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あの日 昭和20年の記憶 9月編

9月1日 東京の国民学校で正規の授業再会。
放送電波の管制解除される。ラジオの第二電波も再開。
東京劇場、大阪歌舞伎座、京都南座などが開場。

9月2日 米艦ミズーリ号上で全権重光葵外相、梅津美治郎参謀総長、降伏文書に調印。
大陸からの第一回引き揚げ者七千人、山口県仙崎港に上陸。

小堀宗慶さん(82 遠州茶道前宗家)当時22歳。旧満州、中国黒龍江省チチハルの陸軍航空情報部隊の少尉だった。昭和20年のこの頃は戦闘停止の命令を受け、ソビエト軍の捕虜になる事になっていた。しかし部隊の中には捕虜にならず、逃げ延びようと考える者も多かった。飛行機の操縦もできるのもおりますし、そういう人達で仲の良いのを集めて、俺達は飛行機を操縦できるように直して、うまくいきゃあ日本まで帰っちゃえば良いかと。一団となって山の中に入って、匪賊や馬賊という生活をして、とにかく逃げのびようと、焚き火のまわりに集まって、そういうグループがいくつも出来ていて、ずぅーと考えてましたね。帰るのには生きてなければ帰れないんだから、そういう中には自分達の居所がわからなくなると言う事で、狂ってしまって、やたらとサーベル抜いて振り回したりですね、そういうのを取り押さえるのは毎日のようにありましたし。大人しく一応捕虜になってみるという事は、仕方が無いでしょうね。やって来たソビエト軍は行き先を告げないまま列車に乗れと命令した。日本軍が壊した鉄橋とかそういうのがあるから、それを直して、三ヶ月もあれば、お前達は出来るだろう、三ヶ月経てば、日本に帰してやる。捕虜になる条件はそういう条件だった。それで汽車に乗った。小堀さん達を乗せた列車は数日間走り続け、ある朝大きな湖に到着した。シベリヤのバイカル湖だった。止まった時に、ある兵隊がバイカル湖を日本海だと思って、何にも見えないですからね、広くて、海だとしか思えないですね、波も来るし、日本海だ、日本に近くなったとみんなものすごく喜んだんですけど、ある兵隊が飲んだわけですけれど、しょっぱくない、しょっぱくないのは海じゃないんじゃないかって。すこし頭がおかしくなって、気が狂ったようになった兵隊もいましたね。

作家、高見順の日記「八時、香風園に行く。牛肉が氾濫している。もちろん、闇でだが。一斉に密殺したらしい。香風園でも牛肉の大盤振舞だった。牛肉を買わないかという話が、私たちのところへもいろいろの方からやってくる。横浜に米兵の強姦事件があったという噂。「敗けたんだ。殺されないだけましだ」「日本兵が支那でやったことを考えれば…」こういう日本人の考え方は、ここに書き記しておく「価値」がある。」

9月3日 山下奉文大将、フィリピンで降伏文書に調印。
進駐軍、全国の駅名、主要道路名をローマ字で表記するよう指令。
九州進駐の米軍第一陣が鹿児島県の鹿屋飛行場に到着。

山下惣一さん(69 農民作家)昭和20年のこの日は、佐賀県唐津の国民学校三年生だった。新学期になり学校に行き、あまりの変わりように驚いた。それまで教室の中に張ってあった軍人の写真とか肖像画といったものがそっくり入れ替わっていた。乃木希典大将、東郷平八郎元帥、広瀬武夫中佐、山崎保代大佐…。それらがモーツァルトとかバッハ、フォスター、ベートーベンに替わっていた。山下さんの父親は昭和18年に招集され、奄美大島の部隊で終戦を迎えた。九月になって、復員兵姿で家に帰ってきた。戦時中人影が少なかった町は復員兵や引き揚げ者で一杯になった。人口は増えた。復員は少なかったが、戦争末期から疎開してきた人がいる、それからここは朝鮮半島からの引き揚げ者が非常に多かったですね。ある日の事山下さんの家でも外地からの引き揚げ家族を受け入れる事になった。山下さんは引き揚げてきた子供達がうらやましかった。その年だったと思うんですけど、引き揚げ船があそこの浜で難破したんですよ。全部村の中で割り当てで受け入れたんですね。うちにも母親一人と娘と息子と親子三人を受け入れて、二ヶ月ぐらい置いてたんじゃないかな、山口県の人でしたけどね。外地いった人と言うのは、都会から来た子でしょ、我々とは違うんですね全然。すぐ冬になると風邪ひいて、喉の所にガーゼを巻くんです。あれがかっこよくってね、あこがれたけど、俺一回も巻けなかった(笑)。一番違ったのは我々土着の子で、生まれて育ってる者達は本を買って読むという週間が全く無かったですね。私、本好きだったけど、一年に一冊しか買ってもらえないという時代でしたから。引き揚げ者は本を買って子供に読ませるという習慣があったんでしょうね。ちゃんと漫画とか雑誌とか子供に買ってやるんですよ。子供が学校に持ってくるわけだ。それをガキ大将が取り上げて、自分で読めないもんだから、俺は読み方上手かったから、おい惣一ちょっと来い、という事で俺が読むわけですよ。みんなわっーと集まって、私毎日読んでましたけどね。それで文章の書き方を覚えたような気がするんですよ。

漫談家、徳川夢声の日記「“戦争が終って”でなく“戦争が敗けで好かった”と思われる点はないか?万一勝ったとしたら、軍人は益々猛烈に威張り、役人は益々横暴になり、神がかり連は凱歌をあげ、一般大衆は人間扱いをされなくなっていたであろう。実に、私たちにとってやりきれない日本になっていたろうと思う。敗戦は情けないことに違いないが、首相の宮殿下のご意見を伺った時、敗戦も悪くなかったと感じた。

9月4日 米軍の進駐を受けて、神奈川県が女学校の休校を指示。

9月7日 ミンダナオ島で第35軍参謀長、友近美晴少将が米軍に降伏調印

日野原重明さん(93 医師)聖路加国際病院がアメリカ軍の病院として接収された。交渉役として奔走した。2週間で病院を明け渡して欲しいと言われた。患者を移す努力をした。300人ぐらい入院していた。歩いて帰れるような人は疎開して田舎に行きなさいと言ったんですが、担架で運ばなければならない人はどこかの施設が無いとダメですから、八王子方面とか、鎌倉とかに運び、早く動ける人から病院を開けてもらうようにやりましたが、大変でしたね。9月の半ばにはすっかり病人がいなくなった所にアメリカの軍医団が来て、レントゲンの機械はこのまま、後の手術の機械などは我々は持っているからそれは使わなくても良い。おそらく私達の使った道具は、アメリカには古過ぎて、野戦病院で使っている手術器具のほうが良いと思ったんでしょう。私達が使っていたレントゲンのフィルムの大きさは、彼らが使っていたのの半分以下で、向こうの人は大きいですから。フィルモも用をなさないと言うので、私達は持ち出しました。彼らが接収をして、病院の運転を始めるやり方のスマートさとスピードが速いのを見てね、これじゃあ日本のスピードはスローでレベルが低いから、戦争も負けるのは当たり前だなあと言う事になって。仕事場を失った日野原さんは、その後無医村での診療を始めた。助けてくれたのは米兵のボランティアだった。ずっと奥深い所、お医者さんもない所で、満州から引き上げた人とか色んな人が声をたててるんです。そういう所に私は日曜日には出かけていって、行くのに自動車が無いから、ジープが欲しいから、GHQ(連合国軍総司令部)の人に会って、誰かボランティアで、教会関係の兵隊がおれば、教会の事業としてやりたいから、一緒に付き合ってくれないかって。その時には薬が無いから、薬も寄付してもらえないかって言ったら、薬とか色んな物を寄付してくれる。だからアメリカは兵隊でありながら、向こうのデューティー(勤務)でない時は自由にボランティアをやってもいいと言う事で、軍服を着たまま。そうするとGI(米兵)はねえ、コーラーなんかは一緒に持ってくれるんです、車に。コーラーを一杯、氷で冷やした奴を、嬉しかったですよ。コーラーに氷を入れて飲みたいなあと言う気持ちは大人にもあるんですね。

9月8日 連合国軍、東京に進駐。
ブーゲンビル島で第17軍司令官と第8艦隊司令官がオーストラリア軍に降伏調印。
ルソン島の第41軍司令官、横山中将、米軍に降伏調印。

小山明子さん(70 女優)埼玉の国民学校5年生だった。昭和20年のこの頃、元の軍の兵舎が解放され、疎開していた農家から引っ越した。旧陣地って言ってたんですけど、兵舎ですね、疎開してるもんだけが優先的に借りられた。周りはよしず張りみたいだったと思うんですけど、ちゃんと屋根があって一戸建て、二部屋です。前は豪農に疎開していて、十畳のお部屋が4つもあって、その一部屋をお借りしていた。戦争中は母が自分の御召しとか自分着物を、わたしは割りと良い着物でもんぺを作ってもらった。もんぺって言うと普通は絣っとかなるけど、うちは御召しとか大島とか上等の着物で作ってもらった記憶があります。後、お雛さんの毛氈、お雛さんは疎開しなかったんですけれども、毛氈はネルって生地が厚いから、それでパンツを作ってくれて、赤いパンツをはいてました、私は。9月にはいるとすぐに学校が始まった。7月に大阪から移ってきた小山さんは埼玉の国民学校に転入した。まず、裸足でみんな学校に来るのね。田舎の子だから、皆農家の子で。私は運動靴はいてるじゃないですか。からかわりたりね。いたずら小僧に蛇持って追っかけまわされたりね。学校からイナゴ取りに行くんです。カルシウムじゃないですか、イナゴは。ガーゼの袋みたいなの持って、竹筒をガーゼの袋を入れて、縛るのね。それでイナゴを入れると出られないでしょう。音楽の時間が一番楽しくて、色色な唱歌とか、昔の子供の歌なんですけど「春が来た」とか、でもその時に、ああすごく、こんなに良い気持ちで、それは戦争が終ったから出きるんだってすごく実感しましたね。それまではあんまり大きな声出さないとか、大阪でも空襲になれば逃げなきゃ、空襲警報っていうとみんなうちに帰りましたから、それがまったく無くって、のびのびと、それはすごく嬉しかった、音楽の時間が。

9月9日 米兵による強盗事件、銀座大森で起きる。
支那派遣軍総司令官岡村寧次大将、南京で中国軍への降伏文書に調印。
日本放送協会、歌謡曲と軽音楽の放送を復活させる。

9月10日 オーストラリア軍がラバウルに進駐

9月11日 連合国軍総司令部、東条英機ら39人の戦争犯罪人の逮捕を命令。
東条英機元首相、ピストル自殺を図るも失敗。
米陸軍省、山本五十六連合艦隊司令長官の戦死について暗号を解読して待ち伏せ、撃墜した事を公表。

山藤章二さん(68 イラストレーター)当時8歳。国民学校3年生だった。昭和20年のこの日、山藤さんは自宅近くの目黒駅周辺で友達と遊んでいた。そこで初めてアメリカ兵を目撃する。当時目黒駅の売店を母はやっていた。売店で遊んでいる時に僕は初めてGI(米兵)なる者に対面したわけですね。当時までは非常にアメリカ兵ってのは日本人は怖がってました。鬼畜米英というスローガンが全国民知ってたしね。それから赤鬼と盛んに言ってましたね。ある日売店にいましたらね、四人連れの米兵が何か物を訪ねて売店の前に並んだんですね。それはもうほとんどまさに壁ですよね。狭い売店の表に2メーター近い男が四人並んで、フェンスですね。物を訪ねたんでしょう。でも英語だし、母親がもちろん応じられるべくもなく、何かジェスチャーで断ったら、行ったんです。僕は裏手からすっと出てって、彼らは何をするんだと好奇心で後をつけてったんです。目黒駅の線路の上にかかっている陸橋の上にすずめのようにポッポッポッポッと腰掛けて雑談をしてるんですね。日本人は高い欄干の上に腰掛られるなんていうな体型じゃないんだけど、彼らはヒョンヒョンてね、まことに小鳥のように並んでてね、線路ですからね、そんな危ない所で、冗談言いながら笑いさんざめいてる。一々の行動がまことに日本人とまったく違うんですね。駅の構内にいた靴磨きのオジサンの所に足をヒョイと乗っけて磨かせてる。そばに行ってジーと見たら、僕の目の高さが彼らのヒップなんですよ。足が長いですからね。軍服の中ははちきれんばかりの筋肉ですね。出てる腕は毛むくじゃらですよね。それからある種の、異臭っていうのかな、西洋人独特の匂いが、体臭ですね、そういう色んな五感全てが違った人種、違ったカルチャーを感受してね、非常に子供にとっては鮮烈な記憶ですね。僕の友達で、誰か、言うとガムやチョコレートくれるぞと言う話を聞きましてね。何て言うんだってったら、「ギブミーチョコ」とか「ギブミーガム」って言えって言うんですよね。それ覚えて、側によっては「ギブミーチョコ」「ギブミーガム」って言うとね、尻のポケットから出してくれるんですよね。赤鬼どころかサンタクロースみたいなもんですよ。一遍に親米派に転んじゃいましてね、情けないんだけど。

9月12日 シンガポールで英軍への正式降伏式。板垣征四郎大将が出席。

石井好子さん(83 シャンソン歌手)当時23歳。昭和20年のこの頃、石井さんは夫が結成したジャズバンドに歌手として参加することになり初舞台を踏もうとしていた。夫は突然ニューパシフィックオーケストラっていうジャズバンドを結成したんですねえ。そしてそのリーダーだったのは森山良子さんのお父さん、森山久さん。トランペット吹いて歌う方だったんですね。森山久さんは「ゼロアワー」(戦時中の米軍向けのラジオ番組)の一員でアメリカの2世でございました。そんな関係で、森山さんと親しくなって、ジャズのバンド作ろうという話しになったんでしょうけど、そのあたりは私は何の相談も受けて無いし、わたしは自分とジャズっていうのはとても遠いものだと思って、ドイツ歌曲を専門にしてましたから、何もわからないし、わからない人に話しても仕方が無いって思ったのか、聞いてないんですね。突然ある日「ドリーム」っていう歌の譜面をね持ってきて、ちょっとこれ歌ってくれよって言われたんですね。とても綺麗な歌で、これなら私歌っても良いかな~なんて言ったら、そうそうすぐ歌って欲しいんだって言うから、ええーって言ったら、作ったジャズバンドが今度進駐軍のいるとこで演奏するのに歌手がいないから、一曲で良いから歌ってくれってこう言われたんですね。なにしろ日本にもジャズの演奏者は沢山いらしたんですよね、戦前は。ところが戦争中ずーっとジャズは禁止になって、敵国音楽っていうんで、禁止されて、うずうずうずうずしてた方達が、ジャズバンド結成って言った時、パッーとみんな手上げてね、一流中の一流の人達が集まったジャズバンド、それが「ニューパシフィックオーケストラ」と言ったんですね。22,3人のメンバーだったかしら。9月のある日ですよ、覚えた歌でね、着る物無いんですよ、もんぺとかね、よそゆきの洋服なんて無いから、ブラウスにスカート履いてご出演ですよ。行った所はね、私の記憶では横須賀だと思うんですけど、電車に乗って行ったんですよ。横須賀の米軍キャンプに連れてかれて。何しろジャズバンドが素晴らしいんですね。だから熱狂したんですよ、米軍達が。万雷の拍手で、みんな騒いで、大騒ぎ。特に私なんか綺麗なイブニング着てたわけでもない、ブラウスとスカート、若かったから、出てっただけで、私の声なんか聞こえないですよ、キャーと言われて。その中で「ドリーム」って歌いましたね。それが私の戦後のデビュー。

作家、当時医学生の山田風太郎の日記「「東条大将はピストルを以て……」ここまできいたとき、全日本人は、「とうとうやったかー」と叫んだであろう。来るべきものが来た、という感動と悲哀とともに、安堵の吐息を吐いたであろう。しかし、そのあとがいけない。まぜ東条大将は、阿南陸相のごとくいさぎよくあの夜に死ななかったのか。なぜ日本刀を用いなかったのか。逮捕状の出ることは明々白々なのに、今までみれんげに生きていて、外国人のようにピストルを使って、そして死に損っている。」(私は自殺なんかそう簡単に出来ないと思います。死刑になるまで生きてたって良いじゃんと思います)

9月13日 戦犯指名された小泉親彦元厚生大臣、自決。
東ニューギニアで第18軍司令官がオーストラリア軍に降伏調印。

常盤新平さん(作家 74)当時14歳。仙台で中学2年生。アメリカ兵は日本各地に駐留していた。常盤さんは日米会話手帳と言う本を買った。今の文庫本の半分ぐらいのサイズでしょうか。60ページありましたかねえ。背とじのね、ホントに薄っぺらな本です。中身は道案内だとか、食べ物屋での案内だとか、簡単に書いてます。今は何時ですか、時間の聞き方とか、英語で書いてあって、左のページに英語が書いてあって、右ページに翻訳が書いてあって、英語の活字の上にはカタカナで発音が書いてあったんじゃないかと思います。せっかく手に入れた日米会話手帳だったが、常盤さんは使わずじまいだった。それ見てたら間に合わないから。実際には街角のアメリカ兵、黒人の兵隊もいたし白人の兵隊もいましたけど、話しかけるチャンスは無かったです。近づく事がかなわなかった。みんな、気後れしてたんじゃないかと、特に東北の人間ですから、気後れして話しかけなかったんじゃないかと思いますね。

9月14日 元文部大臣、橋田邦彦、自決。
日比谷公会堂で日響定期演奏会が再開される。

9月15日 神宮外苑野球場、競技場、進駐軍による接収決定。

堀田力さん(71 弁護士)当時11歳。昭和20年のこの日は疎開先、兵庫県浜坂の国民学校5年生だった。戦争が終って、学校での教え方はガラッと変わったですよね。それまでは堅苦しくて、うっとうしくて、重苦しい、そういう学校だったのが、戦後、自由、解放と言うことで、あれぐらい爽やかと言いますか、気分が転換した事は無いですね。戦争中はそんなもんだと思ってるわけですよね。クラスの先生ももちろん軍隊方式で、若い当時独身の先生が問答無用と書いた棒を持っておられて、それでいきなりガーンとやられるんですよね。問答無用ですから何でやられたのかわかんないし、聞いても問答無用なわけですから。それが戦争が終って、まず問答無用棒が消えますよね、軍事教練が消える。こんなにすがすがしい事は無いですねえ。堀田さんはこの年の通信簿を大切に保存している。一学期と二学期で明らかな変化があった。武道が無くなってますね。この武道でやられたんでしょう、軍事教練は。一学期は体錬には根気を持ち当たる事、二学期は体操見学をしたから。もう戦争終っちゃって自由になってから、体操サボってたんじゃないですかね。ホントに体錬がいやだったんですよ。休めるようになった所が大変化ですよ。二学期になっても、これまでと同じ教科書が使われたが、いくつかの科目では生徒自らの手で修正が行われた。墨を持って来いって言うんで、墨を持ってきて先生のおっしゃる所を消していく。もう戦争の嫌な所を押し付けられる所、そういう所がどんどん消えていく。それまでは軍国主義一本で、ぶん殴ってた先生が、ここを消しなさいとおっしゃるわけですからね。これも不思議な感覚で、うーん、大人ってそんないい加減なのかって思いも一方ではやっぱりありますよね。非常に大人に対する不信感、勝つと言ってて負けた、そういう大嘘つきの大人。その大人達が、どんどん、先生も含めて新しい価値観に変わっていく。それ自体は快い事なんですけど、同じ、子供にとっちゃ、ずっと信頼してきてるその大人が、180度変わって行って、前の事謝った人が誰もいないですよねえ。謝らない。間違った事を教えたんなら、間違ったっていう事をまず謝らなきゃ、勝手にすぐ消すだけで済むのかと。戦争にあんだけ勝つと言って、なぜ負けたんだ。負けて、それが良いっつんなら、そこはなぜなんだ。そういう事も教えてもらえない。で、本人は謝らずにケロッとして、今度は新しい事を教える。大人は信用できないと言う思いも非常にありましたねえ。

9月16日 香港守備隊がイギリス軍に降伏調印。

9月17日 枕崎台風が西日本で猛威。死者、行方不明者、3756人に及ぶ。
マッカーサー元帥、日比谷の第一生命ビルの連合国軍総司令部に入る。
重光葵(まもる)外相辞任、後任に元駐英大使の吉田茂。

9月18日 赤木春恵さん(81 女優)戦争中、かつて満州と呼ばれていた中国東北部で軍や開拓団の慰問活動を行っていた。昭和20年のこの日はソビエト軍占領下のハルビンにいた。当時の赤木さんは兄嫁とその子供との三人暮らし。身の回りの物を売ってようやく食いつないでいた。街路で日本人の着物売ると、絹なので、長襦袢なんかロシアのおばさんがワンピースにして着るんですね。後で見ましたけど、なるほどと。そういうのが売れたのが食べる事に助かりましたね。バザールに買い物に行くんです。お米も一斤、二斤(一斤=600グラム)とか、そんなような買い方でしたけど、少しずつ少しずつ勝って持って。パンパンと銃声は非常になるから、ピタッと陰に隠れて、両方見て、ダッーと走る。初めは北京旅館という所、旅館と言っても旅館ではないですが、大きな建物の一階に私達はいました。ソ連が来ると同時に、日本人は五階へって言うので、五階へ上がって、中国人が四階とか、三階まではソ連軍が全部入ってきたもんですから。ソビエト軍の日本女性に対する暴行は日常化していた。赤木さん達は怯えた。夜になってくると、ドンドンドンドンって、女を見つけて、日本人のいる階へドンドンドンドンやって来て。ホントはいけない事なんでしょうけど、若い兵隊がやってきて。戸を開けないと小銃みたいな、マンドリンみたいなのでダダダダダッとやられますので、そうっと戸を開ける。私達はね、良い考えがありまして、女優ですから、夕方になるとお婆さんに化けちゃうんですよ。一番汚い衣装を身にまとって、顔はもうどうらん塗って、影をつけて、頭はねえ、粉白粉とか練りおしろいでサッサッサッと刷毛でやって、白髪になります。とても汚い女達の集まり、3,4人おりましたけれども。ドンドンドンって、フッと開けたら、変なお婆さん達がいたら、ニェ・ハラショ(ここは駄目だ)って言って又次を探す。それで私達はホント命を救われましたねえ。

」9月19日 GHQ,日本の新聞に対し規制。連合国に対する破壊的批評や公安を害する記事を禁止する。
内務省、民間の刀剣所持を禁止。日本放送協会が実用英会話放送を開始。

服部公一さん(72 作曲家)当時12歳。昭和20年のこの日は山形市にいた。前日住んでいる町に米軍が進駐してきた。ほんのわずかの間に山形の少年にもアメリカ人や英語が身近な存在になっていった。英語会話のパンフレットみたいなのが売り出されて、それを買って持ってきた奴がいましてね。新聞紙みたいな粗末な紙に印刷してあり、それを畳んであるだけで、切ってないんだよね。カタカナで「ハウ ド ヨ ドウ」「ナイス チュー ミーチュー」。僕の一番側にいたのは、たぶん司令官だと思うんですけど、ホスカ中佐ってのがいたんだよね。なぜホスカって名前を知ってるかと言うと、表札にカタカナで「ホスカ中佐」と書いてある。ホスカ中佐がいなくなってもホスカ中佐と書いてあるんですよ。

当時医学生だった作家山田風太郎の日記「鈴木前首相が米人記者に、大命降下当時から和平工作の意志があっただの何だの、得々として語っている。しかも国民には最後の一兵までとか何とか演説しなければならなかったこともよく分る。しかしである。彼の叫びに応じて死んでいった特攻隊があったということを思わないのか。東条でもそうである。死に損ったのち、なぜ敵将に自分の刀など贈ったのか。「生きて虜囚の恥しめを受けることなかれ」と戦陣訓を出したのは誰であったか。」

9月20日  東京湾で大量の鰯水揚げ。都民一人当たり五尾配給。

船越義彰さん(80 作家)昭和20年のこの日は沖縄本島名越市久志にある収容所にいた。けして良い生活環境とは言えなかったがそこにいる誰もが明るかった。一つのうちに何所帯も入った。ヤギ小屋やブタ小屋にわらを敷いて(ヤギ、ブタはいない)、屋根をつけて寝た。汚くないです。綺麗でした。一番何と言っても良いのは弾が飛んでこないと言うことです。みんな同じような境遇だったので、バカにしなかった。思いやりもあった。沖縄の言葉で誠になったと言いますが。船越さんは市役所から呼び出しを受けた。ローマ字が書けるかと聞かれ、書けますと言ったら、書記に採用された。名簿を作るのはアメリカ人との関係なので、名前、性別、歳、本籍地、それをローマ字で書かなくちゃいけない。現物給与だった。避難民は一日一合いくらあたりの配給があるんです。現物給与として配給券をもらった。芋一斤とかメリケン粉一合とか。普通の避難民でも作業に従事してるんです。村の作業です。農耕班(農耕地に手を入れる)、清掃班(村の道を綺麗にする)、漁業班(魚を獲りに行く)、衛生班(汚物を担いでいく)、そういったもので作業に行くと現物給与をもらえる。沖縄では戦後餓死した人はいなかったと思うんです。

漫談家、徳川夢声の日記「焼酎を飲みつ放送を聴く。邦楽小品集というもので、まず小唄勝太郎である。その中の「お染」というので“恋ざかり”という文句が出る。此間までこんな文句は絶対マカリナランものであった。吉村りうの小唄“とかく浮世は色と酒”なんて文句が出てくる。えらい変わりかただ。霧島の「誰か故郷を思わざる」。これは聴いているうちに、つい引き込まれて了う。これを聴いていると、悲しい寂しい気持ちになる。

9月21日 山田耕筰を団長として東京音楽団が結成される。

9月22日 GHQ、原子力に関する研究の禁止を命令。
GHQ情報部、映画制作会社代表を集め、民主化促進、軍国主義撤廃などの政策方針を通達。

宮沢喜一さん(85 元内閣総理大臣)当時25歳。昭和20年のこの日は戦後すぐ発足した東久邇内閣の大蔵大臣秘書官だった。この内閣で最初に議論されたのは、進駐軍が来てからの治安問題だった。閣議で一番最初に決めた事は慰安所って言うんですか、女性達のクラブみたいなものを、大森海岸に作ったんだと思いましたけどねえ。私の経験によると実にアメリカ軍の軍規とういうものは、しっかりしてましたねえ。進駐軍の先遣隊は日本に入るとすぐに、占領統治の準備を始めた。大蔵省には建物を明け渡すように命令してきた。私秘書官やってましたが、大臣室へ指令書を持ってきまして、3日間、72時間だったかなあ、明け渡せと言う。有楽町にあいてる銀行の建物を借りて、大臣室はそこにいたんですねえ。この時宮沢さんは大蔵省の倉庫に米軍に引き渡すのが惜しい品物が大量に貯蔵されている事を知っていた。当時大蔵省は塩を管轄してたんですねえ。専売だったんです。塩を大蔵省の倉庫に持っていたんですねえ。それを占領軍に引き渡さなければならない。塩というのは大変貴重な財産なんで、何とかして占領軍が来る前にどっかに移せないかなあとみんなで苦労した覚えがあります。夜中に持ち出したような記憶がありますけどね。

喜劇俳優、古川ロッパの日記「電車が来ると大混雑、えいと飛び込むと、生憎米兵が沢山乗ってゐる。一人の米兵が、「タバコ」と僕に呼びかける。見るとチェスターフィールドの十箱包を見せて、「スリーハンドレット・フィフティー」と言う。相場ぢゃ三十円故、高いのだが、「オーライ」と、ズボンへ手を突込んで三百五十円出すときの格好は自分乍ら、いやな姿であった。それから此奴、缶詰を一つ出して、「フィフティー」と言ふ。手にとってみると「ビーフ・ベヂタブル・スチウ」とある。これも買はされた。

9月23日 進駐軍向けラジオ放送AFRS放送開始。
京都大学グラウンドで戦後初のラグビーの試合開催される。

金子兜太さん(86 俳人)当時26歳。昭和20年のこの日は捕虜として南洋のトラック諸島にいた。もともと日本海軍の基地だったこの島に上陸した連合国軍は残っていた日本兵を一箇所に集めた。日本軍の中心基地は夏島だったわけですね。そして春島があり、秋島があり、冬島があり。春島に米軍が進駐してきた。春島に日本人の軍人、軍属を集めた。そして捕虜収容所に入れさせられた。連中はガムガムガムガム、日本軍との交渉の間にも噛んでいた。

9月24日 BC級戦争犯罪人が発表される。
8月24日の皇国義勇軍による島根県庁襲撃事件、一ヶ月ぶりに記事解禁となる。

9月25日 関西進駐の米軍第一陣が和歌山に上陸。青森、新潟にも進駐。
山下奉文大将がマニラの戦犯裁判で起訴される。

妹尾河童さん(75 舞台美術家)当時15才。神戸の中学3年生だった。昭和20年のこの日妹尾さんは関西への第一次進駐軍が神戸の町にやってきたのを目にした。この日、進駐軍ってどういう兵隊達か見に行った。三日間学校休みで。混乱を避けるためにって言うんでね、とにかく街の中へは出るなと言われた。進駐軍がやって来るはずの道っていうのは、両側に警官が並んで、非常にビクビクしてました。やってくるのを見てびっくりしたのは、みんなジープに乗ってくるんですね。なぜビックリしたかと言うと、日本の兵隊は歩兵と言うのは、歩く兵隊なんですね。車に乗って戦争なんかしないんです。彼らはジープに乗ってやってくる。あるいはトラックの乗ってやってくる。全部車です。そして彼らは手を振ってね。沿道の市民達も、この前まで鬼畜米英と言っていたのに、みんな手を振ってましたね、歓迎の意味で。僕がビックリしたのは彼らが持っている銃なんです。僕は教練射撃部というのに入っていたんです。教練射撃部と言うのはおそらく兵隊よりも沢山に実弾射撃をさせられたと思うんです。本土決戦に備えて、敏捷に動ける中学生の方が使い物になると思ったんでしょうね。後で沖縄の少年達が実際に戦ってますから。一発一発、精神を込めて、必ず狙って撃てと言われたんです。弾を無駄にするなと言われて。三八式歩兵銃で訓練したんです。これは実弾を五発入れる事が出きるんです。撃ったら、槓桿(こうかん)を引っ張り、薬きょうが飛び出し、次のが入る。どんなに早くても、一旦引っ張り、又入れてという作業をしないと撃てなかったんです。アメリカ兵はすごく短い銃を持ってたんです、ジープの上で。もっと見たいと思いました。何だと思いました。槓桿が無く、弾が入っているらしい箱がある。もっと見たい。何とかしてアメリカ兵のいる所に行こう。アメリカ兵の病院に行ったんです。慰問と言うことで。彼の似顔絵を描く。描いて親しくなったら銃を見せてもらおうと思ったんですね。案外簡単に見て良いよと言うことで、持ってきてくれたんです。触ったら軽いんですねえ。三八式歩兵銃というのは3950グラム。四キロ近いんですね。アメリカ兵の銃は目方を量ってもらったならば、2500グラム。箱の中に15発の弾。しかも、引いて、最初の弾を送り込むと後は引き鉄を引くたんびに、撃ってたんですね。三八式歩兵銃と言うのは、明治38年に制定された銃なんです。昭和20年まで40年間も使われていた。だからこの間に改良が無いんですね。小銃の差は戦争の始まる前からあったんです。

9月26日 青島幸男さん(73 タレント)当時13歳。東京の中学一年生だった。昭和20年のこの頃、復員してきた父親が、稼業の弁当屋ではなく、日本橋で旅館を始めると言い出した。終戦一ヶ月経ってからの話しだけれど、前にうちの、強制疎開で壊されちゃった弁当屋があったんだけれど、その前のうちに子供の頃から眺めてた病院があったんだよね。元、軍医さんだった人が主治医をやっていたささやかな病院なんだけど、そこが6,7部屋あって、二階にもトイレがついてるし、下にもトイレがあるし、お風呂場もある。ここを上手に改造すれば、旅館になるんじゃないか。元々日本橋って言う地区は呉服屋さん、問屋なんか多かったし、幸か不幸か焼け残ったからね、繊維の名所の関西辺りからも、多くの売り手だとか、買い手だとも来るんじゃないかなと。そうなりゃ旅館業をするともうかるぞ。少なくとも子供らと一家の食うに困らないぐらいの生計は立てられるはずだって計算をしたらしいんだな、親父が。父親は半分焼けた病院を旅館に改築するため、材料集めに走り回った。親父が木場行って、材木を石(こく)で買っちゃうんだ。尺の角でね、二間の奴を一石(いっこく)って言うんですよ。これ一石でねえ、板にして何枚取れるからね、計算尺なんか使って即座に計算しちゃうんだって。それでこれを何枚、何ミリの厚さの板に挽いてくれってねえ、挽かせてねえ、すぐ大工に削らしたりなんかして、うち立てちゃうんだよね。屋根の葺くのに、ブリキの板が何枚あったら、何坪になるからね、いくらになるって計算をすぐ計算尺でやってね。その頃トタン板なんて闇だったんだよね。それ仕込んできてねえ。その頃屋根屋さんも、そこまで手が回らなかったんだね。全部親父がやってね、旅館にしましたよ、病院を改造しました。うちの旅館を利用なさる木綿問屋さんが多かったですね。お勝手でも良い、寝床無くても良いから、泊めてくれって人で満杯だった。部屋数にして7,8部屋しか無かった旅館に多い時で40人以上泊めたって言うんだから。だって断っても断ってもお客が来ちゃってね、台所でも風呂場でも良いから泊めてくれって言うんだって言うんだから困ったもんだよね。三食なんかもってのほかだ、外食券食堂に行ってめしを食ってくれば良いんだから、泊めるだけ泊めてくれって言ってね。とにかく日本橋界隈にいなきゃ商売になんないって事でね。旅館でお互いに持ち寄った品物をその場で売り買いして、商売にして、そのまま帰っちゃった人もいるくらいだから。旅館をアパート代わりにする長期滞在者もいた。中にはね、何か良く分らない入れ墨の先生なんてのも、住んでたりしてね。カストリなんて言うのがあったんだね。メチルアルコールを水で薄めて、酒に入れて飲んだりして、メチルアルコール中毒なんてのがね、盛んに出た頃だよ。その頃その入れ墨の先生がね、ある日突然、メチルアルコール中毒で死んじゃったりしてね、大騒ぎだった事があったんだねえ。

当時医学生だった作家、山田風太郎の日記「午後、寮のおばさんと林檎を買いにゆく。全部で十五貫買う。一貫十六円也。「ポリに気をつけておくなんしょ。どう逃げるかって?ま、何処で買ったかと問います。知らんなぞいったら、そらっとぼけるなと叱られますよって、正直にいったほうがええ。値は勿論公定で一貫三円……」と、老翁大いに心配す。狡猾と傲慢その面にてらてらと赤く輝く。戦争中に農夫が得たる新しき表情なり。

9月27日 天皇、マッカーサー元帥を米国大使館に訪問。

津本陽さん(76 作家)昭和20年のこの日、関西に進駐するアメリカ軍が、和歌山に入ってくるのを見物に出かけた。一杯なんですよ。手前の方は小さい駆潜艇とか駆逐艦とか、だんだんだんだん巡洋艦になって。それで奥の方に戦艦とか航空母艦が並んで。その間に水兵が小さいモーターボートに乗って、一人乗りのね、立ったままで、今の波乗りするようなああいうちっこい板にエンジンついている。そんなんでパッーと方々連絡に走り回ってる。台風と言うほどのものでもなかったんですけれどね、吹いたんですね。そしたらアメリカの海軍と言うのはそういうの知らないんですよ。和歌浦にはずっと防波堤がありますからね、すぐ側についた(?)駆逐艦や駆潜艇がね、みんな乗り上げるんですよ。それを見物に行っていた我々ぐらいの若い男の子がね、わっと呼びかける。向こうが最初呼びかけて来たのかも知れないですよ。一杯舷側に集まってね。いつのまにやらお互いに歌のね、交換が始まったんです。9月ごですから、暑いから夕方からですね、堤防の上に若い男が一杯になって、一杯電気つけましてね、サーチライトも照らして、歌の交換をやるわけです。その当時の流行歌を歌うと、向こう方はそれに対して二部合唱なんかやるんですよ。それでまたこちらの方は合唱したりね。向こうも褒めてくれたりするんですよね。それで「アンコール」なんてやるわけですよ、こっちも。向こうはもう喜んでね、又歌う。それでねえ、口笛を吹いたりねえ。そのうちにね、ロープを向こうから投げてくるんですよ。カゴがスッーと下りてくるんです。それにね、物々交換しないかと英語で書いてあるわけです。日本人形とかね、ちょっとした瀬戸物とかを入れて、紐を堤防の上に上がると、向こうの方にピューッと下りていくんです。中にラッキーストライクとかねチェスターフィールドとかねキャメルだとかカートンで五つぐらい入れてくれるんです。お菓子とかもねくれるんです。パイナップルの缶詰だとかね。それでみんな家の中の要らない物捜して、便所に置いてた香炉とかね。そうすると思いがけないものをくれるんですよ。

漫談家、徳川夢声の日記「中野花柳界ノ小母サンアリ、アメリカ兵タチノ女買イノ実情ヲ語ル。大和撫子ノ特攻隊ノ話大イニ銘記スベシ。或る夜、一人の妓の酔いたるが、憲兵にしなだれかかり、正にキッスせんとす。この状を見て、群集の日本男児ども、彼女を罵る。彼女柳眉を逆立てて曰く、「あたしたちがいればこそ、手前たちの嬶アや娘が無事でいられるんだよ。何を言ってやがんだい!」と。日本の男ども、グーの音も出でざりし」となり。

9月29日 三木睦子さん(88 三木武夫記念館館長)当時28歳。昭和20年のこの日は夫で、後に首相となる国会議員の三木武夫と目白の雑司ヶ谷に暮らしていた。夫の三木武夫は留学経験もある米国通だったが、戦時中に国会議員であった事の責任を感じ、政治家を止める決意をしていた。 大変なショックで、彼は田舎に帰って頭でも丸めようかぐらいの事考えたんだろうと思うんだけど、私が「そうはいかないでしょう。みんな、アメリカの事なんかろくすっぽ知らない人がね、そこらじゅううじゃうじゃいるんだから」って言って、だからむしろ、又アメリカの事も良く知ってるんだから、国会に留まっても少し日本の国のために働いたらってそう言ったんですけれども。なかなか本人はね、辞めようと決心していて、考え込んでたようですけれども。再出発を決意した一家は、雑司ヶ谷で借家生活を始めた。そこには多くの人が集まってきた。学生さん達も下宿屋なんてないから、みんなぶつぶつ(?)寄って来たりするから、満州やなんかから引き上げてくる人はどういうわけだか、ちょっと足場(?)に寄るんですよ。満鉄のお偉い理事かなんかした方も、単身、奥さん達どこへ疎開してるのかわからなくて、単身引き上げてきて、いるとこ無いから、三木さん、お世話になるわ、なんて言って。それから、親戚の者も、夫婦で子供を2,3人連れて、そんなに大勢泊まれないのよって言ったんですけど、まあ、一日二日泊まって、郷里へ帰っていく。その他、まあまあ、色んな人がやってきてましたね。満州から引き上げてきたってあれ、満鉄の社員でもあったのかしら、まっ白い綺麗なズボンをはいて、いやにダンディーなのもいましたよ。東京の連中はすすだらけ、汚れてひどいのにね。家には常時20人以上の居候がいた。生活費はどんどんふくれあがった。食事なんか毎日おいもですね。までも、徳島っていうねえ郷里がありますから、お米なんかもこそこそ運んでもらったり、良いおイモも結構届いてきたり。ただやっぱり夜通しおイモを焼かなきゃいけないから、8本なり、10本なりを、大きな電気コンロの中へ入れて、焼くわけです。夜中にメーターが回ると、電気代が大変だから、メーターを朝、ひっくり返すわけね。回っちゃたぶんを元に戻すと。でも、そういう事上手にやるお嬢さんがいましてね、ちょっと踏み台持ってきて、こうやって天井あれして、回すわけ、毎日。で、みんな、協力してそれぞれにね。朝、新聞にくるんで、おイモを持ってでかけ。でも、そりゃあお手洗いは、ずらっと並んだお手洗いが、臭くなってね。すごい臭いんですよ、おイモなんかばっか食べちゃって。

9月30日 金田龍之介さん(77 俳優)当時17歳。大阪都島工業学校の4年生だった。昭和20年のこの日、母親と一緒に集団疎開している妹と弟を迎えに行った。貨物列車に乗せられた。座る所の無い普通の貨物列車。夜中に敦賀かどっかに止まった時、貨物列車って止まるときガターンガタガターンとなるのね。そのたんびに目が覚めてね。妹達が疎開していたのは石川県小松のお寺だった。妹はお寺の庫裡の濡れ縁みたいな所で集まって遊んでいた。僕達が入ってきたら、おかーちゃん、にーちゃんってニコニコしながら飛び出してきた。弟の方は又違う所のお寺にいたんですよ。妹を連れて三人で違うお寺へ行って、金田壮輔って言うんですよ、壮輔はいますかって言ったら、寄って来るんですね、子供達が。ジッーと顔を見て、ポカーとして見てるんですが、壮ちゃんって見たら、いたんですね。何か知らないけれど、しりごみしましてね、あんまり物も言えないような、泣きべそかいて。そのうち馴れて。脚もこんな細いんです(手で握れるぐらい)、手でもね、ひょろひょろと背だけ伸びて、顔が細いもんだから、可哀想だなあと思ってね。あんまり惨めな形だったんで、お母さんが近所の温泉で一泊させてやろうと、おできなんかも出来てるしね。山中温泉に行って、旅館捜して、一軒入って聞いたんですけど。上から下までじろっと見るって感じですね、女の人がね。結局今うちは一杯です、お泊めする事出来ないわって言われて。もう一軒、ちょと規模が小さい感じの温泉旅館でしたが、そこに泊めてくれて。その時妹が、お寺に特攻隊の兵隊さん達が沢山いて、可愛いお嬢ちゃんや、お嬢ちゃんやって言いながら、遊びにおいでなんてね言うてくれるんでね、良くちっちゃい女の子同士連れ立って行ったなら、喜んでくれたわ言うてね。歌を習ったとか言ってね、そういう歌を教えてくれたりね、聞かせてくれたりした。貴様と俺とと違うんですね。“重い泥靴”「雨に打たれて アカシヤの 花もこぼれるぬかるみを 重い泥靴踏みしめて 進む緑(?)の戦線へ」って歌なんですよ。


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