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あの日 昭和20年の記憶 12月編

12月1日 サイパン島陥落以降、一年半も山中に隠れていた陸海軍将兵45名が下山し、米軍に降伏する。

山内久さん(80 シナリオライター)昭和20年のこの頃は中国山東省で共産党軍と戦っていた。国民党軍を率いる蒋介石の命令を受け、中国の内戦に巻き込まれていたのだった。戦時中は逆に隊伍を堂々として移動するなんて事はむしろ無かったんですが、司令官は馬に乗ってる、将校も馬に乗ってる、軍医も馬に乗ってる、兵隊だけ歩いている、そういうような行列と言うのは戦争中はむしろ無かったですねえ、野戦展開していて。そう堂々と繰り出してって、山砲という小さい大砲を持ってって、それでバカバカ撃ちあいになったんですね。翌年1月内戦停止の協定が成立。山内さんの所属する部隊も武装解除された。武装解除すんで、青島(チンタオ)まで歩いて帰ると言う事になったんですね、鉄道がズタズタなんで。歩いて帰ると言う事、ちょうど百里(約400キロ)、どういうふうにして、敵意を持っている中国人の中を突っ切って行ったら良いのか、武器が無いわけですから。町の中では別に何も起こらないんですが、町外れに来ると、どっからか農民が出てきて、我々の行く手を塞ぐわけですね。それで、今考えると殺意は無い、殺そうとするんじゃなくて、背嚢の背負い綱ですね、その綱に向かって棒を添え木にした鎌、長い柄の着いた鎌、それを背嚢の背負い綱にはめて、バッと引っ張る。両方やられちゃえば、ゴロンと落ちるわけですね。そうすると若い奴らが、子供みたいのも来ますけど、バッーと突進してきて、それを掴んで持ってく。歴戦の勇士が「密集隊形!」と指揮取るわけですな。肩と肩を寄せ合わせて、農民に引っ掛けられない密度まで堅く肩寄せ合って、逃げるように帰ってくるわけです。

当時医学生だった作家山田風太郎の日記「明らかに、進駐軍を見得る土地の日本の民衆はアメリカ兵に参りつつある。軍規の厳正なこと、機械化の大規模なこと、物資の潤沢なことよりも、アメエイカ兵の明朗なことと親切なこととあっさりしていることに参りつつある。吾々は、この民衆を嘲笑したい。ただ時勢のままに動く愚衆の波を笑いたい。-しかし笑うことは出来ない。この愚衆こそ、すなわち日本人そのものだからである。」

12月2日 三菱財閥の総帥、岩崎小弥太が66歳で病死。

作家、長与善郎の日記「この間の議会で米内が立つと、恥を知れ、とか何とかいろいろ怒罵の野次が飛んだ。下村陸相の神妙な平謝りの謝り方に対して、彼はさういふ言葉を現はさなかったからだ。さうして昨日海軍省の最後の始末の報告をした後、米内は「永い事お世話になりました、これでお別れです」と一言云って永久に議会から姿を消した。彼に「恥を知れ」と怒号したやうな「恥知らず」が去らない限り、日本は永久に救はれない。

12月6日 戦後初のアメリカ映画「ユーコンの叫び」封切り

河合隼雄さん(77 臨床心理学者)当時17歳。神戸の工業専門学校の1年生だった。12月を越えた当たりで、みんなが食事の買出しに行かなければ生きて行けないので、期末試験は止めようと言うストライキをやったのを覚えています。学生が買い出しストライキ。この歳の学期末の試験は無かったと思います。学校側もある程度歓迎してたんじゃないかな、先生も大変だったんじゃないですか、みんな食べる事に。師走早々、兵庫県丹波篠山の実家に戻った。ちょうど軍医として東京にいた兄も復員、その兄と共にある物を作った。ようするに米の配給はほとんど無い。小麦粉とかコーリャン粉とか一杯きますね。そうするとパンを自分の家で焼かなきゃならない。パン焼き器を作った。箱に電極を入れて、そこにやっとくと焼けてくるんですよ。そういうパン焼き器を作って、パンをよく焼いてましたね。このパンがいかに世界一うまいかという口上を兄貴達と作って、大喜びで食ってましたよ。東条英機の口調でこのパンがいかに世界に誇るべきものかとか。

12月8日 中国からの引き揚げ船第一便が、2184人を乗せて、鹿児島県加治木港に入港

12月9日 当時医学生だった作家、山田風太郎の日記「省線電車に乗っていたら、満員の隅の方から、「誰か何かちょうだいよう」という声が聞えた。少年の声であった。「誰か何かちょうだいよう」みな、しんとした。声は一分に一度くらいの割合でつづいている。「誰か何かちょうだいよう。イモでもミカンでもいいから、誰か何かちょうだいよう」くすくすと笑う声がざわめいた。すると少年の声は憤然となった。「笑うやつがあるかい!ひとが何かちょうだいっていうのが何がおかしいんだい!笑うやつがあるかい!」声は泣声に変った。」

12月13日 専売局長官、年末には、成人男子一人当たり30本のたばこを、特別配給すると言明。

作家、永井荷風の日記「南洋諸島より帰還する兵卒の中には三四年前戦死せしものと見なされ、家族へ遺骨までも其筋より送り届けられしものも尠からぬ由なり、熱海天神町に住みし一商人あり、四年前戦死し靖国神社に合葬せられしかば、親族合議の上その妻を戦死者の実弟に嫁せしめ遺産の相続をもなしたり、子供二人出来幸福に暮しゐたりし処、この程突然死んだと思った兄かへり来りしかば、一家兄弟大騒ぎとなりごたごたの最中なりと云」

12月14日 ニュルンベルク国際軍事裁判で、元秘密警察の職員が、殺戮されたユダヤ人は600万人と証言。

12月15日 石炭不足のため、国鉄はこの日から、旅客5割減など、大幅に列車を削減。
上野地下道の浮浪者を一斉収容。

12月16日 戦犯容疑者として出頭を命じられた近衛文麿元首相、自宅で服毒自殺
前夜からこの朝にかけて、神田、京橋、荒川などで、追いはぎ、押し入り強盗が続発。

12月17日 その場で当たりがわかるスピードくじ発売。一等100円。副賞に煙草10個。

12月18日 作家、内田百閒の日記「外に出ないから道ばたの買物が出来ないのでおかずの魚が無い。鰯、三馬等はこの頃は自分で買って来る。初めは蜜柑を買うのもいやだったが、この頃は馴れた。鰯は大体三十匹で十円である。三馬は三尾又は四尾にて十円である。一度のご飯に三馬は三ツか四ツか、鰯は七ツ位食べる。それでじきに無くなるが、無くなればそれ迄であって、その為に少しずつ食べると云うのは、家風でない。」

12月19日 山手線の満員電車で、幼児圧迫死。

12月20日 作家、高見順の日記「私と玉枝さんとは、しばらく浅草の話。「この頃浅草はこわいわ」浅草育ちの彼女が、浅草をこわいという。人気(じんき)が悪くなったそうだ。そして夜は追剥強盗の横行で、壕にいる人は、男でもこわがっているという。<ついでに。-大船なども、撮影所付近は軒並強盗に襲われているという話だ。中山君のいる極楽寺の方も、夜、ピストルの音とともに人の悲鳴が聞えたりして、物騒極まりない由>

12月21日 フィリピン弁護士会が戦争犯罪人に天皇を含めるよう、米大統領に要請したと米国弁護士会が発表。
東京の地下鉄が故障で立ち往生。老人が窒息死。

ちばてつやさん(66 漫画家)当時6歳。昭和20年のこの頃は、当時満州と呼ばれていた中国東北部の街、奉天近郊にいた。終戦の日の暴動で家を追われてから、各地を転々とし、ここで冬を過ごす事になった。みんな避難民みたいに、あっちに隠れこっちに隠れしてる状況でしたから、新聞はもちろん、ラジオも聞ける状態じゃないですから、いろんなデマ、しかも非常に暗いニュース、みんな絶望してたんでしょ、だからどうしてもそういう暗いニュースになるんでしょうけど、日本へもしうまく帰る事が出来たとしても、女子供はどんな事をされるかわかんない、男なんか奴隷としてホントにこき使われる、子供なんか連れて帰ったって、子供を育てられる状況にないよ、そういうニュースが、ニュースというか噂が飛び交っていましたよね。そこで絶望して、自分の可愛い子供を、日本へ連れて帰っても、育てる土壌が無いんだったら、ましてや明日の食べる物も無い、この子はこのまま飢えて死ぬかもしれない、そうすると親としては何とか生きて欲しいと思うと、裕福な中国人を探して、そういう人に、預けてしまう。日本人の子供ってのは、小さい時から教育を受けてるせいか、中国では日本人の子供は賢いと思われてたんですね。そういうあれがあったもんだから、日本人の子供、とても欲しがって、僕の家も、四人も男の子ばっかりですけども、四人もいるんだから一人ぐらい良いじゃないって言って、来る人がいましたよね。栄養失調のせいもあって、おできが一杯できるんですね。特に僕は耳が一杯出来て、耳が千切れそうになったのを覚えてますね。いっつもお腹空いてるものだから、ベルトをぎゅーっと、ベルトだったか紐だったか覚えてませんけど、こうやってぎゅーっと締めると少し空腹が紛れるんです。

12月23日 復員将校を自称する10人組の強盗や元陸軍少尉の銀行強盗など頻発

12月27日 国内でのBC級戦犯、判決第一号、捕虜収容所で捕虜を殴った元警備兵終身刑。

小島功さん(77 漫画家)昭和20年のこの頃、浅草浅草寺の妙徳院に、下働きをしながら居候していた。空襲で焼け出され、家族は疎開、小島さん一人が東京に残ったためだった。寺に9人もいるんですよ。半分は居候。親戚の人とか、出入りの酒屋さんとか。寺の周りは闇市になっていた。そこは娯楽を求める人の活気に溢れていたが、一方で殺伐とした世界でもあった。当時みんな特攻隊が帰ってきて、世の中で荒い事するわけですよ。特攻隊帰りって非常に怖がった、やくざも怖がった。死ぬつもりでいたんだから、死ねなかったわけでしょ、何も怖いものが無い。道歩いてるとね、いきなり、ポカッーと殴ったりするんですよ。何の理由も無いの、出会い頭に、気に食わないから。荒れてた、ホントに。だからもう、一番癒されるのは歌なんですよね。サトウハチローが作った「リンゴの歌」なんてね、たいした歌じゃないんだけど、ものすごくみんな夢中になって。並木路子、歌だけでもって一杯になっちゃう。大勝館という大きな劇場なんですよ、浅草でも、洋画を主にする、ちょっとしゃれた映画館、そこ一杯になっちゃうんですよ、彼女が来て唄うだけで、一人ですよ。それでウワッーと一杯になっちゃう。僕らも鈴なりになって見る。あの娘が手を振りながら唄うと、太ってるのあの娘は、手(腕)が。太った人なんて見たことないんだから、すごく魅力的だった。僕なんかが「春の小川はさらさら流る」、あんなねえ下らないわかり切ってる歌をふっと聞いたら、プワッーと情景が出てくる。小川が流れてねえ、キラキラしてさあ。いっぺんにカッーと感情が高ぶって、涙がボッーと出て止まらない。恥ずかしいんだけど、どうにもならない。そのへんから僕は戦争中の緊張感がほどけたんですね。

12月28日 GHQ「日本を支配した旧体制は除去する、絶対天皇制は近く消滅する」と発表。

当時医学生だった作家、山田風太郎の日記「夜の炉端に近所の百姓ら集まり、ただ天皇を憂うる声のみ。たまたま新聞に、北海道にて天皇打倒を演説せる徳田球一が、地方民に袋叩きに合い、民衆天皇陛下万歳を絶叫し、君が代を高唱せりという事件報道せられ、百姓ら、球一がこの村に来たら袋叩きどころかぶち殺すという。天皇信仰の鉄壁はげに農村にあり。ああ、これら農民の信仰は盲信との区別なし。それゆえに強く、それゆえに弱し。」

12月29日 毒蝮三太夫さん(69 タレント)当時9歳。東京台東区の国民学校4年生だった。戦時中、焼け出されて以来、知り合いの家を家族で転々としていた。昭和20年のこの日は父親が作ったバラックで暮らしていた。この頃、焼け跡で暮らす人達の間で、発疹チフスが流行していた。毒蝮さんもこの伝染病に感染した。そしたらね保健所の役人が入ってきたの。DDTってのを持って、それとねMP(憲兵)が二人ぐらい俺のうちに入ってきて、「ヘイ、ユー!」って言うんだよ。で、これは何とかって話してるんだよね。これは法定伝染病の発疹チフスだって言うんだよね。これはほっといたらすぐ死ぬ。これはどんどんどんどん伝染するから、隔離しないとダメだ。それでいきなりうちの中真っ白け。頭の中までやるの。それで近くの駒込病院に入った。30人か40人いる病人の部屋。あのね、発疹チフスって高熱は出てるけど、意識はしっかりしてるから、どういう状態なのかなってわかってるの。夜になるとね、死んだ人を運ぶ車ですよ、それがガラガラガラガラッって音がすると、向こう側のベッドの人がいなくなるんだよね。朝見ると5,6人いない。って言うのはみんな霊安室行っちゃう。あっ、こんなに死ぬんだと。子供は俺しかいなかったのかな。そしたらおふくろが俺の枕元でね、「南妙法蓮華教!南妙法蓮華教!…」団扇太鼓でね、大きな音なんだよ。俺は意識はしっかりしてるから聞こえるんだよ。「南妙法蓮華教、南妙法蓮華教…」一生懸命お題目あげてるの。死んでないんだよ、俺達。生きてるのに、お経あげてんだよ。助けようと思って。まだ覚えてるのはね、おふくろが医者にね、「私はどうなっても良い。この子は助けてください。先生お願いします」って言うのをまだ覚えてるね。それで何日か経ったら、熱が下がったんです。それで医者が「峠を越しましたよ。これから風邪もひかないような子になりますよ。多少バカになりますけど」って言ったね。そしたら親父が喜んで迎えに来てね、やせ細った俺をね、自転車の後ろに乗っけてね、駒込から…、山坂あるんだよ結構、不忍池通って、谷中通って、それで竜泉寺まで帰ってきた。帰ってきたら、近所の人達が、死んで帰るって人が多いんですよ、当時の発疹チフスとか伝染病ってのはね、良く帰ってきたって拍手で俺を迎えてくれた。下町だよね。


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コメント

はじめまして
中国からの引き揚げ船第一便・2184人を乗せて加治木港・・の記事を見付け少し質問させてください
 この第一便は葫蘆島から出港したのでしょうか?

投稿: Webrider | 2007.05.17 11:26

Webriderさん、はじめまして。

わざわざ私のブログを読んでくださり、うれしいですが、すみません、葫蘆島から出港したのかどうかは知りません。
これはNHKBSで放送した「あの日 昭和20年の記憶」をメモったもので、「中国からの引き揚げ船…」という記述は、画面に文字で書かれたものをメモしたものです、と思いましたが、今思い返してみると、読み上げられたものかもしれません。
この手のものは大体そのまま写しました。もしくは、聞き取ったまま書き写しました。アナウンサーの発音ですから、聞き間違いは無いと思います。
書き間違いはあるかもしれませんが…。
この番組は上下巻で本として発売されています。
本にお探しの情報が載っているとは思いませんが、そちらに参考資料が載っているかもしれません。
すみません、お力にはなれませず…。

投稿: tyantyan | 2007.05.17 23:18

突然の質問にもかかわらずご丁寧に教えて頂き、
深く感謝いたします

下記のページを管理しているものですから、http://santaclaus.at.infoseek.co.jp/
中国からの引き揚げ船第一便・到着港が
加治木であったことに興味が沸きました 
さっそく地図ファイルには加治木港を追加しました
勇み足とは思いません プログから漂う誠実さで、
あなた様のメモの信頼性が高いのです
調査は進めます・・・ありがとうございました^^ 

投稿: Webrider | 2007.05.18 02:01

少しでもお役に立てて嬉しいです。
はい、加治木港は確かだと思います。

Webrider様のホームページ、拝見させていただきました。
何人もの方が、ありがたく思うホームページだと思います。
出港した港もわかると良いですね。

丁寧なコメント、ありがとうございました。


投稿: | 2007.05.19 22:56

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