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あの日 昭和20年の記憶 11月編

あの日 昭和20年の記憶 11月編

11月1日 日比谷公園で餓死対策国民会議開催される。

ちばてつやさん(66 漫画家)当時6歳。日本に帰るに帰れず、今まで住んでた自分の家にもいられない。あっちへ逃げ、こっちへの逃げと言う状況で、日本人がみんな避難民になって大陸を右往左往してた時期ですね。昭和20年のこの頃、当時満州と呼ばれていた中国東北部奉天近郊の民家の納屋に隠れ住んでいた。ここに移ったのは秋も早い頃、奉天を追われて、逃げ回っていた時だった。我々一家6人は、僕が新しい靴を履かされたって事もあるんだけど、靴の釘が出てきてね、団体行動で逃げ回るわけですけど、足に釘が刺さるもんだから、痛くて痛くて、それに親が気が付いて、靴を直している間に、一緒に避難してた人達とはぐれてしまって、我々一家だけになってしまったんですよ。コーリャン畑の中だったと思いますけど。我々と行動していた人達を捜している内に、中国人とばったり出会うんですけど。その人がたまたま親父と仲が良かった中国人だった。「千葉さん、こんなとこで何してるの。こんなとこに日本人だけが、一家でこんな少人数でいたら危ないよ」そこでどうして良いのか、我々わかんなかったんだけど、「まあこっち来なさい」って言って連れてってくれたんです。自分の家の納屋みたいな所がありましてね、後ろの方に小さなはしごがあって、そこをずーっと上がっていくと、屋根裏にちょっととうもろこしだとかそう言った物が少し置いてありましたけど、そこに我々を匿ってくれたんです。父親は一家6人の食料を手に入れるため、匿ってくれた中国人と仕事を始めた。我々の食事どうしようかと言う事で、匿ってくれた除さんが「一緒に働こう。私が中国語で市場へ行って買い物するから、それを持って色んな所に売りに行けば、何とか冬を越せるよ」と言う事で、親父に中国の服を持ってきてくれて、「これ着なさい。千葉さんは口きいちゃダメよ。口きいたらすぐ日本人とわかって何されるかわからないから」て言う事で、除さんとうちの親父とありあわせの金で何かを買っては、どこかへ行商して歩いたんですね。中国人も朝鮮の人達もみんな飢えてる状態でしたけど、特に日本人は自分達で市場で買えない状態でした、どっかに隠れてるわけですから潜んで。満蒙毛織(まんもうけおり)とか色んな工場がありまして、そういう工場の倉庫みたいな所に日本人が隠れてるんですね、団体で隠れてるわけです。そういう所は自分達で何かを買いに行く事が出来ないわけです、怖くて。日本人を見たら何されるかわからない状態でしたから。だからそういう所に持ってって売ったと言う話を後で聞きましたけどね。屋根裏に隠れ住む生活は数ヶ月間続いた。3歳と4歳とそれから僕ですから、ホントに表で遊びたいような子供で、後乳飲み子ですから泣きますよね、泣かせないために、声が表に漏れないために、必死で母親がお乳含ませたりしてました。そういう狭い所にずっといると言う事は非常に苦痛だったですね。中国の子供達が遠くで遊んでる声が聞こえたりすると、ハッと窓から覗きたくなるんです。そこから覗くと、あそこに人がいるとわかると除さん達に迷惑がかかると、ずいぶん母親に叩かれてね。

11月2日 東松照明さん(75 写真家)昭和20年のこの日、家族は疎開先から帰らず、名古屋で一人暮らしをしていた。敗戦と同時に食糧難に襲われて、食う物が無い。お金があっても何も買えない。だから生き延びるためには盗み以外無い。私は盗みの常習犯で、一度も捕まった事が無い。農村だけでなく、そこらの一般家庭でも、ちょっと空き地があったら、そこを耕してトマトだのすいかだのじゃがいもだの、とにかく食える物何でも作った。我が家から10分位行くと農村地帯があった。お百姓さんも、自分達の生活、作物を守るのに必死ですから、ある食物が実る時期になると樫の棒持って見張る。そこをお百姓さんの目を盗んで畑の中に忍び込まなければいけない。匍匐前進が役に立ちます。持って出てくると現行犯で樫の棒で叩かれますから、その場で食べる。家が無人なので、自由に使えた。仲間の一人に近くの菓子工場に勤めている工員がいて、アメリカから放出されるマーブルチョコレートを箱の中に入れて、山積みにされてて、それを加工しながら、売ると言う工場に勤めていて、その情報持ってきたものですから、じゃあ盗み出せと、グループを結成して、夜中に工場の塀の周りに、5メーター間隔で明かりがついてて、その明かりが届く範囲のちょうど中間に暗がりがあり、その暗がりに菓子を工場の中から投げる。中に入れるのは工員だけですから。巡回の守衛が回ってくる。向こう側に回り込んだ時がチャンス。リヤカーに積んで逃げた。我が家に運び込んで。そのまま売ると足がつくから、もう一度火にかけて、溶かして、チョコレートに片栗粉を混ぜて、型に流すと違ったチョコレートが出来る。それを銀紙に包んで闇市に持ってくと飛ぶように売れる。

11月3日 中国共産党軍と国民政府軍の戦闘は中国東北部まで拡大と外電が伝える。

中村メイコさん(女優 71)奈良県に両親と三人で疎開していた。昭和20年のこの頃は父親の教育方針で学校に通わない生活を続けていた。軍国主義一辺倒の教育に危機感を覚えた変わり者の父は学校には行くなと言った。何にも判断がつかない子供達に戦争は良い事だと教えてもらっては困る。でも今は国がそうなってしまった。国がやってくれないのは親が守らなければいけない。自分の子供だから。私がまがりなりにも行ったのは幼稚園と小学校だけ。基礎教育と、普通の子供の生活を知るため、お友達を作る事、そのためだけでも良いから仕事の合間に行って来い。父親とのマンツーマンの寺子屋式教育は結構父は怖い教授で、全科目を父が担当してるんですけど、終戦後すぐに父がした事は、進駐軍の兵隊さんをスカウトしてきて、彼らは文法は間違ってるかもしれないけど、アクセントは絶対良いからと。グレゴリーとペックと言う人。確かに発音は良かったんですけど、ずーっと戦前からアメリカに暮らしている私の従兄弟が、戦後会って、私英語しゃべれるわよとしゃべったら「どうしてそんな汚い言葉を使うの、メイコは」と怒られて、「それははしたない女の使う言葉です」って。特攻隊の慰問から帰ってきて、舌の根も乾かぬ内に、私が行ったのは進駐軍の慰問です。仕事場には先生代わりになってくれる人が大勢いた。私が今でも漢詩が大好きで、漢文がまがりなりにもわかるのは徳川夢声先生のおかげです。正しい英語は古川ロッパさんです。ロッパさんはものすごく英語がお上手な方で、レディの英語を教えていただきました。

11月13日 財津一郎さん(71)熊本の国民学校6年生だった。昭和20年のこの頃、母親がかっけになって寝込んでしまった。財津さんは食べ物を手に入れるため、衣類を持って、一人で郊外の農村へ出かけた。電車に乗って一時間半かかって行くわけです。で、「これと何か食べ物と交換してください」と農家の人に言います。メリヤスの子供用手袋を見て、ざるから乾燥したソラマメ、それを一握り僕の雑嚢にポンと入れて、スッと持ってちゃう。穀物は絶対くれませんでした。所謂麦とか、米はね。で、次の農家に行って又頼むと、レギンスを広げて、大豆の干したの、一握りバッと入れて。それを担いで、歩いて行ってたら、農村の子供達にワッと取り囲まれた事があってね、肩を突つかれて、その内一番年嵩のこんな長い棒を持ったのが後ろからガンと突く、僕は思わずよろけて倒れる、雑嚢にもらった乾いた大豆とソラマメがぬかるんだ馬車道にズワーと崩れて、落っこちちゃった。そのとたん、ぶちきれちゃったですね。狂ったように、ウワッーと、その一番年嵩の奴が持っている棒を取り上げて、地面を狂ったように叩いたんですよ。あまりの形相にびっくりしたんでしょう、ハッと気づいたら誰もいない。我に返って、大豆とかソラマメを、泥も一緒についてくるわけですね、それを全部泥ごと入れて、リュックサックしょって、一歩二歩歩き出すんだけど、又どっかの路地に待ち構えてるんじゃないかと恐怖感がよぎる。立ちすくんでると、それを見てたのかどうか知らないんだけれど、生垣の向こうに、農家の入り口があって、おばあちゃまが一人、腰の曲がった、白髪の、手でまねくんです。一歩二歩三歩近づいていく。しゃべらずに、パントマイムですね、身振りでついて来いと。泉水があって、農家独特の家の建て方で、母屋に入ってく、あがれと言う、囲炉裏がある、炭火がある、座れと。リュックサックを下ろして、座ってると、おばあちゃまが仏間にいなくなった。黙って待ってると、やがてふすまが開いて、お盆に丸いお餅を、僕ら配給でもらうのは四角いの薄い、色は白墨みたいで、見た事無い、五つばかり持ってきて、囲炉裏で焼いてくれる。ジーと見てるうちに、やがてポカー、ポカーと餅が焼けだす。匂いがプンとくる。食えと。熱い、大きな焼けたのを、ちぎろうとするんだけれど、良くつきこんであるんでしょう、良いもち米を、切れないんです、これが。その内、意味も無く泣けてきた。手に持ったままわんわん泣いたです。そしたらおばあちゃんが「よかー、よかー。食べたらよかー」それだけおっしゃる。で、泣きながらいただいて、母に一つ二つ頂いて、又リュックサックしょって、帰って、ふとんに寝てるおふくろの所に、リュックサックと、雑嚢と餅をドーンと置いたとたんに、又号泣ですよ。母は何も言わない。母の寝返った目じりから涙がザッーと落ちるんですね。

11月18日 すぎやまこういちさん(74 作曲家)当時14歳。中学校を休学していた。昭和20年のこの頃は、疎開先の岐阜から東京に戻ってきたものの、厳しい食糧不足に苦しんでいた。戦争の最中(さなか)の方がまだしも食料はましだった。疎開していた岐阜県の田舎、木曽川の支流の上流の方ですが、そこですと、イモリとか蛇のアオダイショウとかカエルとか、を捕まえて、焚き火して焼いて食べる。動物性たんぱくを補う事も出来たし、川にドンコなんて言うにぶい魚がいて、アホだから簡単に釣れる。ビタミンCは田んぼの脇に生えている現地の人は食べない野蒜(のびる)を積んできて、それを煮て食べる。都会に戻ってきたらば、配給の範囲内でしか食べられない。都会ですから、身の回りにイモリもいなければ、そう簡単にカエルを捕まえてくるわけにもいかない。魚を取ってくるわけにも行かない。父親がくそまじめな人でしたから、闇物資に手を出すと言う事はしなかった。栄養不足はひどくなる一方で、遂にすぎやまさんは生死をさまようほどの栄養失調になった。もうみんな痩せさらばえてましたけれど、はっきり栄養失調の病状が出たのは、総領の僕でした。同じ量食べても、年が上の分だけ必要量に足りなかったんでしょうね。動物性たんぱくの不足で、お腹がどんどんガスふくれて、下痢が止まらなくなって、アフリカの国なんかで、子供達がそういう症状になって、随分大きな悲劇として取り上げられた、で新聞に写真が、お腹が膨れた子供の写真があったりしたんですが、それを見ると当時の自分を思い出したりする事があります。父親がそれを見てすぐこれは動物性たんぱくの不足だ、危ないと感じて、どっかからアミノ酸を入手してきて、アミノ酸を注射したりして。それから後一回はビタミンCが不足して壊血病になりました。壊血病と言うのは歯茎から出血が止まらなくなるんですね。それも、アスコルビン酸ナトリウム、つまりビタミンCを急遽注射して何とか食い止めて、生きながらえたんですけれども。すぎやまさん達の命を救ったのは町に登場したびっくりシチューという食べ物だった。当時の高円寺の駅前なんかに、露天が建って、露天でびっくりシチューというのが売ってましたね。びっくりシチューというのは、何がなんだか訳わからない、闇市で売ってる、米軍のPX(米軍の売店)なりキャンプから放出された残飯、残飯を全部叩き込んで、で煮っちゃったと。その中には食べ残したソーセージのきれっぱしとか、ベーコンのきれっぱしとか、動物性たんぱくもあるし、それが出てくるようになって、びっくりシチューを食べて栄養を補って、つないでいった。それ食べながら父親がくやしいって言ってね、ホントは意地でも食べたくないんだけれども、生きるためにはしょうがない、くやしいって言いながら食べた。

11月19日 毎日新聞「女子に門戸開放 男子と同資格 高校、大学の入学」

羽田澄子さん(79 記録映画作家)昭和20年のこの頃は、中国東北部の大連で、家族と一緒に暮らしていた。避難民であふれ返る街には、終戦直後からソビエト軍が駐留していた。最初に入ってきたのは、罪人が兵隊になった軍隊と言うのがまず先頭にいたんですね。その軍隊がひどい事をしたものですから、ソ連軍の軍隊と言うのはものすごく評判が落ちたわけです。大連でも郊外で、最初にそういうとこから来た人に、家に入られた人達はひどい目にあってるわけです。そういうい話がパッと広がって、私なんかも非常に警戒したんですが、私のうち辺りに来た時には、最初の軍隊は全て撤収して、次の軍隊が入ってきたんですね。ですからそういう意味で治安はまったく平穏でした。ソ連の司令部は前にひどい事をした兵隊を見せしめのために広場で処刑するという事をやって、一応人心を収めた。日本人は皆失業者になった。羽田さんは母親や友人達とソビエト軍の女性兵士相手に商売する事を思い立った。その人達に日本の着物を売ろうと、そこらへんはみなすぐ頭が回るんですね、たちまち日本の着物を持って広場に行って売ったりなんかするわけです。そうするとそれがものすごい勢いで売れたりするわけです。喫茶店を開く日本人もいて、ピロシキをうちで作ってそれを籠に入れて喫茶店におろして歩くという事をやった。今度はきくやというデパートがあって、そこにケースを借りて委託販売しようという事になって。卒業生のグループと一緒に、知ってる方から色んな品物を受けて、ケースで委託販売をみんなで交代でやった。

作家 高見順の日記「進駐軍司令部民間教育情報部へ行く。磯部氏の紹介と通訳で、ファー少佐に会う。どうも気が進まなかったが、社の仕事となるとそう言っていられない。ファー少佐の態度はすこぶるいんぎんを極めていた。前を通るとき、いちいち「エクスキューズ・ミー」と言い、自分から私たちのために椅子を運んでくれる。ビルマの日本軍の報道部の傲慢不遜な空気を思い出した。同じ日本人の私が、たまらなく不愉快だったのだから、まして現地人にとってどんなだっただろう。」

11月20日 ドイツでニュルンベルク国際軍事裁判が開廷される。
GHQから戦犯として指名された本庄繁陸軍大将が自決。

11月21日 近藤芳美さん(92 歌人)建設会社の設計技師だった。昭和20年のこの日は東京羽田で進駐軍宿営地の兵舎のレイアウトを担当していた。遥か彼方にまだ鳥居が残っていましてね、その先に日本の戦闘機が集められましてね、ブルドーザーで集められていった。それに重油をかけて、毎日毎日アメリカ軍は日本の戦闘機を焼いていました。進駐軍兵士達を観察していた近藤さんは、彼らの振る舞いに、その本音を垣間見た。彼らはどこかの太平洋の島で一匹の犬を見つけまして、それを飼っていまして、「トウジョウ」と言う名前をつけまして、その犬をいじめてるんですよね。蹴ったり突付いたりしましてね。そうしてうっぷんを晴らしてるんです。何のうっぷんかというと早くアメリカへ帰りたいんですよ。「トウジョウ トウジョウ」と言って犬をいじめていましたけれどね。

11月22日 やなせたかし(86 漫画家)戦時中は中国戦線で野戦重砲部隊の軍曹だった。昭和20年のこの日は上海近くの村で国民党軍の捕虜になっていた。僕らは武装解除されなかったんです。なぜかと言うとすっごい匪賊と言うか盗賊が多いんですよ。ですからぼくらがそこにいるとそういうのが来ないんで、この村を守ってくださいと言う事で武装解除もされなくて、ただし階級賞は全部剥がされました。

11月23日 米軍が大阪城を接収したと米紙星条旗が報じる。

馬場あき子さん(77 歌人)昭和20年のこの日は東京の専門学校の1年生だった。新学期は11月の上旬に始まったが、校舎は空襲で焼けていた。代わりに使う事になったのは焼け残った陸軍の兵舎だった。秋になると払い下げられた校舎に金づちとやっとこを持って集まれと言う指令が来た。行って見ると兵舎だった。兵舎の中に二段ベッドがどの部屋もどの部屋もあって、これをやっとこ入れて金づちで叩いて、ベリベリと剥がすんだと言うわけ。それを5人ぐらいで一部屋を受け持った。みんなしてやっとこをこう入れて、こんちんこんちん叩き込んでね、せいのーでベリベリベリ剥がすんだけど、それこそ足をかけて、男仕事ですよね。ベッドの一番表になってる横板がね、バリバリバリと落ちるんですよ。そうするとそこの所に南京虫がビッチーと隙間も無く並んでるの。秋でしたからね、活動しなくなって、ただペチャンコになって張り付いていて越冬するわけなんですよね。それをねえ、我々ゾクゾクッーってしたけれども、そんなの驚いちゃいられない。何かでもってピッーと払い落としてね、箒でもって集めてね、南京虫を。そこに小学校から椅子をもらってきて椅子を並べる。机はまだ無い。11月の9日ぐらいでしたか、本当の勉強の始業式になったわけ。そこの所で勉強してると、11月の半ばぐらいになると、小春日和っていう暖かい日があるじゃありませんか、太陽がさんさんと窓を通して入ってくるとストーブが無くてもね結構あったかいものなんですよ。そうするとどこに潜んでいたのか、我々が掃除をし余したのか、南京虫が前の座ってる人の背中をだんだんだんだん這ってんですよ。襟元のとこまで行ったら落とそうと思ったの。襟元の所に行くと、パッと鉛筆で落として、足でギュッと踏んづけてつぶしてやるわけ。その頃とても良かったのは兵隊さんが入ったお風呂があったの、学校にね。で色々解体工事して山のように材木があったでしょ。それでお風呂をたいて、学校が学生にお風呂を提供したの。おかしくない時代なの、そういう事が。みんなお風呂、入れないんだから。入浴券くばられてね、好きな時に入っていいわけ。やがて通学途中の駅で、進駐軍の兵士に呼び止められるようになった。大きい駅にはアメリカの衛生兵がいて、日本人は敗戦で防空壕暮らしをしたり、あるいは廃屋に住んでいたりして汚い、ばい菌を一杯持ってて、進駐したアメリカの兵隊がそういうしらみにかかっては大変だと言うので噴霧器持ってるんですよ。そこには粉のDDTが入ってて、そういう日にぶつかると、みんな集まりなさいと並ばされて、頭から襟元から真っ白に噴霧器でもってDDTをかけられて、うちへ帰って又その頭を洗わなきゃならない。そしてね、腕にもうおまえは消毒したって証拠にはんこ押すの。青い判子をベタッと押してもらえば、次の駅通過したとき見せればいいわけ。見せなくたって頭が白いからわかりますよね。

作家、高見順の日記「専売局が新煙草の図案と名称を募集していましたが、その当選の発表がありました。名称一等「ピース」。戦争中英語全廃で、私たちになじみの深かった「バット」や「チェリー」が姿を消しましたが、今度はまた英語国に負けたので英語の名が復活。日本名だってよさそうなものに、極端から極端へ。日本の浅薄さがこんなところにもうかがえるというものです。「ピース」(平和)なんて、ちょっとあさましいじゃありませんか。

11月24日 GHQ、理化学研究所、京都帝大、大阪帝大等の原子力研究用サイクロトロンを破壊、海中に投棄。

11月28日 朝日新聞「一日八十四石平らげる 都の幽霊四万人 猫も人間にして登録」

小堀宗慶さん(82 遠州茶道宗家)戦時中は旧満州に会った陸軍航空情報部隊の少尉だった。終戦後まもなく、部隊はソビエト軍の捕虜になってシベリアに送られる。昭和20年のこの日は極寒の中で強制労働をさせられていた。11月になると零下40度だ、30度だとそういう日にちが、三寒四温ではないけれど、たまに暖かい日があるんですね、零下20度くらいの。20度くらいの時は仕事に出されるんです。30度以上になると仕事にならないんです。仕事に行ったらまず火を炊く、暖を取るという事が一番なんですけど、そういう時には火が燃えないんです。命じられたのは兵舎の柱を立てる穴を掘る事だった。地下3メートルぐらいは凍っている。(焚き火で)溶かさなきゃならない。溶かさないと柱が立たない。当番で不寝番して、一人ずつ行ってはマキを炊いて、時間になると次の者が行って。あれだけ焚き火してどれくらい掘れたかなと思うと1メートルまで掘れて無いんですよね。いくら火を絶やさないようにして、氷を取っても、50センチか60センチまでいけば、上々なんです。想像を絶する寒さの中、日本兵達は次々に倒れ、死んでいった。一番よく倒れたのは、零下40度の日が三日も四日も続く時があるんですね、そうすると、ペーチカにマキを入れて、そうしてペーチカ燃やすわけですが、段々薪が無くなって来るんです。薪を取りに行かなきゃならない。薪を取りに行く時は、本当に全部開門して(?)、それって言って駆け足なんです。死に物狂いで駆け足して、枝でも棒でもとにかく燃やす物を持って帰らないと入れてくれませんからね。ところがやっぱりもう疲弊しちゃって、だけど義務だから、みんなのためだから、体が弱ってても何ででも行かなきゃならないでしょ。気はせく、体はもう栄養失調でどうにもならない、疲労困憊してる、そういう人は行くとこまで行く間に倒れる人もいるし、帰りがけに薪持ったまま倒れる人もいるし、こういう人達が一番多かったですね。

11月29日 八王子でメチルアルコールを飲み4人が悶死。

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コメント

きょう、満蒙へ結成したかも。

投稿: BlogPetのちっちゃん | 2005.12.21 17:53

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