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あの日 昭和20年の記憶 8月編

「あの日 昭和20年の記憶 8月編」

8月1日 漫談家 徳川夢声の日記「前田君が焼夷弾の直撃で、何もかも焼いて了った。ヴァイオリンとスーツ一コだけ助かったきり。この遭難談を、彼はさも愉快で堪らぬという風で語る。その話しぶりに何度も腹を抱えて笑わされた。本来、愉快であるべき筈でないことが、斯うも面白くて可笑しいというのは、人間の性のオモシロイところである。大きにこれこそ大和民族の特色かもしれないと思う。」

8月6日 マリアナ諸島テニアン基地から飛び立ったB29エノラ・ゲイ号が午前8時15分、広島市に原子爆弾を投下。広島の街は一瞬の内に廃墟と化した。推定被爆者数は42万。この年の末までにおよそ14万人が死亡したと推定される。

平山郁夫さん(75 画家)広島の陸軍兵器補給廠に勤労動員され、原子爆弾にあった。8時に陸軍兵器補給廠に行って、朝の点呼を受けて、作業場に数人で出かけて行って、「これから作業しましょう」って言うんで、仲間3人と準備を始めたとこでした。南の方からB29が三機編隊で広島へ侵入してきた。その時ぱっぱっぱっと落下傘を三個ほど投下した。落下傘が開いて、ゆらりゆらり落ちてくる。作業小屋にいた友達二人に、「変な物落ちるから君達外へ見に出ろ」と、最後まで言い終わらない内に、突然ピカッーとものすごい光が周辺を立ち込めて。ちょうど私の目の前で昔のマグネシウムの写真機のフラッシュたいたように。暗い小屋の中が黄色い光で充満される。目と耳を本能的に押さえて、床にうずくまった。這い出してみましたら、真上に大噴煙が、ちょうどきのこ雲の、ていうよりは、普賢岳の火山が爆発したような瞬間だったですね。その噴煙も瞬間なんですけど、真っ赤とまっ黄色とまっ白と真っ黒と紫の大きな煙がうずを巻きながら、段々段々立ち登ってくる。小さな小屋がなぜ助かったかと言うと、すぐ後ろに弾薬箱作る原木のこんな太いのが山積みしてあった。そこを爆風と熱線が来て、上の方にあったやつは吹き飛ばされたんでしょうけど、それが爆風と熱線を守った、シェルターの役目したわけですね。兵器廠の将校に「我々中学生、どうしますか?」「いやこりゃもう、新型爆弾、絶対爆発して、もう見ての通りだ」と言う。「自分の命は自分で守れ」「勝手に逃げて良いんですか」「もう、解散する」「大丈夫ですか?」「大丈夫だ」こりゃしょうがないから、どこかへ逃げなきゃという事で。向こうの方からぞろぞろぞろぞろ傷ついたり火傷を受けたりした避難民の群れが移動してる。みんな麻痺して、麻痺っていうのか、茫然としてるっていうのか、ショックで、口もきかない。ただ生きてる人間もガラスが刺さったり、火傷で皮膚が垂れ下がったり、そういうのは早く亡くなったみたいですけど、それがもうお化けみたいなのがぞろぞろ歩いているわけですからね。背中に子供おんぶして、目の前にいる、明らかに死んでるわけですね。親気づかずにもくもくと歩いてる。黄金山って言って、海に近い所の山まで逃げて、斜面で腰おろして、何時間か広島市が燃えてる、バチバチ音を立てて、ドラム缶が爆発したりして、広島市炎上、どうにも手がつけられないから見てたんですけどね。周辺には負傷者が一杯横たわってる。水くれーなんての、静かになったと思ったら亡くなってる。その時、これは世界のおしまいかなと思ったですね。とにかく全部広島市内は炎上して吹き飛んだわけですからね。

作家、内田百閒の日記「今日から夏服に着かえる。きびら色にて真白ではないが小型機の来襲にそなえて白い物は着るなと新聞などで頻りに云っているので行人(こうじん)や電車の相客の目が五月蠅いから成る可くよそうと思ったけれど外に無いのだから止むを得ない。仲間の目が五月蠅いから、口が八釜敷いから、と云う気兼ねは、満州事変日支事変以来の普通の感情なり。こんな事がどれ丈日本人を意気地無しにしたか解らない。」

8月7日 平山郁夫(75 画家)この日広島県生口島の自宅に帰りついた。惨状を撮影に来たグラマン戦闘機が目の前を飛んでいった。夕方になって山を下りて、東に向かって尾道の方に線路伝いに歩こうと思ったが、まだ火に阻まれた。子供が目がつぶれたり、火傷でふらふらになって目の前で倒れて、なす術もなく手がつけられない。又グジャグジャに全壊した中、火が燃えて来て、親が、この中に子供が埋まってるから、何とかしてあげてーと泣き叫んでも、もうどうしようもないわけですね。中には足を叩き切って、救い出した…。そのまま火事でどうしようもなく亡くなったり、というのを見ながらですね、東へ向かっていつのまにか鉄道線路に出た。夜目にもまだ燃えてますから、暗い中の火事の光を見てると、路肩にマグロを並べたみたいに、亡くなった人や、途中で行き倒れになった人が累々なのですよ。枕木の上を歩いて、時々は路肩に出て、見るともなく見てると、足が切断されてる、骨が見えて、もう血も出てない。暗い中でもお腹が上下してる、まだ息があるんですね。この人、まだ生きてると思っても、そのままぼろ雑巾みたいになってる。そういうのが累々なんですね。海田市(かいたいち)という駅に客車が止まってた。客車の座席で眠りこけてたら、右手の方から光が射して、汽車が動いている。東へ向かってる。周辺は負傷者の人が一杯で、座席に眠る形になってたのが、よっかかって座らされていた。目が覚めた。いつのまにか人を一杯乗せて、東の方へ、負傷者を運んだり、家帰る人を運んでる。駅に止まっちゃ、飛び降りてを繰り返し。私の島影が見えて、みはらし(?)の一つ手前の駅で降りて、海岸へ行って、私の島まで行く手押しの郵便船を探して、家へ帰った。「ただいまー」と帰っていったら、両親がびっくりして、NHKの広島放送がプツッと切れて、しばらくしたら岡山放送にラジオ放送が代わって、西の方から、広島の方から、ドッカーンという大きな音がしたという。それっきりで、プツッと切れて、岡山放送が来て、広島空襲されたけど、損害軽微なりという。私が帰ってきた第1号だった。さっそくみんな集まって、こういう惨状だったと説明したが、誰も信じない。そのうちに傷ついた人がどんどん帰ってきて、私よりうんとひどい情景で、自分も傷ついてるし、というのを見て、これは大変な事になったとという日でした。

作家 高見順の日記「新橋駅で義兄に声をかけられた。「大変な話-聞いた?」と義兄はいう。「大変な話?」あたりの人をはばかって、義兄は歩廊に出るまで、黙っていた。人のいないとこへと彼は私を引っぱて行って、「原子爆弾の話-」「……!」広島の全人口の三分の一がやられたという。「もう戦争はおしまいだ」原子爆弾をいち早く発明した国が勝利を占める。そういう話はかねて聞いていた。私はふーんと言ったきり、口がきけなかった。」

8月9日 午前11時2分、B29が長崎に原子爆弾を投下。長崎も一瞬にして廃墟と化す。
ソビエト軍が満州に侵攻を開始。
深夜11時過ぎより御前会議開催。翌未明、国体護持を条件にポツダム宣言受諾を決定。

美輪明宏さん(70 シャンソン歌手・俳優)当時10歳。昭和20年のこの日、長崎市内の自宅で夏休みの宿題の絵を描いていた時、原爆にあった。描き終わった絵を机の所に立てかけた。ガラスがずっと張ってある所だった。2階だったので、向こうは何も無く。そのまま描き続けていたら、光線でもってケロイドになってたんでしょうが、書き終わって、立てかけて、出来具合を見ようと思って、椅子から立って後ろに行った。見たとたんにピカッときて、ちょうどマグネシウムを百万個ぐらい焚いたような明かり。こんな良い天気に雷?と思うか思わないかぐらいの間、その一瞬に世の中の音と言う音が全部無くなった。シーンとしちゃって。あんな無窮の静寂と言うのは初めてですけど。後にも先にもありませんよ。世の中の音が全部ピッと止まって。とたんに今度は、世界中の雷を全部集めたような音で、ものすごい大音響でしたね。何が起きたか解らないような状態ですよ。外へ出たら、地獄なんですよね。馬がドタッと横になって死んでいる。馬というのか、火傷やケロイドでベロンベロン。その側で馬車引きのおじさんが踊っているというか、飛び上がってる。精神錯乱になったのか、それとも反射神経でピッとなってるのか、踊ってるという言い方が不謹慎なくらい飛び上がってる。郊外の村に逃れた美輪さんは、6日後、終戦を知るとすぐに長崎市内の自宅に帰った。うちへ帰ってきましら、玄関の所が畳みになってますでしょ、前にカフェーやってる時に、うちはちょっと変わったカフェーで、ショーウィンドウのとこに女のマネキンを置いて、着物着せて、お客さんを招き猫の代わりに入れるような、そういうショーウィンドウ作ってたんですね。その下が畳だったんですよ。私がうちの前に立ってましたら、女の人が来るんですよ。矢絣の着物で、下もんぺだったんですけれども。もんぺがちぎれてどっか飛んじゃったんでしょうね、ぞろぞろぞろぞろぼろぼろの矢絣の着物引きずってきて、そしてね畳を見たらなつかしくなったらしいんですよ。ふわっと柔らかい顔になったと思ったら、畳の上で寝ちゃったんですね。私困るなーと思ってたんですけど。私にね「すぃましぇん、みずぅくださぁい」唇がケロイドでこんなに腫れ上がってて、火傷してるんで、うまく唇が合わさらないんですけどね、良く聞いたらね、「あの、すいません、水を下さい」って言ってるのが分ったんですよ。あっ、そうかと言うので、土瓶にお水を入れて、土瓶でこうやって渡したら、持てないって言うんですよ。手が無いんですよ、ぐじゃぐじゃになちゃってて。だからそうかと思って、口にお水を注いであげて。そしたら、私はまだ子供なのに、私を拝むんですよ、その方が。「どうも有難うございます」って私を拝んで、それで、水を飲んでね。水を全部飲めないんですよ、垂れたりなんかして。しばらくすると、眠ってんだと思ってたら、死んじゃうんですよね。水をあげると、死んじゃうんんですよ。そして、次から次と来るんですよ、男の人やお爺さんとか、色んな人が来て。そいで私一人でさばき切れないで、お手伝いさん呼んで、でお手伝いさんと二人、お手伝いさんはバケツにお水を汲んで、一生懸命飲ませてあげて。だから、ずいぶん、末期の水ですよね。飲ませて上げて。ホントにあの悲惨ていうか。

8月11日 なかにし礼さん(66 作家)その頃満州と呼ばれていた中国東北部牡丹江で生まれ育った。家は造り酒屋だった。この日ソビエト軍から逃れようとする人々が駅に殺到した。怒号が飛び交い、人々は「避難列車を出せ!どうしてるんだ!」と叫んでるような状態。母親はやたら機転のきく女性で、日頃から関東軍にうちはお酒を収めていたりしていたものですから、よしみを通じていたという事もあって、関東軍にかけあって、軍用列車に8月11日の夜、乗せてもらう事になったんです。牡丹江の駅からかなり離れた所からね。駅で騒いでいる声を遠くで聞きながら、夜陰にまぎれて汽車に乗り込み、汽車はもちろん汽笛を鳴らさず、ゆっくりと静かに逃げるように走り出した。うしろめたさは僕達も感じていたけれど、軍人達も感じていて、汽車の中は何とも言えない暗い沈痛な、どんよりとした空気が流れていた。何かものしゃべっても、しっ、というよな感じ。翌日の昼、ソ連機が機銃掃射してきた。ミジン針で列車の天井縫うように撃ちぬいて行く。大人達は窓から飛び降りたり、てんでに逃げるんですが、おふくろに「あんては小さいんだから、座席の下に隠れなさい」と言われ、隠れたんだが、何の効果も無い。屋根を撃ち抜き、床を撃ち抜いていく。僕の目の前でバッタリ人が倒れて、血が流れていくのを見てね、生きた心地もなく、震え上がった。別の軍用貨物列車に乗り換えて、逃避行は続いた。途中で、開拓団民なんかが歩いて逃げてきてるのに会ったりする。「この汽車に乗せてくれ。病人だけでもいいから乗せてくれ」と言うんですが、全然乗せられないほど汽車が一杯だったわけでは無いんだけど、一人乗せると全員乗せなきゃならないわけで、それは不可能な事であり、もう一つはこれは軍用列車であって、民間の避難列車ではないんだという建前のもとに、開拓民達をけちらして、汽車は走る。無蓋車だったんですが、開拓団の人達がすがりつき、刀で切って落としはしなかったけれど、刀振り上げて、指を切るぞと言わんばかりに手を振り解いて、空に向かって拳銃を鳴らして、とにかく開拓団達を振り払って、又逃避行を続けた。日本国の民を守るべき軍人が、自分達が逃げるのに忙しくて、そして追いすがる同胞を蹴散らして逃げていくという風景はねえ、又ちょっと忘れがたいですね。その中に自分もいた。
 
8月14日 連合国側からの回答を受け、御前会議で再度ポツダム宣言の受諾を決定。
天皇、戦争終結の詔書を録音。
一部の将校が終戦に反対して夜半、宮城を占拠。森近衛師団長を斬殺。玉音版を奪おうとするが果たせず。

毎日新聞大阪本社記者、藤田信勝の日記「連絡部では、東京から送稿して来る原稿を總がかりでとってある。整理部も全員配置についてゐる。むしろ冷静に仕事をつづけてゐる。降伏の新聞をつくるために、こんなに落ちついて仕事がつづけられるというふことをわれわれはかつて考へ得たであらうか。抗戦を主張した政府によって!宣戦を布告遊ばされた天皇陛下によって!そして必勝を叫びつづけた同じ新聞によって!」

8月15日 B29、熊谷、小田原に焼夷弾攻撃。
阿南陸軍大臣、自決。遺書、死をもって大罪を謝し奉る。
正午、玉音放送により、ポツダム宣言の受諾を発表。

作家、高見順の日記「ラジオが、正午重大発表があるという。「ここで天皇陛下が、朕とともに死んでくれとおっしゃったら、みんな死ぬわね」と妻が言った。私もその気持ちだった。ドタン場になってお言葉を賜わるくらいなら、どうしてもっと前にお言葉を下さらなかったのだろう。そうも思った。十二時、時報。君ガ代奏楽。詔書の御朗読。やはり戦争終結であった。-遂に敗けたのだ。蝉がしきりと鳴いている。音はそれだけだ。静かだ。」

8月16日 スターリン、ソビエト軍による北海道北部の占領を提案するが、トルーマン米大統領、拒否。
特攻隊の生みの親、大西瀧治郎海軍中将、自決。

久米明さん(81 俳優)東京の陸軍幼年学校の見習い士官だった。昭和20年のこの日、陸軍の若手将校達の決起計画に巻き込まれる。校庭の方に馬でパカッパカッパカッと来る軍人がいる。馬から下りて久米さんがいる部屋に向かって駆けてくる。射弥(いや)少佐(久米さんの上官)の幼年学校からの戦友の後藤少佐という大本営の参謀だった。射弥少佐と話を始めるんですが、将校室で話しているんで、私は隅で聞くともなしに聞かざるを得ない。最初はひそひそと話してるんですが、段々声高になって、話す内容を聞きますと、「昨日玉音放送が遂に出た。しかし近衛師団は天皇を奉じて決起するつもりでもって、決起部隊を組織したんだけれども、森師団長が聞かないので、とうとう森師団長を斬殺した」近衛師団長が殺されて…、こっちは民間人の気分がまだ抜けませんからびっくりして、こんな話があるのかしら、これはえらいことじゃあないか、反乱じゃないか、二・二六じゃないか、というような色んな思いに駆られてましたが、その翌日は今度はサイドカーでバカッバカッバカッと来る。「昨日こうゆうような動きがあった。ついては、もう玉音放送が出て、日本はこれを受け入れざるを得ない。しかし我々はアメリカ軍を水際でもって要撃して、天皇陛下をとにかくお守りするために、松代に…」松代に秘密の大本営を作っているというのは内々民間にも耳にしてたんですが、「陛下をお連れして、日本の再起を図ろうではないか。ついてはお前達は…」陸軍幼年学校は焼けたとは言えども、トラックは持ってますし、馬は持ってますし、軍装品は持ってますし、弾薬は持ってますし、食糧は充分持ってるという一大部隊ですからね、親衛隊としてそれを全部活用して、松代まで行けというような事をしゃべるんですね。段々打ち解けてきて、「陸軍の情勢はこうなった。河邊虎四郎中将がマニラに飛んで、降伏条件の使節に行った。それが帰ってくると、マッカーサーが厚木に向かってこういう風に来る」そういう情報を全部聞かせてくれて、ついてはこれはもう完全武装解除だから、武器は携行していけない。ついては平服でもって松代まで陛下をお守りしていこう。そのために武器は何処の山のどこそこの下に隠せとか、何処の所に穴を掘ってこういうふうに保管しろとかいうような事を立案してるわけですね。8月15日に戦争終ったと思ったら、まだ続いているんだと、いささか私も慌てふためきましたが、そのうち情勢がいろいろと静まってきまして、日に日に情報が変わるんですけど、1週間ぐらい経ってからでしょうかね、後藤少佐が来て「これはもう軍としての行動は無理だ。軍は解散しなきゃいけない。これから戦後の事を考える。とにかく日本は船は無い、トラックは無い。しかしまず陸運を考えなきゃいけない」射弥少佐は岡山出身の方で、牧場かなんかをお持ちで、その牧場を拠点に、幼年学校にはトラックがありますから、そのトラックを持って行って、九州と関西、名古屋、東京を結ぶ陸運局をつくろうではないか、我々は平服に着替えて、戦後の事を考えよう。それを聞いた時に、いやなるほど、大本営参謀というのは、戦後の事もこういうふうに着実に考えるのかと思って、感心したんですけど、「久米見習い士官、おまえは東京商科大学学生だそうだから、ついては経理をまかせるから、やってくれ」ってわけで、よしてください、この人達とまたやるのかあと思って…。

当時医学生だった作家、山田風太郎の日記「朝九時全員児島寮に参集。これより吾々のとるべき態度について議論す。滅ぶを知りつつなお戦いし彰義隊こそ日本人の真髄なり。断じて戦わんと叫ぶ者あり。聖断下る。天皇陛下の命に叛く能わず。忍苦また忍苦。学問して学問して、もういちどやって、今度こそ勝たん。むしろこれより永遠の戦いに入るなりと叫ぶ者あり。軽挙妄動せざらんことを約す。」

8月17日 近衛文麿元首相の側近 細川護貞の日記「聖上御放送の前後、軍は全軍を挙げて、方針の転換に反対し、阿南の如きは木戸内府に対し、戦争の継続を薦め、木戸内府より、然らば戦争継続の成算ありやと反問せられて、「是なし、然れども大義存すれば、日本国滅亡するも亦宜しからん」との暴言をはく等のことあり。然し乍ら斯の如き考へは、全陸軍上下を通じての考へなり。嗚呼、何が大義ぞ!」

8月18日 満州帝国皇帝溥儀が退位し、満州国が消滅する。
ソビエト軍が千島列島北端、占守島に上陸。日本の守備隊と激戦。
内務省、占領軍向け性的慰安施設の設置を指令。

杉本苑子さん(80 作家)東久邇宮首相の屋敷に住み込みで女中として働くことになった。実家は東京世田谷。父親の知人の紹介によるものだった。進駐軍が入ってきたら、若い女の子なんかどうされるかわからないというとんでもないデマがあった。進駐軍の方は一人必殺(いちにんひっさつ)の神風の国に行くんだと思って相当怖がってたかも知れませんが、こっちはこっちで…。その時にたまたまこういうお話があったものですから、娘をどっか安全な所にやってしまうという意味では渡りに船のお話しだったわけです。行きましたその晩にコックさんが、「お苑さん、今晩マグロですけれど、照り焼きにしますか、お刺身にしますか」世の中、闇市に行ったからたって物は買えない。窮乏のどん底の敗戦。その時にマグロを照り焼きにしますか、お刺身にしますか、たかが一女中の夕食に。食べました、大喜びで。まっ白なご飯でしたし。毎日のようにそういう食事でした。お台所の戸棚開けると、何年もお目にかかれなかったカニの缶詰がぎっしり詰まっている。うちの父と母が、一人娘で他に子供がいない、宮様というような所にご奉公に上がったものですから、心配で心配で、毎晩のように裏口に来て、苑子ちゃん大丈夫?、苑子ちゃん、今日ね、闇市でね、何とかが買えたんだけれど、苑子ちゃんがいたらね、食べさせてやりたいと思った…、冗談じゃない、あたしはそんなもんじゃないもん食べてんのよと言いましたけど。東久邇宮内閣の成立の時でしたけれど、お屋敷に人がわいわいいらっしゃるというような事は無かった。静かな御日常でした。宮様御自身は東久邇内閣でお忙しくいらしったから、ほとんど私ども女中なんかは、お目どおりもする機会も少なかったですが、事務官とか何とか役人がいましたよ。時々接して、その方々がお食事する部屋なんかありましてね、そこで食事しているのを見たりしましたけどね、その事務官達の食事の後を見るとね、私ども、子供の時からだってそんな事したら怒られるのに、お茶碗にね、点々とお米粒付けたまんま、こうして置いてあるんですよ。闇でもってようやく何が買えた、お米が一合買えた何ていう時代にね、そんな食べ方をしてるって事事態がね、信じられない思いでしたね。びっくりしちゃいました。やがて杉本さんは体調を崩し、実家に帰る事になる。東久邇宮家での生活は一ヶ月あまりで終った。

8月19日 降伏交渉の日本全権、河邊虎四郎参謀次長の一行がマニラに到着。
関東軍総参謀長、秦彦三郎中将がソビエト軍と第一次停戦交渉。
退位を宣言した満州国皇帝溥儀、日本への亡命途中、ソビエト軍に捕らわれる。

8月20日 灯火管制解除 信書検閲停止される。
河邊虎四郎中将、マニラで連合国総司令部から降伏文書、一般命令第一号を受領。
ソビエト軍が樺太の真岡に侵攻。

小田島雄志さん(74 英文学者)その頃、満州と呼ばれていた中国東北部で生まれ育った。昭和20年のこの日はソビエト軍の侵攻を恐れて逃げ出した新京(長春)の町に再び一家で舞い戻ったばかりだった。8月9日にソ連軍が満州国境を越えて入ってきたと。関東軍は無抵抗らしい。小田島さんのお父さんは単なる会社員だったが、会社の人達をまとめて、無蓋貨車でぎゅう詰めになって南へ逃げた。新京の次に大きな街として奉天(瀋陽)があって、そこに8月15日について、夕方になっていて、そこからもっと南の朝鮮半島に逃げようとした。ところが動かない。どうしてかと思ったら、やっと日本が負けたんだという情報を知った。どうするかという激論が始まった。ちょうど半々だったんだが、負けたなら奉天から歩いて朝鮮半島を通って、内地まで歩こうという人達。父は、新京というのは曲がりなりにも一国の首都だった、だから国際的な注目を浴びるだろう、だから新京に戻った方が安全だと言い出した。二派に分かれた議論で、結局半分ずつに分かれようと言う事になった。父は又みんなから金を集めて、同じ貨車で北へ戻る。離れていた十日ばかりの間に新京の街の雰囲気は一変していた。この日から敗戦国民としての、いつ終るとも知れない厳しい生活が始まった。こっちは現場にいなかったから後で聞いた話しですけど、一応新京という町でも中国人の暴動があった。日本人にいじめられた人達は、日本人に復讐と言いますか、襲い掛かって、僕の同級生で一家惨殺という目にあったのがいたわけです。そう言う暴動が収まった所に又戻ったと。あまりにも運が良過ぎたかもしれないけれど。住んでたとこ行ったら、近所のおばさん達が出てきて、まあ、よく帰ってきたと。水も出ない、電気も無い、建物だけある。終戦の直後にソ連軍が占領した。最初はかなり柄が悪いって言っちゃいけないんだけれど、通りがかりの日本人から金目の物、時計から何から何でも取っちゃうし、うちにもドカドカ入ってきて、うちにあったウイスキー、親父が大事に取っておいた一本だけ取っておいたウイスキーを一息にカァッーと飲み干してたね、ラッパ飲みでね。何人かで束になってやってくるんだけど。姉は結局坊主になって、屋根裏に隠れるとかね、そういう事をしながら、いつまで続くか、いつになったら日本に帰れるとかわかっていれば、我慢しやすいんだけど、何にもわかんないんです。

8月21日 支那派遣軍の今井少将、中国側と停戦協議

塩田丸男さん(81 作家)昭和20年のこの日は陸軍響(ひびき?)旅団司令部がある張家口でソビエト軍と戦っていた。終戦によって旅団司令部の本部から、張家口という所に司令部があるんですが、そこにすぐ戻って来るようにと私の部隊に対する命令が出たわけです。張家口という所には日本人が3万人以上暮らしていたわけです。日本人が沢山住んでる町にですね、ソレン軍が北の方からズッーと攻めてくる。そのソ連軍によって邦人達が被害を被ってはいけない、それをどうしても部隊としては守ってやらなければいけない。全旅団の兵士を張家口の周辺に集めてソ連軍から守ろうという事になった。一日20里ぐらいの急行軍で行った。張家口の北の方にある○一陣地(まるいちじんち)という要塞に閉じこもってソ連軍と戦闘した。3万人の邦人を一人残らず帰すまでは、絶対にお前たちは退くなと言う命令だった。二十日まではソ連軍と戦闘を続けていた。ソ連軍との戦闘は武力の差を思い知らされるものだった。ソ連軍は機甲部隊で、戦車か何かでダッーと来るし、第一鉄砲だって違った。我々が持っているのは三八式歩兵銃(さんぱちしきほへいじゅう)という物で、一発ずつ弾込めてポツ、ポツと撃つ物。ソ連軍は立って腰だめで、ダダダダダダッーと撃つ物だった。実際問題として、ちょっとね、私なんか臆病だから、塹壕から中々飛び出せませんでした。「つっこめー!」なんて隊長が言って、飛び出しってたら、その隊長がすぐ撃たれて死んじゃうしね。日本人は全部鉄道に乗せて送って、その後鉄道を使えない様に爆破して、兵隊達は全部歩いて北京まで帰るわけですよ。歩いて帰るたって、ソ連の機甲部隊で追っかけられますからね、平地を歩いたら戦車の方が速いから、すぐ追いつかれて我々は殺されますから、山の上に上がる。尾根伝いに北京まで何百里という所を何日もかかって帰る。とにかくもう思いっきり早く帰らなくちゃいけないから急行軍なんですけれど、体が疲労しきってるから弱い兵隊はついていけない。私も弱った兵隊の鉄砲を持ってやったり、何か色々しましたけれど、それでもついていけない。どうしても動けないというのはしょうがないから、「良いか、お前、わかったなー」と言って手榴弾を渡して、そこに残しておくんですよ。つまり自決しろと言うことですね。部隊はズッーと去っていって、後で残されたら敵の捕虜になるしかないんだから。戦争に負けて捕虜になるよりは自決しろと言う事で手榴弾を持たせて、可哀想だけれども、部隊へ行くわけですよ。中々自決できないんですね。手榴弾持たせても、手榴弾の音が全然聞こえないんだけれど、大分経ってから一発バッーと、あっ、やったな誰かって。そうするとそれにつられたように、次に次にバッー、バッーと音がして何人か自決するわけですよ。

当時医学生だった、作家、山田風太郎の日記「各地の防空陣、敵襲来るときはいまだ猛烈に応戦す。東京都内にては各所に貼り出されたる降伏のニュース、一夜のうちに、ことごとくはぎとられたりと。またフィリッピンの日本軍は総攻撃を開始せりとの噂あり。このありさまにては戦意全国に炎のごとく燃え上がり、不穏の状況いちじるしきものあり、みな、この分にては面白くなるぞとよろこぶ。夕また日本戦闘機来る。翼ひかる。旋回して去る。

8月22日 無条件降伏に反対する尊王義軍の12人、愛宕山で集団自決。
ラジオの天気予報が3年8ヶ月ぶりに復活。
大本営、外地の各軍に25日0時以降、任務解除と武力行使の停止を命令。

西本幸雄さん(85 野球評論家)この日は陸軍歩兵部隊見習士官として中国湖南省の衡陽(こうよう)という街にいた。8月15日、終戦というのは私らは知らなかった。中支派遣軍、一番最前線まで行っている広部隊(ひろぶたい)と言う所へ転属を命じられた。8月上旬、西本さんは最前線の部隊に赴任する事になった。この頃最前線では日本軍と中国軍の戦闘が続いていた。それまで初年兵を輸送したり、小隊をもらったりしてたんですが、一向に戦闘らしい戦闘は無かった。一番最前線まで行ったと言う事で、これから戦地なんだ、戦場なんだという気持ちで、気持ちの上では張り切って行った。ところが出発してわずか数日後、前線から撤退してくる日本軍と出会った。赴任するはずの部隊だった。西本さんは追撃してくる敵を阻み、部隊の撤退を助ける殿(しんがり)を務めることになった。そこで兵隊を貰って、一個小隊の小隊長を仰せつかったわけですけれど、日本の軍隊は攻める時は将校が一番先頭、退却してくる時は将校が最後尾なんです。私等はなりたての将校でして、しかも一番若いと言うことで、一番辛い所へ置かれて、毎日部隊の最後尾を歩かされた。小隊がもってたのは、馬部隊でして、ラバとか、ロバとか、中国馬とかは、故障して動けないに等しくなるとすぐ殺せるんですが、日本馬は日本の兵隊よりお金がかかっていて、獣医さんが簡単には殺す事を許してくれない。だから非常にふらふらした馬を歩かして行軍するわけです。それでいて私等は部隊の最後尾から歩かなきゃいけない。よろよろしながら歩いてくる部隊に激しい戦闘を挑むという事はしない。腰すえて、向き直って日本軍が攻めてくれば、広部隊と言うのはとても向こうでは強いというそういう評判だった。二発,三発、ポーンポーンと、嫌がらせですね、そういう弾を撃ってくる。その中をポコポコ歩きながら、こんな流れ弾に当たって死んだら、ホントに犬死だなというそういう感じですよね。ようやく衡陽の街に戻ると様子が一変していた。衡陽の街に差し掛かったら、汪精衛の、日本軍が作った中国の政府みたいなのが、発行している儲備券(ちょびけん)が、儲備券というのは貨幣ですね、紙幣ですね、紙幣が道に散乱している。これは何かあったなとそういう異様なものを感じましたね。

詩人、安西冬衛の日記「けふから大阪、劇映画再会。小包も電報も制限なし。生活を娯しむこと。芸術の無力だったこと。自分の場合。しかしいつの場合でも美意識は喪はなかったこと。昼まへ塩鮭の配給。十二時のサイレンが遠くでなる。けふから音響管制が解除されて昔にかへったのだ。昼の報道の時、天気予報をやってゐると子供が注意した。」

8月23日 皇居前で愛国団体明朗会会員の13人が自決(ネットで調べると12人と書いてあったりするけれど…。)

早坂暁さん(76 作家)この日、山口県防府の海軍兵学校分校で除隊。郷里の愛媛へ向かおうとしていた。僕らが一杯荷物を持って、毛布だとか外套だとかを一杯持って歩き始めたんですが、暑い夏だったので、数百メートルいかない内にボトッボトッと落としていったんです。それをリヤカーで拾って歩く人達がいたわけです。防府の駅から貨物列車に乗って、尾道に向かった。尾道から船が四国に出ていた。二週間ほど前に広島に原爆が落ちたという事は教官から聞いていた。広島は消滅したって言われた。僕が学校に入る前に通った広島がとても大きな街だという印象があったのが、たった一発で消滅したというのが腑に落ちないわけです。どう消滅したのかこの目で見たい。しかし宮島口という手前の所の岬を巡りますと、車内に異様な匂いが入ってくるんですね。広島が近づくにつれ強烈な匂いがする。これはみんな、これは広島の匂いだ、広島で沢山死んだ人の、死者の匂いが入ってくるんだなとわかった。もう真っ暗ですよね。広島について、飛び降りたんです、広島に着いたぞっと。裸のポール(?)がプラットフォームに三本ほど立っていて、木に広島と書いてあるのが打ち付けてあって、これ広島駅だよ、確かに確かに広島駅だ。しかし駅舎も無い。その内にリンが燃えてるんですね、ちっちゃなちっちゃな青い火がポッポッポッポッポッポッ燃えてる。最初は十個かな、いや百個だ、いや千ぐらい燃えてるよ。段々目が慣れるにつれ、見渡す限り燐光が燃えてるんですな。みんな立ち尽くしたんですが、ガタガタガタガタ膝頭が震えるですよ、あまりのすさまじい光景に。その時にオギャーオギャーと赤ん坊の声が聞こえたわけです。そんなバカな、こんな燐光が燃えて、死臭漂う中で、赤ん坊が泣くわけが無い、空耳だと言ったら、いや、あそこいらで泣いてるとみんな言うわけですね。しかしこんな所で生まれた赤ん坊って一体何だろうと思ったですよ。こんな中でも産む人がいるんだ。生命を誕生させる人がいるんだ。異様な感動を覚えると同時に、しかしあの赤ん坊は生きられないだろう、こんな中ではそう長く生きられないなと思ったですね。その時が一番日本は負けたんだな、敗れたんだなと一番深い実感がありました。

8月24日 松江市で降伏反対の皇国義勇軍48人が県庁、新聞社、放送局等を襲う。
陸軍予科仕官学校生徒67人、埼玉の川口放送所、鳩ヶ谷放送所を一時占拠。

江尻光一さん(79 園芸研究家)当時19歳。昭和20年のこの日は愛知県豊橋の陸軍予備士官学校の幹部候補生だった。空を見ると例のB29が低く舞っている。お腹の所に砲塔がある。それがグルグル回りながら下向けている。向こうも士官学校がここにあると言うことを知っている。そういうのを見ると敵愾心が起こる。「これから豊橋の市内を威示運動する。全員集合」と言うので、完全武装して、当然鉄砲も持って、弾薬はありませんでしたが、きちんとしたなりで、隊列を組んで、三つの方面に行った。ある場所で、なだらかな坂で、我々は上から下がってくる、ザッザッザと歩きながら、隊列組みましてね、その時下の方から上がってきた一人の若い女の方がいたんですね。その方はなんとスカートです。今何でも無い事ですが、当時もんぺと言う姿で、くるぶしの所まで全部、今のズボンですね、一切何も見せてはいけないと言うか、そういう習慣だったんでしょ。そういう姿ばっかり見慣れてますから、スカートの姿って言うのはドキッとする位に強烈な印象だったですね。それを見た引率者、私達で言えば区隊長と言うんですが、我々の先輩ですね、約200人ぐらいを引き連れてる、それが突然大きな声で、私は前から3番目にいましたから、良く聞こえましたが、「ああいうのがいたから負けんたんだ!俺はこれからぶった切る!」そう言われまして「ぶった切るぞ」。さすがにこれには我々もびっくりして、そういう会話はいけないんですが、「区隊長、止めて下さい」「やってはいけないと思う」「なぜだ?!」こうなんですね。で、我々5,6人、ダッダッダと歩きながらですよ、その内に通り過ぎちゃったんです。後で呼び出されましてね、「おまえらは何で俺を止めた」って言うんで、大層怒られたんですね。やがて、軍の指揮を離れ、自分達だけで米軍を迎え撃とうという機運が高まった。将校生徒である事を示す徽章があるんです。それを全部取って、大きな穴を掘って、石油をかけて、皆燃すんですね。ですから軍隊手帳というのも燃してしまいました。身分を明かさない。全員が自分の私物を燃して、その周りで歌を歌っていた。それは例の有名な貴様と俺、あの歌でしたねえ。どなるような唄い方でしたねえ。次の朝、非常召集がかかるんです。確か6時頃だったと思います。全校生徒、庭に並びましてね、学校長が戻ってみえた。「おまえらは蜂起するな」それから諄々と話しが始まるんです。3時間ぐらい。八月ですよ。もう9時頃になったらすごい暑さです。もちろん朝飯なんかは食べていません。何人か倒れましたね。そして「戦いをする、戦いをして国を守る、そうじゃなくて、戦いはしないで、お前達一人一人が日本と言う国を守る、そういう気持ちを持て」何回も繰り返して言いました。解散。当時19歳ですから、ガクンときちゃうんですね。自分の区隊へ帰る時なんかとぼとぼと帰りましたよ。

8月25日 この日をもって日本軍の戦闘は停止する事に。海軍解体を開始。
ソビエト軍、樺太の大泊に上陸。

坂上二郎さん(71 コメディアン)当時11歳。昭和20年のこの日、家族と一緒に鹿児島市郊外の村に疎開していた。鹿屋に米軍が上陸するというので、慌てたんだなあ。私がいた重富というのは鹿屋から意外に近いんです。アメリカさんが来たら、みんな皆殺しだと言うんでね、山に逃げろと言うんで、今で言う農協さんが、一人一俵ずつお米配給と言って、赤ん坊から全部一俵ずつですよ、すごいですねえ。みんな山に逃げた。で、飼ってる牛とか馬とかニワトリとかそういうのを全部連れて山に逃げて、山の中で、牛も殺すわ、豚も殺すわ、贅沢三昧ですよ。みんな殺されるの、死ぬの知ってるから。その代わり煙は立てないように。まあ食べた、食べた、肉は食べるわ、そりゃあすごかったですよ。一週間ぐらいいた。飲めや歌えやですよ。歌えやってったて、ちいちゃな声で。偵察隊が降りて、こっちには上陸しないと聞いて、慌てて帰ってきて、「解除ー!上陸しないよ」と又みんな米を一俵ずつ抱えて降りてきたんですよ。山を下りてから本当の苦労が始まった。父はシベリヤに抑留、母は仕事と食べ物を求めて駆けずり回っていた。幼い妹や弟、そして二郎さんは親戚を転々としていく。せっけん売りのバイトをした。鹿児島の駅前に闇市があって、そこでせっけんをつくる。洗濯石鹸。最初は泡が出る。友達と唐津に行った。売れた。売ったらすぐ逃げた。2時間後には解けちゃって、ちっちゃくなっちゃうのだ。進駐軍のアメリカ兵と出会ったのも食べ物がきっかけ。チューインガムだった。友達がガムがおいしいと言う。進駐軍ってみんなガムをかんで歩いているんですよ。みんな我々後ろからついて歩くんですよ。ガムを吐き出すのを待ってるわけですよ。プッと吐いたらみんな一斉にバッーと飛び掛って、早くとった奴がマロマロマロ(?)、ジャルジャリジャリ、よっしゃあと。進駐軍もちゃんと心得て、又新しいのを食べて、又みんなついて行って、又プッと吐いて又飛び掛って。「おいしいか?おいしいか?」まず聞くんですよ。「おいしいよ、おいしいよ、甘い、甘い」「おいしか、おいしか、おいしか?」「おいしかど。うめえど」舌からガムを引っ張って見せて。憎たらしいでしょう。触りもしなかったよ。

8月26日 内務省の指令により、接客業者ら特殊慰安施設協会を設立

栄久庵(えくあん)憲司さん(75 工業デザイナー)昭和20年のこの頃、山口県の海軍兵学校防府分校から復員列車で実家のある広島に向かった。夜中に着いた。何も無くて、ぼうっと燐が燃えている状況だった。降りてもしょうがない、自分のうちに行ってもしょうがないと瞬間判断してすぐ帰った。で、又無蓋車に乗って、母の里にいるかもしれないと思って福山で降りた。母が私に会うなり、これが昌子(ヒロコ 妹さん)です、昌子の骨ですと新聞紙みたいなのに包まれたお骨を見せて、広島で死んだ、原爆で死んだと言うことで、その頃すでに原爆と言われていました。食糧調達に行ってる時の原爆だったらしくて、母も気になって、広島に妹を探しに行ったようなんです。広島の日赤の前に庭に人を焼いた跡があって、そこに棒ッ切れに板が打ち付けてあって、墨で「エクワン」と書いてあった。消えていったといった感じで、母も涙一つ見せず、私も涙が出るという感じではなかった。住職である父親と一緒に広島の寺に帰った。住める様な状態ではなかった。お墓が爆風で倒れていました。光線でお墓の色が変わっていました。押しなべて無いという感じでした。お寺があったというのはわかるんですが、哀惜の念みたいなそういうのも無いんですね、不思議と。

8月27日 進駐軍向け特殊慰安施設「小町園」大森に開業
真珠湾攻撃以来途絶していた日米間の直通無線が再開される

水野晴郎さん(74 映画評論家)当時14歳。昭和20年のこの日は、当時満州と呼ばれていた中国東北部、ソビエト軍占領下の吉林に暮らしていた。家家に蹴飛ばして入ってくるんですよ、ものすごく大きな体で。むしゃむしゃの赤毛で、何か怖い感じで、鬼が来たんじゃないか位の気持ちでしたね。それで蹴破って入ってくるは、家の中を平気で荒らしまわるは、これはすごいもんでした。殺されると思いましたね。うっかり反抗しそうもんならば、すぐ銃向けますからね。撃たなかったでしょうけれど、それにしてもねえ、いろんな事をやってましたから。ご近所の奥様を旦那様の前で暴行するとかね。そういうつらい目をねえ、我々側で見聞きしましたねえ。あらゆる物を持ってかれました。金品をねえ。その上に彼らが一番欲しがったのは時計だったんですねえ。「トケイ、トケイ」という言葉ばっかり言って、腕に山のように時計をしていて。家の中も土足ですからメチャクチャになっていく。僕が大切にしていた親父から貰った手風琴、子供用のアコーディオンですねえ、これを持ってかれてしまうし。くやしかったなあ、ホントくやしかった。略奪をまぬかれたわずかな財産も生活のために手放さざるを得なかった。私と年の離れた弟三人と、一番下は乳飲み子でしたけど、母と祖母と五人でいたわけです。祖母が自分の持っていたあらゆる物を売り始めたわけです。最初は着物ですよ。着物、すぐ底をついてしまう。今度は指輪を売ったり、色んな飾り物を売った。お婆ちゃんは自分の沢山持ってた薬を売りましたねえ。風邪薬だとか、お腹の薬だとか、そう言う物をドンドンドンドン。それを僕が町に持ってって、箱に入れて、街角に立って売るわけですね。ある時、お婆ちゃんが自分で歯を一生懸命抜いてるんですよ。お婆ちゃん何してるのと聞いたら、金歯抜いてるんですね。

8月28日 池部良さん(87 俳優)当時27歳。昭和20年のこの日は陸軍中尉として、赤道直下のハルマヘラ島にいた。食糧難に苦しむ日本軍は、武装解除に来たオーストラリア軍に、食糧援助を依頼する事になった。英文科出身の池部さんは通訳を命じられた。「池部中尉いるか?」「おります」君はこれからオーストラリアの、オーストラリアとは言わないんだ、豪軍と言うんですね、豪軍の駆逐艦に、食糧の交渉に、おまえ通訳…、いやおう無く乗せられた。そしたら兵隊さん達がねえ、「隊長、大丈夫ですか?向こう行って、向こうのねえ、豪軍だか何だか知らないけれど、赤いこんな奴(鼻が非常に高い)にみいられて、すぐこれですよ」「脅かすなよ」って事言われて。ワシレ湾にその船があり、そこまで30分ぐらいかかったのかなあ、その船に、舷側に着いたんです。小杉参謀、先年亡くなられたんですけど、この方が、「おい、池部。おまえ行ってこい」「自分は通訳ですから」「いいんだ。そういうもんだ、おまえは」参謀長に初めてお目にかかるんだけど、閣下の方を見て、救いを求めて、「行け」みたいな顔をするんです。ホントにいやだったな、あの時は。縄梯子を上って、3メートルぐらいあるんじゃないかな、上がったら、鬼の軍団だな、赤いひげがこうはえてて、鼻がこんな高くて、目玉は青いんだか綺麗なんだかかわかんない、雲つくようなのがズラーと並んでる。で、艦長室に連れてかれる。交渉しろったって、何を交渉するのか見当もつかないし、食糧が無いって言えば無いんだから(?)、「我々、師団、Rice…」「We,have not.」「This?]「We have not.」「This?」「Also we have not」結局何ももらえないで、でもせっかく来たんだから、国に電報を打って、希望の何分の一かはあげるであろうと。で、艦長が、日本語で言えばだ、「まあまあまあ、それはそれ。いやいやいあy、どうだどうだ、コーヒーでも飲まないか」と言ってくれた。コーヒー、これは、もう5年間飲んだことも無いし、匂いかいだことも無い。「サンキュー、サー」頂いちゃったんだよね。そしたら、このコーヒーの香りの良さね、たちまち目が眩み、危うく椅子から落っこちそうになった。そんでまあ、テーブルの所にグッとしがみついた。艦長が「何をしてるんだ?」みたいな顔で覗き込んできたが、何をしてるって聞かれたったって、「目を回してます」なんて言え無いし、「I’m all right… I’m all right」ああ俺、今、目を回してる、下倒れてるなっていうんで、情けないんだなあ、皇軍の陸軍中尉としては、ホントにみっともない姿だったんだけど。船から下りた池部さんは交渉の結果を参謀長達に報告した。「ただ今戻りました」「うん、どうだった?」「豪州軍にも、米だの小麦だのそう言う物は、この戦争で使い果たして無いと言っている。でも、少しは希望の何分の一か、何百分の一ぐらいは送ってくれる事が出きるであろうと言う話です」「そうかあ。そうか、良かった、良かった。わしはもう全然ねえ、くれないんだと思った。それだけでも大変な成果だ。ああ、よく出てきた、。良かった良かった、よし、帰ろう」なあに、冗談じゃないよと言いたかったけれど。

8月30日 連合国軍最高司令官マッカーサー元帥、厚木飛行場に到着。横浜の総司令部に入る。
日本に抑留されていた連合国軍捕虜引き上げ。
横須賀で連合国軍による婦女暴行事件が二件発生。

漫談家、徳川夢声の日記「大本営発表が嘘八百だったという話、-こんな話は信じたくないが、そうかもしれないという気がしなくもない。嘘八百とまで行かないにしても、嘘四百ぐらいには行ってるかもしれない。報道すべき真実を、半分しか言わなければ、やはり嘘四百である。この戦争を通じて、アメリカの航空母艦は、たった四隻しか沈んでいないというではないか!大本営発表によれば、空母などは既に幾十も海底に消え失せている筈だ。それがたった四隻!」

8月31日 横浜で米兵がビール輸送のトラックを襲撃。

山田洋次さん(73 映画監督)中国東北部大連の中学一年生だった。昭和20年のこの頃、山田さんはソビエト軍が来ると言う噂を聞いて、町外れに見物に行った。何千人と言う部隊がやって来た。占領した町に堂々と入場してくるという感じでしょう。示威行為でもあるっわけだけれど、大勢の市民達、見てるし。着てる物はボロボロで、靴なんかもキレの靴でねえ。ただ異様だったのは、兵隊がほとんど銃を持ってるんだけれど、この銃が俗にマンドリンと言ったけども、こういう大きな銃、弾入れがついてる自動小銃なんですよ、引き鉄を引いたら一挙に何百発ブッーと出ていく。それはちょっとビックリしたねえ。こんなすごい武器持ってるんだっていう。大勢市民が見てるからなんだろうなあ、歌、歌い始めたの、ソ連の兵隊達がね。向こうのスタイルなんだね、一人非常に声の高い、テノールの、通る声の、将校だか何だか知らないけれど、歌を歌うわけ、一声。それに合わせて全員がねえ、大合唱するわけ。それが何とカチューシャの歌ですよ。「リンゴの花ほころび…」と僕達は覚えたけれど。着てる物は粗末でも、何だかエネルギーに溢れてるんだよ。体は大きいしね。声は大きいし、歌声は朗々と町中に響かんばかりに素晴らしい歌声だし、しかも美しいしさあ、ハモってて。やっぱり日本の軍隊をふと思い返すと、何だか貧弱で、みんなみじめったらしいなあと思ったねえ。数日後、家の近くで轟音が響き渡った。山田さんは窓に駆け寄り、外を見て仰天した。僕のうちの前に戦車がやってきたの、ソ連の、でっかい戦車がねえ。戦車の中から兵隊が出てきて、あっちこっちその辺の家に行って、略奪って言うか、そんなひどい事はしないんだけれども、みんな着る物がろくに無いから、シャツなんかちょっと持ってっちゃたりするわけ。僕のうちには将校が来るわけ、肩章なんかで分るでしょう、僕の親父が出てきて、応接間に座りなさいって。最初ロシア語で言ったんだけれど、僕の親父はロシア語は知らない。英語もわからないみたいだ。僕の親父は、高等学校、大学でドイツ語やってたんだね、エンジニアだったけど。ドイツ語でしゃべりかけたら、向こうドイツ語でしゃべるわけ、片言で。そいで色んな話をしてて、蓄音機でレコードをかける。僕がショパンをかけたらね、ショパンって言ったのね、彼がね。うわー、この野蛮なロシア兵と思ってたけれど、ショパンなんてわかるんだなあと思ってた。後で、親父に何話してたのと聞いたら、何故ドイツ語を知ってんだと聞いたらね、俺はベルリンで戦争してたとそう言うんだよ。長い長い旅だった、つらかったって言うのよ。夜眠れない、なぜか。シベリヤの夜っていうのは、ものすごい蚊と虻(あぶ)なんだってさ。実際、この辺(顔)ブツブツされてたけれどね。ある日、山田さんはソビエト軍の将校と話しをしていて、その心のうちを知り、驚いた。ある時、僕達一生懸命覚えた片言のロシア語で、しゃべるわけよ。僕が直接聞いたのは、学校の先生している、かなり年配の、中年の将校だったけれども、これから平和になるんだって僕が言ったら、ニエッット(いいえ)ね。どうしてって聞いたら、アメリカンスキー。こうこうこうこうって言ったねえ(指を幾度か交差させ、拳骨を合わし、つまり戦うという事ね)。それからその後で終るんだ、戦争はねえ。へぇーって思ったねえ。そうかあ、ソ連はアメリカとまだ戦うんだ。この人達、戦争まだ終らないのかってねえ。

当時医学生だった、作家、山田風太郎の日記「友人続々帰郷。駅に見送る。待合室内に兵士数名座る。戦闘帽になお徽章あれど、丸腰の惨めなる姿なり。ただ背には何やら山のごときものを背負う。解散に際し軍より半ば押しつけられ、半ば掠奪的に運び来るものなるべし。米俵、馬、トラックまで貰いし兵もありときく。八十年、日本国民が血と涙しぼりて作りあげし大陸軍、大海軍の凄じき崩壊なり。」


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