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あの日 昭和20年の記憶 10月編

「あの日 昭和20年の記憶」 10月編

10月2日 財津一郎さん(71 俳優)当時11歳。 昭和20年のこの日は熊本の国民学校6年生だった。アメリカ海兵隊が来よるぞって言うんで、防空壕で食うものも食わずに避難していた人達が、着の身着のままで見に行くわけですね。上熊本の駅前はこんな(5センチ以上か…)砂が積もっている、砂っぽこりなんですよ。今で言う十輪車て言う向こうの軍用トラックが、10台か15,6台来るわけですね。駅前の広場に止まるわけです。幌の中に海兵隊がいるわけです。みんな顔が真っ赤でね、南の方から来た人達でしょう。真っ赤にグリーンの海兵隊の制服着てるから、これが鬼に見えたんですね、本当に。周りを日本のお巡りさんがガードしてまして、サーベルしてました。点呼が終って、宿営地に移動と言う事になって、又トラックが一台ずつものすごい砂っぽこりあげて、グワッーと行くわけです。みんな埃を吸わないように口鼻を手で押さえて見てる。一番最後の重輪車のトラックの兵隊がダンボールの箱を持ってましてね、ワーッと(つまり箱の中身を遠くの方にぶちまけたと)やったんです。チューインガムとかキャンディとかそういうもんでしょう。それがパーンと下に落ちるわけです。見てた群集と子供達がブワッーっとたかろうとする時に、お巡りさんがですねえ、裂帛の気合で「よう、拾っちゃならーん!!」て言うんですよ。「拾うんじゃなかー!!」とすごい気合なんですね。みんなビクッとしてストップモーションですよ。そのお巡りさんの顔見たら、眼鏡ピッーとひび割れててね、こっちは紐ですよ(右の耳に紐でかけていたと)、かたっぽは眼鏡の枝。今にも抜刀せんばかりの気迫で、だからみんな止まるわけです。そのうち最後のトラックがバッーッと向こうの遥か彼方に消えていった。一人二人と足で寄せて拾い出す。それはお巡りさん黙認しましたね。

10月3日 「日米会話手帳」発売される。二ヶ月で450万部が売れた。
山崎巌内相、特攻警察の活動は継続すると談話。
帝劇で久保田万太郎演出、六世尾上菊五郎出演の銀座復興初演。

細江英公さん(72 写真家)当時12歳。昭和20年のこの頃、疎開先の米沢から東京に帰ると、神社の管理人だった父親の生活が一変していた。神社に収入の道が無いでしょ。何をやったか。やっぱりねえ、闇屋ですね。場所があるでしょ。物の集結の場所になってきてるわけですよね。本来それはコミュニティの物ですけど、コミュニティが食わせられないわけでしょ。そしてコミュニティの役員達、仕事もしてるわけですから、親父がいないと困るわけですよ。だけども収入が無いわけです。自衛のためにそういう場所を使いますね。だからこれは陸軍の何とかの倉庫からの物だ、とかね、そういうのがブーッ(?)と入ってくるわけですね。どうやって、いろんな事やってたのかな、うちの親父は。そしてそうすると女の人が朝早く来るんですよ。その女の人ってのは、大体年齢は30から50くらいの人で、大きな荷物を抱えてね、出かけてくんです。それがですね、銀座、新橋、その他のね、露店でもって売るわけです。売ったお金を持って、それから売れ残った物を持って、帰って来るでしょ。で、親父が色々仕分けしてね、お金を数えてね、それであげたりさ。言ってみれば、元締めだね。細江さんは闇市を見回る父親について、焼け跡の東京を歩き回った。浅草から上野へ行き、上野から神田へ行き、神田からそのまま、今の銀座通りですね、そのままずっと歩いていくと、日本橋があり、京橋があり、銀座があり、そして新橋がある。新橋より先は行きませんでしたね。それから銀座四丁目を右に曲がって、日比谷に行く。日比谷を真っ直ぐ行きまして、すこし左側見ると、国会議事堂が立派に見えるわけでしょ。その前が畑ですから。瓦礫が一杯ですから。それからあの辺の道、ズッーと、アメリカ軍のジープだとか、乗用車がねえ、駐車してるんですね。そして、新橋は特にそうですけどね、露店が沢山ありました。闇市ですね。食べ物がまずあるでしょ。食べ物が一番目立ちますね。ドラム缶みたいなものに、お湯を入れて、水はどっから持ってきたのかな、そこにイカをそのまま丸ごとバーンと入れる。イカの丸煮ですね。それが一匹いくらだったかな、十円だったかな。みんな復員してきたような人達、戦闘帽被っている人達なんかががね、そういう所にいてね、それが又物売ったりね。露店には秩序が無いんだ。ここで家の戸車を売ってたと思ったら、隣にね、アンパンのアンコは無いんだけど、パンみたいなのを売ってたりね。どこが専門ってのは無いんだね。専門があったのは神田ですね。これが今の秋葉原。あの辺はね、陸軍だか海軍だかの、そういう所で使っていた様な物、放出物資ですね、真空管ばっかり扱ってるとかね。かなり専門家したような状態で、電気屋さんというのが、いち早く立ち上がった感じがするよ。

作家、高見順の日記「東洋経済新報が没収になった。アメリカが我々に与えてくれた「言論の自由」は、アメリカに対しては通用しないということもわかった。しばらく銀座へ出ないので、様子を見ないかと山村君を誘って新橋で降りた。銀座通りはアメリカ兵の氾濫だった。雨上がりの秋の陽を浴びた白いセーラー服の反射が眼に痛い感じだった。「石鹸をふんだんに使っているな」セーラー服の純白に対する私の感想だ。「機械でサーッとやるんでしょうね。手でゴシゴシ洗ったりするんじゃなくて…」と山村君が笑った。(山村君、大当たり。アメリカは本国から最新式の機械を持ってきて、大々的に洗濯工場で洗ったそうだ。日本人が雇われたが、給料良かったそうだ。最新式の洗濯機械を見て、これじゃ負けるなと思ったそうだ。場所は築地だったかな…?)

10月4日 米軍が函館、小樽に進駐。

近藤富枝さん(83 作家)朝日新聞に「失業四七七萬と推定 女子は極力家庭へ復帰」と言う記事がある。昭和20年のこの頃、1年ばかり勤めた日本放送協会を退職する事になった。アナウンサーの人達が沢山出征してました。司政官やなんかになってね、南方やなんかに行ってた人もあるんですね。そういう人達がいっせいに帰ってくるとポストが無いじゃないかと。辞めさせたいという機運を感じたものだから。その頃回覧板が来ました。おばの家にまだ下宿してましたがね。それにはね、素足で外へ出るな、アメリカ兵さんに笑顔を見せるな。ビビリましたね、私なんか。なるべく、ジープなんかの見えない所を歩かなきゃいけないと思ってね、日本橋でしたから、あちこち遊びに行ったんだけれど、いっつも裏道行きました。私、ホントに、アメリカ兵さんなんかと口きいたなんて無かったですね。避けていましたからね、当時ね。随分色んな問題があったもの。数寄屋橋から、理由も無く投げ込まれた男の人もいたし、性の問題がいっぱい起きたでしょ、新聞に出ましたよ、ちゃんと、大きくね。誰がどうしたとは書いてないけども。再疎開って言葉が出たんです、その時。もう一回疎開する人がいっぱい出てね。私なんか、親戚がみなかみで旅館してましたので、友達なんかがね、おじさんの所に、私、疎開出来ないかしら、って聞かれて、えっ、と言って。噂ではした人聞いたけれど、私の周りの人はみんなねえ、向こうっ気が強いからいましたね。でも出ないようにしてたから。夜はうちに引っ込んでて。神田駅の周りはねえ、ものすごい闇市になりましたね。無い物無いの。何でも食べられた。進駐軍の物がずいぶん横流しになってあったでしょ。洋モクもあれば、チョコレートもチューインガムもあったし。やっぱり私が一番嬉しかったのは、日本料理をちゃんと食べさせてくれる所に連れてってもらった時、嬉しかったですね。もう何年間かそんな物、食べた事、無かったからね。おすし屋さんもちゃんとねえ、営業、密かにやってましたね。知り合いのうちがね、お汁粉屋を開業したんですよ。で、行ってみようって事で、おばと二人で行ってね、ビックリしたの。まだ敗戦二月か三月にもならない頃、秋の深まった頃だと思うんだけど、戦前とおんなじコッテリした良いお汁粉で、お餅も本物がちゃんと入ってるのね。にこにこして食べ終わるとね、おばがお幾らですかって言ったら、咳払いしてね、一人前20円でございます。40円払ったの。私は、おばの家に下宿していて、一月20円だった、戦後でもね。戦前も一緒だったんですけどね。

10月5日 東久邇宮内閣総辞職。GHQからの政治的宗教的自由に対する制限撤廃要求を実行できないと。
東京都で簡易住宅の建設申し込み受け付け開始。

朝日新聞 政治犯の即時釈放。内相らの罷免要求、思想警察も廃止、最高司令官通牒。治安維持法、修正考慮、共産主義運動は部分的に認容。秘密警察なほ活動。山崎内相、英記者に語る。

羽仁進さん(76 映画監督)当時16歳。昭和20年のこの頃は、東京東久留米の自宅で、母や妹達と父の帰りを待っていた。歴史学者の父、羽仁五郎さんがこの年の三月、思想犯として捕らえられ、獄中生活を送っていた。父が帰ってくるというふうな事は、若い刑事さんが母と大分長い事話してましたから、そういう事言いに来たんじゃないかと思うんです。ただ、思想警察の警官の人達っていうのは、任務をやってたわけですよね、敗戦したにも関わらすですよ。母が子供集めて、その後みんな食事しながら、父がどうも釈放されるようだって話して。その時に母が特高警察について批判的な中身の事を入っている会話をしたんだと思うんですが、そしたら食堂が、もちろんカーテン閉めてたんですけど、食堂の外が玄関にくる道に面してて、そこでズルッと大きな音がしましてね、カーテン開けてみたら、刑事さんが向こうへ走っていくのが見えましたからね。政治犯釈放の記事が載ってから十日ほど後、父親が帰ってきた。帰って来た時は、もちろん父はもうすごくふらふらだったですから、ちょっと物は食べましたけども、すぐベッドが用意してあって、ベッドに行って、それから一週間ぐらいは寝てたと思うんですね。もちろん食事の時は起きてきたこともありましたけど。特高警察っていう部門がありましてね、思想犯だけを調べるんです。調べる時、すごい勢いでぶん殴られて、何べんもぶん殴られて意識が無くなってしまったらしいんですけどね。そうすると、担いで父を留置所に持ってくるわけですね。父が気が付くと、父の周りに、留置所にいるやくざとか泥棒とかそういう人達がみんな集まってね、拝むようにしてるって言うんです。どうしてかって言うと、この人はきっと偉い人に違いない、ここまで死ぬぐらい殴られても、何か大事な事言わない人ってのはえらいもんだって。父はすぐ、じゃあ何か食い物よこせって言うと、やっぱりやくざの偉い人がみんなの食い物はねて持ってるのがあるわけですよ、そういうのを食わしてもらったりしてね。時々はひどい汚い風呂に大勢で入るんでしょうけど、そういうのも父はちゃんと入ってね、そのふらふらになっていきながらお風呂に入って、体丁寧に洗うらしいんですね。父が牢屋からうちに帰って来たという事は、喜ばしい事ではあったと思うんですけども、僕自身の記憶としては、わが家にとって、みんながすごく喜んだというふうには覚えてないんですね。非常に厳しい顔をして帰ってきたんですね。っていうのは、社会の敗戦に対する受け取り方が父の考え方とは大分違っていて、父としてはそういう事に対する怒りがあったんだろうと思います。それでもやっぱり父が帰ってきたという事は僕達みんなにとっては嬉しかった。よく死なないで帰ってきてくれたと思います。

10月6日 4日のGHQ指令に基づき、全国一斉に、特別高等警察が廃止される。
米軍が広島の呉に進駐。

ペギー葉山さん(71 歌手)昭和20年のこの日は、東京中野の国民学校6年生だった。私のうちは東中野だったんですが、まわりは全部焼け野原で、なぜかうちだけが、ポツンと残ってたんです。焼夷弾は一応落ちたんですよ。それを消して。ですから私のうちから新宿がポカーンと、その間何にも無かった。夜になりますと、新宿の伊勢丹が丸見えで、遥か彼方に。三階から上が米軍の接収のビルになります。一階、二階はかろうじてデパートの営業してたんですが、夜になると三階から上がワッーと明かりがつくの。ちょうど大きなクリスマスケーキが空中に浮いてるみたい。ちょっと異様な光景でした。お隣のうちが大きなお屋敷だったんですけど、それが全部焼けてしまって、お風呂だけが残って、それが五右衛門風呂だったんですね。私のうちから裏をちょっと通って、20メートルぐらいあったかな、お風呂に入れてもらいにね。とにかく誰もいないんですから。草の中から虫の音があの頃もう聞こえて、空は真っ黒な中にお星様が降るように綺麗で。食糧不足が深刻だった。母親と二人、度々闇米の買出しに行った。私が住んでた所の近所の友達の田舎、千葉の、房総でしたかねえ。千葉県安房郡という所にお米を買いだしに行って。お巡りさんが眼光らせてるんですよ、プラットフォームに。突然ねえ、このリュックサックは何ですか、って言われたの。お米を頂いた、その上にたくあん、もらったの。たくあんは、パッとリュックサックを開けられても、パッと匂うから、パッと閉めるだろうっていう、そういう事もあって。母がとっさにね、ほらほら早く早くって私に言ったのね。何ですか、そんな急いでどこ行く?子供がね、お手洗い行きたいって言ってますので。その荷物は?なんて言ってる内に、すいません、すいませんって言って。その前にパッと開けて、たくあんの匂いがしたんでしょ。だから、お巡りさんもあきらめたんじゃないですか、匂うから。

10月7日 別府航路室戸丸、兵庫県沖で機雷に触れ沈没。死者、行方不明者、236人。
観世定期能が復活。

小林亜星さん(73 作曲家)当時13歳。東京の慶応中学1年生だった。戦争中、教練てっいうのがあったの。教練ってのは軍事教練。その先生が、軍人がなるんです、どこの学校でも、その方が戦争中は厳しい方で、軍人勅諭をちょっとでも間違えると往復ビンタ。戦後、私が慶応に復学した間もない頃、教練は無くなって、首になっていたが、その先生が現れたんですよ、学校に。のこのこ教室に入ってきたんですね、休み時間に。当時ははつらつとしてい、威張っててね、ちょっとたるんだ奴だと、お互いに並んでビンタを執行しろとかいじめられたんです。その先生が何かこう、尾羽打ち枯らしたって感じで、何か変な袋をしょって、現れたんです。「ところで、みんな…俺はソーセージ売ってるんだけど、ソーセージ買ってごらん。お前らソーセージって食ったことあるか。うめえもんだぞ」それでみんなたまげちゃって、誰も向かわなかった。そんな事生徒に言ったって、ろくすっぽお金持ってないしね。先生はすごすご帰っていかれたけれど。この時やっぱり大人の価値観が全く崩れたなと実感しましたね。この頃、町では闇取引が横行していた。中学生だった亜星さんも、こづかい稼ぎのために闇物資を手に入れた。進駐軍経由ってのが多くてね。よく仕入れに行きましたよ、進駐軍。慶応はね、日吉が進駐軍に接収されてたんです、校舎。そんな関係で、日吉に行って、進駐軍と交渉して、へたな英語使って。レイシーってのがありましたね、進駐軍の非常食なんだけど、一応ねデザートのアイスクリームまであって、タバコも二本入ってる、ガムも入ってる、ちゃんとね缶詰の料理、そういうの仕入れてきてね、売ったりね。タバコが一番金になるんですね。これはキャメルとラッキーストライク、チェスターフィールド、この三つですね、これを仕入れてきて、まあ多少高く売って。戦後の雰囲気っていうの、忘れられないほど好きなんです。今の世の中より、終戦後の、物が無い、つらい時代だったってみんな言うでしょ、僕ら少年はもう例えようも無いほど自由な時代だったんです。戦後の空のイメージは明るい。誰にもしばられない。大人が全部アウト。我々の時代だ。

10月8日 東京の私立上野高女で生徒がスト。学校農園の作物の公正な分配、校長の排斥を求める。
夕張炭鉱では朝鮮人労働者およそ6千人が労働条件改善を要求しスト。

猿谷要さん(82 アメリカ史学者)昭和20年のこの日は復員して東京大学で西洋史を学んでいた。その頃は空腹の連日、空腹に次ぐ空腹。一般の人はね、戦争中に空腹を味わったと思うんですけど、僕はパイロットの将校でしたから、戦争中はあんまり空腹ではなかったんですね。戦争が終った時にね、まったく情けない話で、そんな事言ったら怒られちゃうけれど、今までの長い人生の中で一番体重が重かったんですね、戦争が終った時が。それからが飢餓の生活に入ったわけですねえ。未だに戦争が終った時の体重に戻ってないんですよ。申し訳ない話ですけどねえ。東大の地下の食堂で、何を食べたか思い出せないですけども、食券をもらって町の食堂でも食べられたんですね。グリーンピースがどんぶりで出てきたんですよ。グリンピースだけがどんぶりに山盛りなんですよ。半分ぐらい食べたらね、げんなりしちゃってね。空腹ですから食べないわけにいかない。結構食べましたけどね。ある時たまたま闇市っていうのがあちこちにあって、何でもかんでも売ってるよ、特に新橋の駅前の焼けた後の広場が、そうとう広かったんですね、あそこに行くと何でもあるよって言うので、行ってみました。すごかったですねえ、やはり。リアカーかなんかで焼け残った人達が荷物を持ってくる。衣類や家財道具が多かったですけど。むしろをひいてねえ、じべたに。それを積み上げて売ってるわけです。僕も回って行ったら、湯気が出てる所があってね、雑炊屋。みんなねえ、込んでましたよ。白米のおにぎりを三個10円っていうのがあったんですよ。当時は白米の事を銀シャリって言ったんですね。「さあ銀シャリだよ」って大きな声で、お兄ちゃんが声あげて。もうノドから手が出るくらい欲しかったです。買おうかなと思ったんですけどね、まあ一回りしてからにしようと思って、一回りしてるうちに、かなり品の良い中年の人がね、リアカーで積んできたんですね、自分の蔵書、みんな中古ですけど、それを山のように盛り上げてね、三冊10円って言うんですよ。僕がこう見ててねえ、おにぎりにしようか、この本にしようかって思ってね、この一冊に出会ったんですねえ。(と傍らにある古い本を取り上げる)グリム童話集の英語版なんですね。こんな古い、こんな汚い、こんな小さなもの、まだ僕大切に持ってるんですね。その中でペラペラっと見てったら、所々にカラーの絵がありましてね、この絵にまいっちゃったんですね、僕は。(夜空を背景にした、赤いマントの男が金髪の長い女性の三つ編みをよじ登ってる絵。うん、綺麗。ラプンツェル?)あるシャトーの窓からお姫様が体を乗り出していて、彼女の長い髪の毛を伝わって若者がよじ登ってくるという。この絵を見た瞬間に、これはおにぎりどころじゃないよ、あっ、こういう世界があったんだ。これが長い事日本がシャットアウトされていたヨーロッパのね、ぶんかの広い奥行きを持った世界なんだっていうことをね、この絵が教えてくれたような気がするんです。これ見た時、僕はなんだか体がジーンとしたですねえ。もう決めた、おにぎりよりもこれを買おう。三冊の本の一冊にこれを選んだんですねえ。この一冊だけは今でも大切に持っています。

10月10日 加賀乙彦さん(76 作家)当時16歳。戦時中は陸軍幼年学校の生徒だった。昭和20年のこの日は東京の実家に帰って暮らしていた。我が家は明治の初めから東京住まいですので、親戚が田舎に無い。そこで買出しに行くよりしょうがない。闇の買出しですね。千葉に行ったり、栃木行ったり、宇都宮行ったり。あの頃の農家の人って非常に酷薄でしてね、入っていくと「無いよ。売るもの無いよ。出て行ってくれ」ってどなられる。着物持ってるから、これ見てくれないかとやると、なるべく哀れっぽく言うんですね。ちょっとじゃあ見せろって見せると、こんな絹のもなあ、我々農家はいらねえや、木綿のねえか。実は木綿は必ず一つぐらいは用意してあるわけで、これならどうでしょう。ああこれなら良いよ、これだったら芋一貫目かなってなもんですよ。こっちは必死だから。一貫目って4,5キロでしょ。イモでも勝手帰らない事にはうちじゅうが飢えてるんだから。結構です、有難うございますって感謝しながら芋入れてもらう。新宿駅で降りて、夜なるべく警官に会わないように裏道を通って帰ってくるんだけど、巡回の警官に会って「ちょっと待てっ!」と言われて。何が民主主義だと思ったなあ。戦争中の警官と少しも変わらない。そのリュックを開けてみろ。ひあ。ちょっと来い。交番に行って、山のように食糧積み上げてて、そこへダッーと。よし、行ってよし。没収ですね。調書も無しに没収だから、あの食糧はどこへ行ったか、私達はすぐわかるわけだけど。警官も飢えてましたからね。加賀さんは自宅の前でアメリカ兵と初めて遭遇する。すごい音がするんで、ヒュッと見たらカーキ色のトラックがダッーとあって。乗ってるのは黒人兵、みんな自動小銃を構えて。それを何か命令でパッと置いて、ザッーと並んで、点呼でもするのかなと思ったら、小便を始めた。ちょうど傾斜地ですので、ゆるやかな、一斉にするとダッーと流れていって。そのもうもうたる湯気が私のアメリカの最初の経験ですな。やあ、日本は負けたと思いました。ああ、これに負けたんだ、この人達に負けたんだと思った。みんな頑丈な大男でねえ、すごい栄養が良い。トイレを終えて、向こうを向くと、何とお尻がピュッと突き出ててるではないか。ああ、あれがアメリカだと思ったんです。ようするに、日本人は飢えてましたので、ペチャンコのお尻で、ダブダブのズボンって感じだった、日本人はね。アメリカ人ははちきれる様なお尻をしてて、丸いお尻がピュッと突き出してる。

10月9日 GHQ 東京の五紙に対する事前検閲を開始

角田房子さん(90 ノンフィクション作家)新潟に疎開していたが、ひどい食糧不足で、1歳の乳飲み子共々栄養失調になっていた。昭和20年のこの頃、赤ん坊を乳母車に乗せ、病院通いをしていた。穴だらけの道を力不足の私が押すと、ギーコギーコと音は立てるんですけど、なかなか前に進まない。抱いていく体力は無いし、負ぶっても無理なんです。とにかくそのギーコに乗せて毎日午前中に医者んとこ行くんですね。それが三日目か四日目か、なんかその頃に、空き地に人だかりがあった。占領軍が、自分達に反抗したと、日本の労働者を、ぶったり蹴ったりしてるんです。留学経験があり、英語を話せた角田さんは助けなければと思いながら、躊躇していた。私の隣の人が「もう、死ぬよ、あれは」と泣き声を出した。その声で自分の背中押されたような気がしたんです。その人に反射的にこれ頼みますって、ギーコを彼に押し付けようて、出ようとしたんです。そしたらその男の人、びっくりして、私を後ろから羽交い絞めにして、女の出る幕じゃない、お前が殺されるだけだって言って止めようとした。わたしはそれを振りほどいて、とにかく前に出ちゃったんです。そうして気がついてみたら、大尉の前に言って、「誤解!誤解!」と英語の単語をわめいた。そしたら向こうの表情がぐっと楽にって「良い所へ出てくれた。一体どうしてこんな事になったのか、説明してもらいたい」わたしはそれまでに了解した事をとにかく話し、向こうは色々質問してくる。私の方も腹が立ってるんですよ。ちゃんとわかるような通訳呼んで来て、訳を調べてから、ここまでひどい、死に至るような事をするとは何事だと思って。私は嵩にかかって怒りました。そしたら向こうが良く分った、良く分ったと言って、ちゃんと聞いてくれて。その後角田さんは進駐軍に呼び出された。給料はいくらでも望むだけ払うから、アメリカ軍の通訳になってくれないかと。私は言下に断りました。医者が見離してるほど、子供の健康状態がひどいんです。私は24時間、いつも膝に乗せてい、夜は隣に寝かせて、又息をしてるかしらと思ってそっと手を出すような。それにあなたはご存じないでしょうけど、お金というものは役に立ちません。もし私が働いたら粉ミルクいただけますか。いくらでもあげるよ。クッキーもいただけるんですか。うちはねえ、将兵に食べさせるもんだから、赤ん坊に適当なクッキーがあるかどうかは知らないけれども、とにかくクッキーとか粉ミルクとかあんたが欲しいだけあげます。それで私は勤める事になったんです。

10月11日 東京高校教授、亀尾栄四郎、闇食糧を拒否し、栄養失調で死亡。
初の戦後企画(?)映画「そよ風」封切り。主題歌の「リンゴの唄」が大流行。

10月12日 終戦の日に、鈴木貫太郎首相宅などを襲撃した専門学校生ら七人に、懲役5年の判決。

10月13日 作家、高見順の日記「七名に懲役五年 鈴木、平沼両亭焼打事件判決 大尉に煽動された学生達が気の毒である。思えば戦争へと駆り立てられた日本国民は、みんなこの学生達と同じようなものである。終戦直後この事件の噂を聞いたが、その時は腹立たしい軽挙妄動とは思いながら、その気持ちがわからぬでもないと心のどこかでささやく声があった。しかし、今となるとー終戦後まだ二月しか経たぬのに、全くの妄動としか感じられない。時の流れの激しさ!」

10月14日 インドネシア各地で、独立を目指す人民軍が、白人、日本人を襲撃。

10月16日 新宿御苑の農耕適地8万坪を東京都民に開放

毎日新聞 「耳きこえる 人工コマク・コマク破れが人目に見えず労働も可」

俵萠子さん(74 作家)大阪千里山の知り合いの家に間借りをしていた。6月7日の大阪空襲で焼け出されたからだ。高槻に父の知り合いの人の借家があって、そこが空いていたので契約した。鍵をカチャカチャとやっていたら、中から「どなたですか」と出てきた人がいた。白内障の腰が曲がったお婆さんだった。その後ろに小学生ぐらいの男の子が心配そうに見ている。彼らも焼け出されて、勝手に住んでいたのだ。彼らは二階に住み、自分達は一階に住むという事になった。

10月17日 対米謀略放送で逮捕された「東京ローズ」、横浜刑務所に収容される。

池部良さん(87 俳優)赤道直下のハルマヘラ島にいた。武装解除はされたものの、まだ帰国の見込みは立っておらず、戦中から続く食糧難に苦しんでいた。そんなある日頭上に飛行機の爆音が近づいたいた。ジャングルにいた。上級部隊から、「台湾から芋の苗を送ってきた。それを投下するから、各部隊はそいつを拾え。畑を作って芋を食べろ」と言ってきた。あちこち探して、三束か四束拾った。牛蒡剣という銃剣で細い木をチョンチョンチョンチョンと切って、切るんだって、みんな栄養失調でもって、マラリアでもって、体力が無く、長続きしない。朝涼しいうちに切り、夕方涼しくなって切り、一ヶ月ぐらいしたら驚くべき畑を作った。畝を作って、拳骨で押し、苗を横に置いた。約一ヶ月ぐらいしたら、大きな芋がゴロンゴロンできた。それからは芋でもって大体満腹できた。食べなれてみると、すごいまずい芋だった。

10月18日 GHQ、外地から帰国する者の所持金を一般人千円、軍人は、将校が500円、兵は200円までと制限。
この日までに、南方からの引き揚げ者、21,850人。

渡辺美佐子さん(72 女優)昭和20年のこの日は、東京麻布の高等女子学校1年生だった。戦災を免れた渡辺さんの家の一部は、進駐軍に接収されていた。一間ある洋間だけ、アメリカ軍の将校さんが、日本人の女性を連れて、入ってきました。私はその洋間に蓄音機が置いてあったり、そこだけソファがあったり、そういう感じの部屋だったので、良く蓄音機一人で聞いたり、その部屋結構いたんですけれども、入れなくなっちゃって。二人が出かけている時に、その部屋どうなっちゃったんだろうと、上がガラス張りの部屋だったので、上からのぞいてみましたら、部屋中に赤の花柄のお布団。昼間は出てって、夜帰ってくる。トイレとお台所は共有なんです。朝、学校に行こうと、台所から靴はいて出ようとすると、台所のゴミ箱に真っ白い長い食パンがそのまま捨ててある。こんなに食べる物が白いのは初めて見た。白米っていうのもほとんどお目にかかった事無いし。びっくりして、こうやって眺めててね、取って口に入れる事はしない、ただそれから目が離れない。この頃渡辺さんが口にしていたのはわずかばかりの煎った大豆だった。父は又工夫好きの人ですから、どっからか、掛け軸の木の箱に、メリケン粉だか何だかをクチャクチャ混ぜたのを詰めて、マイナスとプラスの電気を通じるんです。蓋しておくと、見たと子食パンみたいなのが出来るんですね。その味たるやボロボロでどうにもならない。そんな時、台所から夕方の時間になるとジャッーってものすごい音が聞こえてくるんです。ステーキ焼いてるんですよ。その頃の日本人って食べた事無かったの。お肉ってのいうのは、せいぜいお客様が来た時、すき焼きとか、後は肉じゃがね、肉じゃがは良く食べた。だからお肉の厚い大きい固まりを焼くと、ジャッーってものすごい音がするってわからない。

漫談家、徳川夢声の日記「何気ナク、道ノ左ニ在ッタ八幡神社ノ境内ニ入ル。幼稚園の少年少女タチガ、運動会ノ予行演習ヲシテイタ。男の子が十五人、女の子が十五人、オルガンに合わせて、チカラ チカラ クロガネノ チカラ と唄い踊ってる。ーおぉ、敗戦国の幼児たちよ!私は感動して涙が出た。-日本は、ほんとに敗けたのかしら?見ていると、そんな気がしてくるほど、それは健康的で可憐で、そして世にも頼もしい景色であった。

10月19日 駅名表示が左書きに変更されると新聞が報じる。

土本典昭さん(76 記録映画作家)昭和20年のこの頃、東京立川にある米軍基地で通訳助手のアルバイトをしていた。基地の建設現場で、アメリカ兵の指示を、日本人労働者に伝える仕事だった。最初にね、全部のアメリカ兵がやったわけじゃないんですけど、ひどいアメリカの兵隊の場合は、最初に「この野郎」みたいな事を言って、並べといて、端から尻っぺたを叩いていくんですよ。いいわるいじゃないんですね。叩き終わってから、「我々に従わなければ、我々は君たちを罰する」みたいな事を言うわけですよ。それを僕は翻訳しないといけない。「今のは見せしめで、今後言う事をきかなかったら、こういうふうに殴るぞって言ってます」ってみたいな事を話したね。そういう事を言わなきゃいけない。まだ僕は他にもそういうふうなやり方を見ましからね。罰するんじゃなくて、頭からね、畏怖させるっていうか。自分のほうがボスだって言う事をね、体で教えるとかね。びっくりしましたね。日に日にアメリカ兵に対する反感が募っていく。そしてある日、決定的な出来事が起きた。ある時、彼らの兵隊の宿舎があるんですね、カマボコ兵舎って奴ですが、その中の修理に呼ばれまして、僕は行って、大工出来る人にやってもらいながら、手招きされるもんだから、どうしたのかなと思ったら、ベッドの周り4人ぐらいがね、写真を見ながら、ゲラゲラゲラゲラ大きい声で笑っている。僕を見て、僕はあまり育ちが良くなかったから、子供に見えたと思うんですね、僕を呼んでですね、見せられた写真と言うのが、どっかの野原でね、裸にした自分の遊んだ日本の女を、足を開かせて、撮った写真なんです。流行(はやり)になってるのかね、四人共それぞれ持ってるんです。見せ合ってね。笑ってる奴のアメリカ兵の顔を見たら、チンピラなんですね、ほんとになんて言うか。腹がざわついて、相手と、もし、いさかいを起こしたら、殺しましたね、きっと。理屈ぬきに、これが負けたって事なんだって、つくづく思い知らされましたね。

当時医学生だった、作家、山田風太郎の日記「戦争のない世界、軍隊のない国家ーそれは理想的なものだ。そういう論にわれわれが憧憬するのは、ほんとうは尊いことなのであろう。しかしわれわれは、そういう理想を抱くにはあまりにも苛烈な世界の中に生きて来た。軍備なくせいて隆盛を極めた国家が史上のどこにあったか。正直は美徳にはちがいないが、正直に徹すれば社会から葬り去られる。それを現にわれわれは戦争中の国民生活でイヤとういうほど見て来たではないか。

10月20日 被選挙権も男女同権で、満25歳からと閣議決定。
岩手県盛岡市の国民学校、食糧難のため午前で終了となる。

高橋玄洋さん(76 放送作家)戦時中は海軍兵学校1年生。原爆が落ちた直後の広島で、救援活動を行った。昭和20年のこの日は広島県大崎下島で親戚のミカン農園を手伝っていた。この頃高橋さんの体に異変が起きた。働いている時にかすり傷を負う事がある。うんだままで、なかなか治らない。下着の、特に脱ぐ時に、僕は背中がひどかったんですけど、背中の爛れから、シャツなりパンツなりが剥がれないんです。ちょっと無理すると皮がついたまま、体から皮を剥がすような形になっちゃうんですね。その後が又、痛いんですけどね。マムシを焼酎につけた薬がありましてね、これが良く効くんですよ、これつけると少しの間は良い、だけど膿が出てくる。治っていかない。体の異変の原因がわかったのは、しばらく経ってからの事だった。その年の12月の28日ぐらいにミカン採りが終わったんでしょう、そん時だけは小遣いをもらって、従兄弟二人と一緒に広島へ出て、遊んで来いって事になって。広島に行けば闇市があった。そこへ行った時に、広島に救援に行った時に、遺体処理の仕事したわけですが、その時に一緒だった生徒とばったり宇品の、港の近くだったんですけれど、会ったんですよ。「おまえ、こういう事はないか?体がだるくて、傷跡は治らなくて、時々頭がフッとする事があって…」と色々聞くんですね。僕の症状とおんなじなわけ。「それがどうしたんだ?」と言ったら、「それは、おまえ、原爆症だよ。俺もそうだけど、おまえもそうだ。絶対医者にすぐ行け」って言うんですね。「同じ広島に来てるんなら、俺の行きつけの所で、血液検査だけでもしてもらえよ」その頃、ぎりぎりぐらいだったかな、原爆症、原爆症ってあちこちで言い出したのは。それまであんまりそれ程に言ってませんでしたからね、自分でもまったくそんな事思ってもいなかった。「俺は原爆症なんだ」不治の病を宣告されたような気が当時したもんなんでです。前に悲惨な最期をとげた人達見てますからね。「俺もああなるんだ」死ぬ事が怖かった。「白血球だけでも調べてもらえよ」とてもその勇気無くって、宣告される事が嫌で、広島のバラックの旅館みたいなとこで、一睡も出来ずに帰ってきた。

10月24日 児玉清さん(71 俳優)滝野川区の家が空襲で焼け、一家は親戚の亀有の家に身を寄せていた。昭和20年のこの頃は集団疎開から帰ったものの、食べる物がなくやせ細っていた。疎開から帰ってきた時、母親にまっさきに会いに行って、ただいま、お母さんと言ってるのに、しらんぷりして通り過ぎた。おっかけてって行って、「おかあさん」と叩いたら、何この子と言う顔で、良く見たら僕だって事わかってくれて。完全に面変わりしていた、骸骨みたいになっていた。父親は埼玉や栃木の親戚を頼って、度々買出しに出かけていた。買出しについていった。間々田という栃木県に母親の親戚が疎開していて、切符が配給制度で買えない、だからいんちきで乗る。窓ガラスも何にもない列車で、買出しに行く人達で超満員。帰りに、僕だけ一人でかえらなきゃいけなくなった。かぼちゃを3個縄で繋いで、それを二つ持って帰らなければいけなかった。汽車に乗る所が無い。ふっと見たら一番前が空いている。大人三人ぐらいがいた。乗った。汽車が走り出した。一番先頭を、風切って。ぞくぞくして、気持ちが高揚し、嬉しく、怖さもあり。大宮で降り、赤羽で降り、上野では僕一人。降りた瞬間、駅長にものすごく怒られた。一片にぺしゃんこになった。

10月23日 運輸省、制服を着用した進駐軍軍人の国鉄運賃無料を通達

10月26日 藤本義一さん(72 作家)当時12歳。大阪の中学1年生だった。昭和20年のこの頃、戦時中から入院していた父親に続いて、母親も交通事故で入院。生活費を稼ぐため、闇市に出入りするようになった。ミカンは6個で十円。蒸しパンは4個で十円。タバコが一箱、大体30円。ぜんざいも売っていた。小豆、30粒入れたら10円で、40粒入れたら15円。カラスの肉も売っていた。鳥肉として売っていた。子豚をリボンつけて散歩させた。散歩させてると警察にあがらない。これをばらして肉にして売るとすぐ捕まる。散歩の途中で生きたまま売る。藤本さんが得た仕事は、何ヶ所もの闇市を回って価格調査をする事だった。ヒロポンも当時は市販されて、初めのあたり薬局で売っていた。取締りがあって、闇値が上がってくるんだけども。闇値になってからね、ヒロポン、1日で変動するんですね。朝1本、十円の奴が、夕方13円になってる日もあるし、朝13円の奴が、昼から9円になる事もあるし。それも全部連絡していくのね。連絡して行って、闇市に届けると、闇市の総元締めみたいなのがいましてね、各部署に、そこへ又連絡して行って、全体の経済の平均価を作っていくわけね。その先端に僕がいた。先端にいて、食べる物は食べられるし、親の入院費用も出せるし。仲間と米軍キャンプから盗んだ物を売りさばく事もあった。Dボックスって言う、携帯食品、これは皆入ってるんですよ。タバコ3本入ってたとか、5本の奴もありましたけどね、チョコレートが入っていて、パンが入っている、アメリカの乾パンみたいなのが入ってて、コーンビーフみたいな缶詰一つ入ってて、その他にジュースも入ってて、缶じゃ無い、箱のジュースが入ってて、ズシとした重い奴です。我々が米軍キャンプから持ち出したものに、レボルバー、32口径の拳銃と、実弾が入っていた。1発ずつ撃って、売った。買った奴は我々よりだいぶ年上の奴なんだけれど、予科練帰りと言ってましたけれど、大変な金が入ってきた。それを山分けした。買った奴がそれで強盗した。強盗して捕まった。出所はどこやと言うので、調べていったら、我々が浮かびあがってきたわけ。逃げるしかない。捕まったら米軍の物ですからね、日本の警察でとどまらんと。アメリカの裁判もあるから、へたしたら、強制労働で沖縄に連れて行かれる。日本海側から北海道に逃げた。今の金で百二、三十万持ってたの、違うかな。40日後、大阪に戻り出頭。

10月28日 マニラで山下奉文大将の戦争犯罪裁判が始まる。フィリピン人への残虐行為を許した容疑。

当時医学生だった作家、山田風太郎の日記「七つか八つくらいの男の子が、柱の下に座って泣いていた。はじめ狼の子かと思った。長くのびた髪の毛に埃を真っ白にかぶって、模様もわからないぼろぼろの着物をまとい、手足は枯木みたいに垢で真っ黒だ。その前には三つか四つのさつま芋がころがっている。通りがかりの人が与えたものであろう。ときどき芋をくわえたまま、アアーン、アアーン、と悲しげに泣く。その声は心ある者の腸をえぐるようだった。」

10月29日 秋田師範男子部、食料難で二週間休校。学生を食料増産のため帰省させる。

10月30日 讀賣報知新聞より 「都電、都バス廿銭に 乗換制復活や三ヶ月の定期券 十二月一日からの實施」

大田昌秀さん(80 参議院議員)戦時中は沖縄の学徒で組織された鉄血勤皇隊の一員だった。沖縄では終戦後も米軍に抵抗する敗残兵が数多く残っていた。大田さんもその一人だった。昭和20年のこの頃、潜んでいた洞窟に、元日本軍将校を名乗る男が投降を呼びかけに来た。我々が入っていた壕の中に日本の元将校が宣撫員として、戦争に負けたから、こんな所に潜んでいないで、命を大事にして、本土へ帰れるようにしたらいいよと言う事で、宣撫工作に来た。みんなこれはいんちきだと言う事で誰も信用しなかった。翌日も、元将校はあきらめずにやってきて、全員出て欲しい、ホントに戦争に負けてるんだと言うんです。今から考えると、まともな事を言っているんですが、あの戦場ではまともには聞こえずに、何かだまされているような、うまく捕虜にするためにやってんだというふうに受け取れて、それで反発が強かったわけですが、特に下士官なんかの中には、大阪から来た見習い士官と言っとったんですが、この人なんかも日本刀を抜いて、「貴様こんな事言うんだったら叩き切るぞ」と言う事で、追っ払おうとしたりした。一般兵も手榴弾の安全ピンを抜いて、やろうとして。入ってきた元将校も後ずさりして帰った。次の日、元将校、軍司令部の将校と名乗っていたんですが、天皇の終戦の詔勅をコピーしたのを持ってきて、みなさん信用しないならばこれを聞いて下さいと言って、我々敗残兵の前にですね、そこで詔勅を読み上げて、ホントに負けてるんですと言ってやったわけです。壕の中に元の軍医、中尉が二人おりまして、この人達が、他の文書ならいんちきして誰でも書けるかもしらんが、この天皇の詔勅だけは、簡単に書けるものじゃなくて、この用語から言っても、これは本物と間違いないと思うと言う。だからもう出た方が良いんじゃないかと言う事になって。それでみんなそこで反対する人もいましたけど、多数が出る事に決めて。わかりましたと、憲兵を連れてトラックを持ってくるから、それで捕虜収容所に言って欲しいという事になって。

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コメント

滝野川区で可憐とか八つと、涼しいうちに引き揚げなどするのは
夕張で早く電気を指示しなかったの?


投稿: BlogPetのpapi | 2005.11.11 10:22

はじめまして!
私は終戦前後の地図・航空測量史を趣味で調べている者です。以前「伊勢丹・米軍」のキーワードで検索しましたら、当HPに記載されています「あの日 昭和20年の記憶」10月編にペギー葉山さんの思い出話を発見し、ペギーさんが東中野から夜クリスマスケーキの様に輝く伊勢丹デパートの事が書かれていました。

この度、(財)日本地図センターの機関紙「地図中心」に伊勢丹が米軍地図部隊に駐留していた事について小文を書くことになりました。
その小文の中に当HPに記載されている上記のペギー葉山さんの伊勢丹に関する部分をエピソードとして使用させて戴きたきたくメールした次第です。

突然のお願いで恐縮ですがご承諾いただければ幸いです。

投稿: 長谷川敏雄 | 2008.10.25 14:16

はい、お使いになって全然構いません。
お役に立てれば幸いです。

投稿: 管理人 | 2008.10.25 14:54

ありがとうございます。

終戦直後の新宿の様子が生々しく語られており、
米軍地図部隊が伊勢丹に駐留し夜遅くまで
作業されていた様子が垣間見れます。

本当にご協力ありがとうございました。

投稿: 長谷川敏雄 | 2008.10.26 09:49

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