間後に朝食。その間に武器の手入れ、靴の手入れ、整理整頓、かけて丘の上に行って軍人勅諭を奉読する。その前に宮城遥拝、伊勢の皇大神宮を遥拝、父母のいる方角に頭を下げる。それから帽子をかぶって勅諭を読む。読み終わったらダッーとかけて下りないと朝食に間に合わない。時々勅諭を読むのをさぼった。夕食終わってから軍歌演習を校庭でやった。校庭をぐるぐる回りながらやる。軍歌を一番、二番、三番と覚えていなければならない。歩兵の歌の時は必ず駆け足になる。日曜日は外出も自由だった。陸軍では私的制裁と言って殴ったり蹴ったり、少年兵いじめがあったが、そういう事は幼年学校ではなかった。陸軍幼年学校を出ていると早ければ19歳ぐらいで少尉になる。軍人になったとたんに激戦地に行って死ぬことになる。先輩で次々に戦死者が出ていた。

5月17日 墜落した米軍機の飛行兵を九州帝国大学医学部で生体解剖
九州医大・捕虜生体解剖事件

上坂冬子さん(ノンフィクション作家 74)この日、内務省の役人だった父親が突然倒れた。父の仕事は日本中の敵性外国人を軽井沢に集めて彼らがスパイ活動家なんかして本国に電報を打たないように取り締まる仕事だった。緊張状態が続いて、ほとんど家にいなかった。
木曽福島の旅館で会議をやっていた。くも膜下出血だった。お医者がいなかった。村長さんがよくこのような病気を手がけていて、このまんまじっとして昼も夜もまっ暗くしてほっておけと言われた。後で日本で三本の指に入ると言われている脳のお医者さんが適切な処置だったと言われた。薬は柿のしぶだった。今スキー場で有名な薮原の駐在所で生活したが食べ物が無かった。旅館では豆だらけ大根だらけの食事を出してくれたが、それでもご飯がちょっと入っているだけで良かった。薮原では家から持ってきたものだけで、どこで買えば良いかわからないし、近所に知り合いもいないし、たまーに父の部下の方が一升分のお米を持ってきてくれた。今でも野原に行くとこれは食べられる、これは食べられないとわかるのは薮原での生活のおかげだ。アカザはおいしい。タンポポなんかも浮かべておしょうゆまがいのものを入れて、すいとんを食べた。

5月18日 熊倉一雄さん(俳優 78)東京目黒の旧制都立高校の一年生。家族が疎開したため大森の親類の家に下宿していた。伯父叔母が不在で良い天気だった。警戒警報が鳴って、ホントににわかにあたりが暗くなってザザザザザザザッーと音がして雨かと思ったら焼夷弾だった。前の家の塀が燃えていたので防火用水から水を汲んできてかけていたら、背中をお婆さんがちょんちょんと叩いて「あのー、うち、燃えてるけど」「えっ」「うち、燃えてる」と二階を指して言う。「じょ、冗談じゃないよ」と二階に行ったら火の海。いろんな人が来てバケツリレーをしてくれた。しかしどうにもならなかった。後から見たら8発、落ちていた。天井はもちろん燃えてっちゃって、梁が燃えて落っこってくるという状態になって、これはもうダメだなあと思っていたら、誰も水を持ってきてくれなくなっちゃって、これはどうしたんだろうと見たらあっちこっちいろんな物が無くなっている。階段を下りたら、その辺にあったバケツも金ダライも、台所用品で役に立ちそうな物はみんな無くなっている。お爺さんとお婆さんを連れて逃げ出したが、途中にいる燃えていない家の人達に「非国民!なんで消さないんだ!」と言われた。

5月22日 森村誠一さん(小説家 72)夢もうつつも食べ物の事ばかり、価値観の第一位が食べ物だった。埼玉県熊谷の商業学校1年生。勤労先の農家で出される昼飯が何より待ち遠しかった。当時は新聞がゴミの食べ方とかムシの食べ方とかを解説する時代だった。各農家全てが銀しゃりを出してくれるのだが、おかずが違かった。良い農家だと魚なんかがつくが、一般的にはおしんことつくだにが付く程度。勤労奉仕の後情報交換した。他のが魚だ出たと聞くと、悔しいから見栄を張って塩ジャケが出たとか、つくだにが牛肉のつくだにだとか嘘を言った。嘘がどんどんどんどんエスカレートしてキャラメルが出たとかお菓子が出たとかになった。そのうちホントに出た気になった。しかし豊かな食事を出したはずの農家に行くとそんな食事は出ない。食べ物を手に入れることがあらゆる事に優先した。物を食うという事は拾う事だった。イモのきれっぱしとかを。そこらの家でイモを干しているとそのイモを盗む。干し柿を盗む。瓜とかキュウリとかトマトとかそこらの畑から盗みまくった。一欠けらの良心のかけらも無かった。収穫の多い時は家族も喜んだ。親や兄弟は喜んで食べた。けしてどこで盗んだなんて聞かない。目につけば本能的に盗んだ。そこに食物があって番人がいなければ必ず盗む。一種のパブロフの犬。まれにお腹が一杯の時もあったが、そういう時でも絶対に逃がさない。今腹は一杯だが、次飢えた時、次はいつ食えるか分からないといういつも危機意識に支配されていた。グループでいようと一人でいようと関係なかった。

大仏次郎の日記「スパイの一例。これはデマかも知らぬが、土浦の工場を、女がいつも口をあけて歩いていて、門内にも入る。これが調べたら女装の二世だったという。とにかく敵は工場の疎開先など、短時日に嗅ぎ出し確実に爆撃する。伊那の山中に横穴を掘ったのを、穴に向けて機銃掃射までしたぐらいで、知っていること驚くばかりだという。

5月25日 宗左近さん(詩人 86)東京大学哲学科の学生。前日の空襲で家を焼かれ信濃町の寺に身を寄せていた。この日は疎開先の福島から上京していた母親を見送りに上野駅に向かう所だった。午後8時半過ぎにたどり着こうと一時間の余裕を持って行った。空襲警報が鳴って寺に戻った。墓地に逃げた。卒塔婆から燃えた。半ば炎の海になったので、青山の方に向かって崖下に行った。そうしたら向こうからやって来た消防団の方達がこちらもダメですと言ってきた。墓地に帰った。大きな桐の木らしいのの下で高校生ぐらいの女の子達4,5人と大人の男の人、女の人一人ずつがいて、女の子達は抱き合って泣いていた。「お父さん、お母さん、助けて。どうかして」と金切り声を上げていた。宗さんはこの火の海の中で母親を亡くした。寺が焼け落ちるまで待って、火がやや衰えてからその上を走った。2時か3時だと思う。母親と手が離れた。母親は走る事が出来なくて、火の海の中に突っ伏したまま。僕は100メートルばかし走りぬけて後ろを見ましたら、母親が手で押すんですね、「おまえは行きなさい」と。押されるような勢いで走りぬいて、少し黒い所がある所の道の上に倒れて、1時間かそこら倒れたままで。
内田百閒の日記「町内や近所だけではなく、どちらを見ても大変な火の手である。昨夜気分進まず飲み残した一合の酒を、一升瓶の儘持ち廻った。これ丈はいくら手がふさがっていても、捨てて行くわけに行かない。朝明るくなってから小さなコップに、一ぱい半飲んでお仕舞になった。昨夜は余りうまくなかったが、残りの一合はこんなにうまい酒は無いと思った。家の焼けたのを確認したのは、夜が明けてからである。

5月27日 関根潤三さん(野球解説者 78)この日は二日前の空襲で焼けた東京原宿の兄夫婦の家に行った。空襲の日は浦和にいた。電車は上野でストップ。有楽町がやられていた。上野から歩いた。あちこちに死んでる方がずいぶんおられたが、何も感じなかった。6,70の小柄なお婆さんが明治神宮の方に頭を下げている。着物も何もきちんとしている。死んでいる。おそらく窒息で。「やりやがったな。今にみてろ」と思った。兄はニワトリを一羽だけ飼っていた。焼夷弾が五個落ちたそうだが、全部消したそうだ。他から移って、燃えた。ニワトリ一羽だけ持って逃げた。朝、ニワトリが「コケコッコー」と鳴いた。近所の人みんな喜んだ。普通の時はうるさいのだが、ああいう時は感激した。

5月28日 大田昌秀さん(参議院議員 79)学徒で組織された鉄血勤皇隊の一員だった。首里から撤退する沖縄守備軍司令部の先発隊として土砂降りの中を島の南端「摩文仁(まぶに)」に向かった。私が所属していた千早隊は守備軍司令部の受け入れ態勢を整えながら、情報宣伝をやれと言われた。梅雨時で毎日土砂降りの雨だった。下痢をしていた。途中の川で一歩も歩けなくなった。膝をついた状態になった。隊員達は早く動かないと危ないぞという事で先に行き、私一人残った。私は情報部だったので、箱型の発電機みたいなのを背負って、機密文書だから絶対に失くしてはいけないと命じられていた。指揮官の岡(?)軍曹という人がいて、戻ってきて、「きさま、歩けないなら、俺が叩き切ってやる」と日本刀を取り出し、何度も振った。歩こうとしても歩けなくって、切られるなら切られても良いと座り込んだ。学友が戻ってきて、一人が銃を取って、一人が箱を代わって持ってくれた。仕方が無いので這うような格好で付いて行った。日頃は文学青年と、当時は文学書を読むだけで不良青年と言われ、馬鹿にされ、落第させられたりしたのだが、その落第生みたいなのが、逆に傷ついた友達を親身になって世話をする、日頃勇ましい事を言っていた軍事教練で成績の良い人達が逆に精神的な異常をきたすとか、そういうのを見せられて、人間というのは極限状況に追い込まれないと本性はわからないものだなとつくづく考えざるおえないような事がありました。四日かけて摩文仁にたどり着いた。箱をあけて唖然とした。隊長の私物、げたまで入っていた。
大佛次郎の日記「牧の郷の石川氏の長女、三島駅にて、特攻隊の少年にて厚木へ帰るのが、泊まるところがないというのを、気の毒がり連れて帰る。無邪気なので家中で歓待する。隊へ行けば長靴や服が買えるというので、辻老人三百円石川氏も八百円渡し依頼す。これが大贋物にて靴から、箪笥の中にありし衣類まで鞄に入れ、悠々と送られて退去す。厚木へ面会に行きしに、盗みし靴を既に買いおる人間ありしと。

5月29日 杉下茂さん(野球解説者 79)陸軍二等兵として中国、上海にいた。杉下茂さんは知らなかったが、この日の新聞の特攻隊名簿に兄、杉下安佑の名前が掲載されていた。この発表があって初めて分かったのだと思う。爆弾そのものを操縦していくというのが神雷だった。人間爆弾みたいなもの。ロケット推進。5分かそこらしか飛ばない。親飛行機から放されたら5分かそこらで燃料が切れる。3月21日米艦隊を目指して出撃。九州沖で全機撃墜された。前年この部隊への配属が決まっていた兄は度々家に戻ってきたが、任務について口にする事は無かった。長崎の大村で戦闘機の教官をやっていた。教官を辞めて、茨城県の晃の域に来てると外出で来る。来てながらB29が東京の上空を飛んでいる。戦闘機乗りがなんで帰らないんだ、なんであれを邀撃(ようげき)しないんだと問うと、任務が違うんだから良いんだと言う。何も言わなかったが、死ぬなよとだけは言われた。

5月31日 岩城宏之さん(指揮者 72)5月25日の東京3度目の大空襲で小石川植物園の近所にあった僕の家は焼けた。植物園の中はさすがに焼けてなくて、中の事務所で近所中の人が難民やって、植物園の池の鯉をとって丸焼きにした。この春、東京の私立中学に入学したばかりだった。一度も授業は無かった。授業を始めようとすると警戒警報が鳴った。僕は体が非常に弱く、集団生活は無理だと残留児童になって、ある日突然全校の生徒がいなくなって、一年から六年までで全部で15人で、とても寂しかった。焼夷弾の不発弾を見つけては、誰かが信管を抜いて、どろどろの油脂が出てくると火をつけた。何時間でも燃えた。学校で空襲にあった時の心得を教えられていた。親指を耳の穴に入れて、鼓膜を守るため。四本の指で目を押さえる。目が飛び出すのを防ぐため。口を大きく開ける。爆風で胸が圧迫された時に空気が吐けるように。5月25日、警戒警報の後、すぐに空襲警報が鳴って、向いの鉄筋コンクリートの幼稚園の地下室に入ろうと道を渡ろうとしたら、ザーと振ってきて、僕は道の端で教えられた通りの格好をしていたら僕の周り1メートルに3個落ちてきて、ものすごい衝撃と音で、なぜか僕の体に1滴の油脂もかかってなくて、あわてて出てきた父と母と一緒に座布団で消しながら火の無い方に逃げて、気が付いたら2,3キロ離れた巣鴨の広大な焼け跡に着いた。

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あの日 昭和20年の記憶 4月編

「あの日 昭和20年の記憶」4月編

4月1日 連合国から航海の安全を保障されていた救恤(きゅうじゅつ)品輸送船阿波丸、台湾海峡で米国の潜水艦に撃沈される。

4月2日 登川誠仁さん(琉球民謡歌手 72)アメリカ軍が上陸してきて亀甲墓の前に防空壕があってそこに逃げた。近くに竹槍があって、それでアメリカ人はかき回しながら、日本語と英語が書かれた辞典みたいなオレンジの手帳を見、「出て来い、殺さないから、出て来い」と言った。シナ事変を体験した人達がいて、殺さないよと言って初めに出て行って、皆出て行った。良いアメリカ人だった。

4月3日 ペギー葉山(歌手 71)疎開先の旅館に航空隊の若者達がやってきた。お姉さんの写真が欲しいと言われる。ポケットの中に女の人の写真を入れて出撃したいそうだ。姉の写真をあげた。

4月6日 赤瀬川隼さん(作家 73)林の木を一回引っこ抜いて、根まで掘り起こし、もっこで運ぶ。又、木を植える。偽装のためである。上空から見つからないように飛行場を作る。

4月9日 埼玉県で天然痘流行。この日までに患者15人を確認。

4月10日 中村メイコさん(女優 70)本土だけではなく大陸や南洋の島々の特攻隊の基地への慰問が多かった。明日死ぬとわかっている当時の特攻隊の方々は大学から学徒出陣したインテリの方が多く、彼らに何を慰問して欲しいと聞くと子供に会いたいなと言うんだそうである。母も私も目隠し状態で連れて行かれた。手作りで作ったような飛行場らしき所で、兵隊さんの一人が慣れない口調で司会をする。アコーディオンの人を内地から連れてきていた。軍からは軍歌を歌えと言われていたらしいが、私は軍歌は知らず「夕焼け小焼け」とか「赤とんぼ」を唄った。歌手ではないのでへたくそだったと思うが、特攻隊のお兄さん達は淡々としてむしろ虚無的な表情のないお顔つきが、聞く内に表情が出てきて、すがしい目に一杯涙をためて、歌が終わると私を一人ずつ膝にのっけって、ほお擦りされたり抱きしめてくださるんです。チョコレートをもらった。慰問が終わると特攻隊員達がメイコさんの所に集まってきた。投函して欲しいと沢山の手紙を預かった。母は内地に着くと一等最初に投函をした。

4月11日 藤子不二雄々マルA(漫画家 71)校門の前に竹を縛って何十本も置いてある。それを木刀で百回ぐらい米英撃滅と言いながら殴らないと学校に入れない。ガキ大将にメンコに似顔絵を書いた物をやって御機嫌を取った。山菜を集めなければいけなかったが、自分では布のザック一杯には集められない。ザック一杯にしないと学校に帰れない。ガキ大将がみんなのを少しずつ徴集して集めてくれた。

4月12日 ルーズベルト大統領急死。後任にトルーマン副大統領が昇格。

4月13日 ソビエト軍、ウィーンを占領。

4月14日 千玄室さん(裏千家前家元 十五代 81)徳島、海軍航空隊で白菊特別攻撃隊。飛行機は二人乗りで、パートナーは後に俳優となる西村晃さん。出撃が近い事を予感した千さんは戦友達と茶会を開く事にする。携帯用の茶箱を持ってきて、ようかんを切って6、7人の仲間と茶会を開いた。仲間の一人が茶を飲んだ後、生きて帰ってきたらお前の茶室で本当にお茶飲ましてくれよと言った。その言葉が胸に突き刺さった。そのとたんに妙におふくろに会いたくなって、「おふくろに会いたいなあ」と千さんが言ったら、みんなが「何や」ってしらけた顔で見た。千さんはさっと立って京都の方を見て、「お母さ~ん!」と叫んだ。そしたら、みんな立って、それぞれの故郷を向いて「お母さん!」と涙を流しながら叫んだ。怖い、死にに行くのは怖い。みんな怖かった。怖いけれど「怖い」と言うことは口には出せなかった。

4月15日 元英国大使 、吉田茂ら、和平工作の嫌疑で憲兵隊に検挙される。
児玉清さん(俳優 71)群馬県四万温泉に集団疎開。磨き粉を食べた。昼、じゃがいもならこんな小さなじゃがいも(原種位)2個だけだった。塩はあった。皮を食べ、茶碗に入れ、スプーンで何時間もかけてドロドロにして、塩入れてちょっとずつなめて、もたせた。4月13日の東京空襲で児玉さん達の家がある滝野川は焼け野原になった。先生が悲痛な声で君達の家がほとんど焼けましたと言うと、そのとたんに万歳!お役に立てたと言う事で。一人ずつ先生の所に聞きに行く。「先生、僕の家は燃えましたでしょうか」「ああ、残念ながら君のとこは燃えたよ」そのとたん万歳。燃えない子が二人いたが、聞いたとたん、しょぼんとなり、燃えた連中はまさに狂乱状態で万歳!万歳!

4月16日 ソビエト軍、ベルリンへの進撃を開始。

4月17日 ガンジー、インドの完全独立に向け声明発表

4月18日 清沢洌(ジャーナリスト)の日記
どこに行っても聞く話しは、兵隊さんの食糧が足らず、家庭に行ったり、食い物屋に行って食をねだることだ。銀座にも、毎日のように兵隊が来て、お腹が空いて困るから食わしてくれとねばり、これを断るのに困っている。
食事当番になると、釜から食器に盛る時に、手ですくいとって盗み食いするのが通例である。この兵隊が飢えたら秩序はどうなる?

4月19日 東松照明さん(写真家 75)家族が疎開した名古屋の家で一人暮らしをしていた。毎日軍事教練だった。体も弱く、運動神経がなく、うまく出来ず罰をくらった。とてもやってられないと思い、体温計をこすって、熱を上げ、肺門リンパ腺という事で休めた。毎日仲間と映画を見たり、街をうろついたりしていた。他の学校の生徒に因縁をつけて喧嘩した。目と目が合っただけで、ガンをつけたと路地に引きずり込んで喧嘩した。素手とかゲタとかで。鼻血を出したらやめ。不良はズボンを上げて、ゲートルを巻いて、ズボンを上に下ろした。帽子を斜めにかぶった。不良同士は喧嘩をしたが、真面目な学生には手を出さない。

4月20日 朝日新聞「アルミ貨を航空決戦へ!十銭、五銭、一銭のアルミ貨は一枚残らずお引き替え下さい」
冨田勲さん(作曲家 72)愛知県岡崎 矢作川(やはぎがわ)の堤防の工事で土運びをやらされた。予科練が上空で空中戦の訓練をしていた。よく落ちた。尾翼がとぶのだ。尾翼がとぶと、飛行機のエンジンの音がなくなる。前後に回転しちゃう。時々スッと持ち直す。川原の所に着陸するかと思うと前につんのめって火と煙があがって一巻の終わり。その間約30秒。落下傘は無い。飛行機がその分重くなるというので。尾翼に繋がる細い部分が折れちゃうのだ。

4月21日 安野光雅さん(画家 79)召集される。香川県坂出、陸軍暁部隊入隊。ちゃんとした帽子も無い。服も無くてレインコートの下は裸だった。後、ズボンと普通の靴。それだけだった。

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あの日 昭和20年の記憶 3月編

「あの日 昭和20年の記憶」3月編

3月2日 田英夫(参議院議員81)航海学校で訓練を受けていたが、乗る船が無かった。で、特攻隊(舟艇 潜水艦 魚雷)に志願するものは明日8時に当該区隊長に申し出ろと言われた。400人の中で40人位志願した。ほとんど死んでいる。田さんは志願しなかった。ところが学校を卒業して配属されたのは爆薬を積んだモーターボートで敵の船に体当たりする震洋特攻隊だった。ベニヤ板で出来ていて車のエンジンを積んだ二人乗りの船。上陸用舟艇に2隻ぶつかれば沈むだろうという予想の元に作られたものだった。

3月5日 猿谷 要(アメリカ史学者 81)福島県磐木の陸軍飛行学校の教官 練習機を飛行場に運ぶ空輸の仕事をしていた。敵が海岸に来たら赤トンボと言われた練習機で特攻をしようと言うのだ。その空輸中、猿谷さんはグラマン機にあった。練習機には銃も何も無い。うんとプロペラの回転を落として時速百キロののろのろ飛行をした。グラマンはそれだけゆっくり落とせない。失速してしまう。戦闘機は前にしか攻撃できない。で、助かった。

3月6日 池部良(俳優 87)ハルマヘラ島で陸軍中尉。初めは糧秣や弾薬が一杯あったが、全部アメリカ軍の空爆で燃えてしまった。池田さんを隊長とするおよそ80人がいた。2メートル半のトカゲがいた。銃弾は50発しかなく、銃は使えない。針金の太い奴を焼いて硬くして竹の先に縛り付けてトカゲに向かって投げるのだが、トカゲはすばやく駄目だった。草を食べようという事になった。四個分隊から各2名ずつ出して試食してもらう事になった。あたったらどうすると言う事になって、試食というのはよくわからないので隊長が試食してくださいと言われた。隊長殿が大丈夫だったら自分達も食べますからと。

3月10日 半藤一利(作家 74)東京、向島で中学2年生だった。頭の上で焼夷弾がはぜた。隣の家は油屋で一気に燃えた。消せと教わっていたので消そうとしたが、火が風を呼び火流が吹き降ろしてくる。これ駄目だと思って周りを見たら親父はいなかった。大人が逃げろと言ったので一緒になって逃げようとした。しかし行こうとした方向から逃げて来た人がこっちは駄目だ、上に行けと言うが、上は火の海だった。後ろから背中が燃えてると言われ、見たらちゃんちゃんこが燃えていた。平井橋まで逃げたが、煙がたちこめ渡れる状態ではなく、大勢の人がそこで立ち往生していた。なんとなく大勢いると安心するのかそこで座ったりしていたら、周りが一気に火の海になった。向こう岸から何艘も船が出てきて、川に落ちた人を救っていた。降りて船に乗せてもらった。岸に残ってうずくまっている人が鉋屑のように燃えた。自分も船に落ちた人を引き上げていたら、一人の人に肩をつかまれ、川に引きずり込まれた。長靴に水が一杯たまってスポーンと抜け、その拍子にホイと水上に上がった。その時襟首を掴んでくれた人がいて助かった。
医学生、山田風太郎の日記。「焦げた手拭いを頬かむりした中年の女が二人、ぼんやりと路傍に腰を下ろしていた。風が吹いて、しょんぼりした二人に、白い砂塵を吐きかけた。そのとき、女の一人がふと蒼空を仰いで、「ねえ…また、きっといいこともあるよ。…」と、呟いたのが聞こえた。自分の心をその一瞬、電流のようなものが流れ過ぎた。人間は生きてゆく。命の絶えるまで、望みの灯を見つめている。」

3月12日 早乙女勝元(72 作家)東京大空襲の後、墨田公園の桜並木が満艦飾の衣類で覆われていた。そこに逃げた人達の身に着けていた物が突風で吹き上げられ、枝という枝に貼り付いたんだろう。根という根が焼き払われていた。

3月15日 フランスで「天井桟敷の人々」を封切。この日の毎日新聞には「最新除倦覚醒剤、ヒロポン錠」の広告がある。藤本義一(72 作家)堺在住。前日の大阪での大空襲で難波新地(?)にあった父親の質屋も全焼。その事により45歳の父親は当時、神経衰弱と言ったが、うつ病にかかった。何も言わなくなり、「こより」ばっかり作っている。質屋では「こより」を使った。堺も空襲を受けた。自宅が焼夷弾の直撃を受けたが不発だった。翌日焼け出された知人を見舞うため、父親と二人で堺を歩いた。堺は堀が張り巡らされていて、小川みたいなのが一杯流れていて、割合深くて、そこに12,3人の遊女達が死んでいた。手と足が一本の紐で繋がっていた。逃げないように縛っていたのではないか。家に帰って、上着やなんかを脱がされて洗ったのだが、屍臭は取れず、焼き捨てた。

3月16日 後藤悟(76 元立行司 第28代木村庄之助)後藤さんは大相撲序二段行司だった。戦中も相撲は大人気だった。昭和19年11月、小石川の後楽園で相撲をした。四日目、6,7万のお客さんが来た。国技館では風船爆弾を作っていた。3月10日の大空襲で国技館は焼け落ちた。

3月18日 妹尾河童(74 舞台美術家)3月17日未明、神戸で無差別じゅうたん爆撃。照明弾で明るかった。焼夷弾はザッーとものすごい音がする。束ねられているのが途中で開いて、全部火を噴きながら落ちてきて、しだれの花火みたいで、綺麗だった。

3月19日。上野動物園の猛獣処分を免れていたカバの絶食処分が決まる。
近衛元首相側近、細川護貞の日記「朝日論説委員某氏の話。過日東京の焼けたる時、罹災者は皆疲れて路傍に座し居たるも、軍の自動車二台、泥水をけつて来り、参謀数名視察に来る。彼等力失せたる罹災民は皆期せずして一せいに立上がり、「お前達の為にかうなつたのだぞ、それを視察とはなんだ。」との々しり、遂にすごすご彼等は退散したる由なり。」

3月24日 黒木和雄(74 映画監督)軍旗を見たら敬礼しなければいけないのに、兵隊に見とれて忘れていた。憲兵が飛んできた。自分達三人、駅長室に連れ込まれ暴力で制裁された。

3月26日米軍、座間味島に上陸。住民170人あまり自決する。

3月27日 米軍、渡嘉敷島に上陸。山中に避難した300人以上が自決する。

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