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あの日 昭和20年の記憶 7月編

「あの日 昭和20年の記憶 7月編」

7月2日 猿谷要さん(81 アメリカ史学者)北海道西春別にあった陸軍の飛行場で教官を務めていた。一人、5,6人を受け持って、午前中に一人30分同乗して訓練した。四人目にプロペラが飛んでしまった。松根油のせい。ガソリンに松根油を今日は10パーセント、次の日は20パセントというふうに、混ぜながらテストパイロットしていた。自分一人で飛んでみた。いつプロペラが止まるか分からないから飛行場の上だけ飛んでいた。松根油だけでは飛べない。四人目の訓練になった。幌をかぶせる装置が後ろの席にだけあって、雲の中に入った状態での飛行訓練だったので、前方の席に乗っていた。後で考えてみると離陸の時にポツンを変な音が一回した。普段の旋回地点に来ても高度があまり上がっていない。おかしいなと思ったらスーと止まってしまった。よし後は俺がやるぞと自分が運転した。一生懸命操作したがプロペラはブルブルン、ブルブルンと鳴る程度。その内下から原始林がウワッと盛り上がってきて、僕は眼鏡をはずして、何故なら眼鏡をしたままガシャッとゆくと目が危ないから、ガラスの破片で。激突する瞬間に操縦桿を倒す。真っ直ぐ行くとお腹付いちゃうから。ハッと気が付いたら、川のほとりで、すずらんがびっしりだった。翼が高い所に引っかかっていて、川の向こうに胴体の後ろ半分がかかっていた。うまい事二回ショックで、緩衝しながらガシャッといったのだ。それでも僕は気絶した。

山田風太郎の日記「日本のこの大危局に追いこんだのは青白き理屈屋にあらず、理屈を頭から食わず嫌いにする連中なり。日本人はもう少し、理屈っぽくならねばならず、物事の解剖、総合、批判などがお互いに理屈とは感じられなくなるまでにならねばならぬと痛感しきりなり。かかる習慣が長き歴史の間に科学精神を養うなり。今となってあわてて「天才教育」などやるは無益無意味にしてばかげたことなり。」

7月3日 天皇、木戸内大臣にソ連による和平仲介について聴取
食糧配給基準量一割削減を決定 主食、一日一人、二合一尺に
横須賀市で燃料用アルコールを盗んで飲んだ11人が死亡

加藤武さん(76 俳優)東京麻布中学校の四年生だった。三年生の時から授業は無く、勤労動員の日々を送っていた。大井町の三菱重工で働いていた。流れ作業で私達は歯車にやすりをかける作業だった。ちっとも流れていかなかった。一週間前に一生懸命やすりをかけた歯車が積んであって埃をかぶっていた。ある日ここから一歩も出ちゃいけないとものものしくなった。戦車のキャタピラにすごい浮き輪がずっーと付いていた。水陸両用戦車だそうだ。浮かぶとは思えなかった。新しい仕事が来た青梅の寺にある防空壕堀りだった。兵隊さんと一緒だったが、老兵ばかりだった。

 漫談家、徳川夢声の日記「先月の代用食配給は十八日分もあったと言う。すると三度三度米を食ってると十二日分しか飯は無かったことになる。今朝の放送を聴いてると、今後益々代用食が幅を利かすことになるらしい。甘藷蔓の粉だの、桑葉の粉だの、甘藷からアルコール用澱粉を抜きさった残りの粉だの、矢鱈に粉を食わされるらしい。日本のジリ貧状態は、家庭面にも鋭く反映している。」

7月4日 米政府、日本への原爆使用に関して英国の同意を確認

馬場あき子さん(77 歌人)4月13日の東京空襲で高田馬場の家を焼け出された。家族三人で知り合いの家に間借りしていた。小さい道を一つ隔てた所に焼け残った家があったので、お婆ちゃんと息子と嫁さんと暮らしている家に入れてもらって八畳間を一つ頂いてそこで親子三人で暮らした。そのお婆ちゃんとは顔見知りだったんですけど、お互いの事だし、お婆ちゃんも、もうそこまでいくと疎開、田舎に帰りたくなっていますから、喜んで、頼もしいから一緒に暮らしてくれるの嬉しいと言って入れてくれたんです。主食は配給になるけど、副食の配給はほとんど無し。お腹が空いた時は紐でお腹を縛って空腹を我慢する。本を読む事によって空腹を忘れる。焼けた家の跡を耕して色んな物を植えて、まずはおイモね。そのおイモもね、金時とかそんな上等の物じゃないの。金時とかおいらんというような種類のおイモはなかなか収穫が悪いのでね、農林一号とか農林二号とかすぐと大きくなるおイモを植えて、ただまずいのね、甘みは少ないしビチャビチャだしね。だけどお腹の足しにはなるわけ。そういうおイモを植えて、後イモに続いてカボチャね。みんな疎開しちゃっていなくなってるから、畑は見渡す限り使い放題だった。イモ畑、カボチャ畑、きゅうり畑、ナス畑。父は田舎の人なので、農耕の経験があるからそういうのがうまくて、近所、隣の人を指導して畑を作ってました。カボチャなんか一杯獲れた。カボチャは翌年の三月くらいまで取っとけるので、天井まで沢山積んで、それが三畳の部屋に一杯あると、嗚呼頼もしいなあ、これで飢えなくてすむなあ。千葉の手賀沼まで行って釣りをした。なまずとか鯉とか、それから一番大きな雷魚ってのがいた。なるべく雷魚を釣りたいので餌を一生懸命工夫した。なけなしの闇でもって金時イモを買って、ふかしてつくと、とっても粘りが出て、農林一号では釣れないので、金時イモは人間が食べるためではなく、魚に食べさせるために買って、それに虫のさなぎの粉とか、そういう動物性の粉を混ぜてつき合わせてお団子にする。雷魚は大体50センチ。一人では引っ張り上げられない。父と二人で釣った。棒で頭を叩いて、脳震盪を起こさせる。鯉はよく脳震盪を起こしてくれてそのまま家に持って帰るまで寝ている。雷魚は撲殺しないと、電車で暴れると大変だから。我々は雷魚の料理が最も好きで、私はてんぷらに揚げたのが好きでした。余ったら又それを甘辛く煮付けたり、これはおいしいもので、戦中戦後最も愛した料理。

7月6日 岡村喬生さん(73 オペラ歌手)旭川に近い比布(ぴっぷ)村の農家に勤労動員。月に一遍、塩ガレイが配給された。おかみさんは食べなかった。子供が出来た。おっぱいが出ない。ミルクは無い。死んだ。乳房を叩いて「これが悪い、これが悪い」って言って、蜜柑箱に入れて野辺の送りをした。

当時医学生だった、作家、山田風太郎が長野県飯田で記した日記「この地方は午後十時以後は絶対消燈たり。一寸の灯も外に洩るるときは、戸外より叫び、叱り、はては電球をも持ち去る騒ぎなり。田舎にては敵機通過後通報出ずること多しときけばこれも無理はなし。その上わが借りたる部屋は中二階の七畳という奇怪なる部屋にして、電燈もなし。迂闊にも来るまでこのことに気づかざりき。されば夜は闇中無聊に苦しむ。」

7月7日 柳宗民(78 園芸研究家) 栃木県佐野の農事試験場でさつまいも増産の研究をしていた。味よりも収量が大事。栃木県に合う品種を栃木県の奨励品種として出していた。全国的に作られていたのに沖縄100号というのがあった。皮が赤っぽく中少し薄い黄色。非常に大きくなって多収穫。より多収穫のに茨城1号というのがあった。見た目は綺麗で、皮は真っ赤、切ると中はまっ白。水っぽくて全然おいしくない。アルコールの原料用として開発されたもの。沖縄100号は土地によっては結構おいしいものが獲れる時もあったが、茨城1号はどこで作ってもまずい。当時アレを食べた方はアレでさつまいも懲りちゃったという方が多い。

元陸軍大将 真崎甚三郎の日記「山崎十時ニ来訪、山崎ハ近時特攻隊ノ青年将校ヨリ血書ノ嘆願書ノ如キモノ瀕々ト呈出セラル、此ノ背后ニ何者カアラザルヤト、予曰ク、之に就テモ予ハ知ラズ、恐クハ背后ニハ何者モナカラン、第一線ニテハ現首脳者ヲ信用シアラズ、此ノ首脳者ニテハ戦勝困難ト考ヘアルヲ以テ動(やや)モスレバ特攻者ノ者ニテ特攻ガ内部ニ向ヒ行ハルル危険ハアラント。」

7月8日 東郷外相、近衛文麿元首相にソビエトへの特使を依頼。
横浜地検、ジャガイモを盗んだ男を撲殺した自警団員に起訴猶予の処分。
東京都、雑草の食べ方講習会を始める。

坂本長利さん(75 俳優)島根県の出雲駅で国鉄の保線員として働いていた。貨物置場に人間の形をした荷物が二つあった。それがかすかに動く。コーヒー袋みたいなのがかぶさっていて、下を見たら大きな鎖があって、それで繋がっていた。助役にアレはなんですかときいたら、米軍の捕虜だと言う。棒でつついてみたかった。爆撃で寸断された鉄道の復旧のために空襲直後の姫路に行った。焼け野が原で何にもなかったが、姫路城だけがちゃんと残っていた。壁の無い旅館に泊まった。その頃焼け跡に強盗が出没すると言う噂が流れていた。時々誰かがタカッタカッタカッタカッタカと走った。誰かが呼ぶ。それでも足音は消えない。一発銃声がする。したらパタッと前に倒れる音がした。

7月9日 鈴木首相と東郷外相、近衛元首相のソビエト派遣について会談。
外交顧問の有田八郎、至急終戦の意見書を天皇に提出。

7月13日 「讀賣報知新聞」よく噛み一日ニ食 空腹感消す青松葉

伊藤京子さん(78 声楽家)東京音楽学校の三年生だった。静岡県富士の印刷工場に勤労動員されていた。満州国とか朝鮮国とかの軍票、所謂紙幣、お札を検査する、印刷がちゃんとしてるかしてないかを検査する仕事を私達寄宿舎生はしていた。工場の寮にいたが、食事の量は少ない。お腹がすく。サツマイモ二本、ガリガリとした芋。冠水イモだ。すいとん、メリケン粉のおだんごが入ってるだけまだ良い。友達と4,5人で近所の農家に行って、カボチャなんかをわけてもらった。富士の麓は米軍の戦闘機の通り道だった。毎日のように空襲にみまわれた。毎日のように駿河湾からものすごい数の飛行機が来る。機銃掃射があった。必ずサイレンが鳴って、防空壕に入る。富士山の麓だからでしょうか、水が沸いてくるんでしょうか、膝上ぐらいまで水につかる。郷里に帰った方も多かった。みんなが帰るから寄宿舎は寂しかった、食べ物は無いし。静岡県の掛川が郷里なのだが、父に手紙でみんなが帰るから私もうちへ帰りたいと書いた。父から葉書が来まして、非常に簡単な文面で、「おまえが希望して入った学校だ。そこで死ねば本望じゃないか。帰ってくるな。父」と書いてあった。

7月14日 仏文学者 渡辺一夫の日記 「全国民は固き決意と共に、百年でも二百年でも戦争をする覚悟だ、とラジオが絶叫している。結構なことだ!我国が栄え、世界の進歩に貢献すればよいと僕は願っていた。だがこの願いは否認され、嘲笑され、圧殺された。学校もいづれ辞職せねばなるまい。埃にまみれ、荒れはてた書庫に茫然と坐す。この書物もいずれ灰となる。何ものかを築かんとして購ったこれらの書物はすべて、無に等しい。」

7月15日 漫談家、徳川夢声の日記「農耕隊の兵士というものに始めて接する。朝鮮から遙々と連れて来られて、この信州の山奥で開墾をやらされ、甘藷つくりをやらされている、彼等の気もちが私には分る気がする。給与でも好ければだが、酷いものだそうだ。中には脱走して、山深く隠れて出て来ないのがあるという、-一年も立て籠っていれば、日本はペシャンコになり、朝鮮は独立し、自分は自由の身となるであろう、などと考えるらしい。」

7月17日 赤瀬川隼(73 作家)大分の中学2年生。昭和20年のこの日未明、大分の街はB29およそ130機に襲われた。昔のお城の中に、天守閣は無かったんですが、県庁の建物があって、それが燃えてると友達が知らせに来た。すぐ近くだったので、友達を見に行った。城壁が真っ赤に燃えている。時代物の映画で見る落城だった。めらめら真ん中から炎が上がって、火勢が強いから風が起きる。恐ろしかった。しばらく見て戻ってみたら親父から怒られた。翌朝、生垣の所に不発弾が一発落ちてた。焼夷弾だった。小振りのマグロみたいな感じ。暗緑色の、落ちて半分地下にめり込んでいる。七校の学生が動員されていて、すぐ近くの航空廠に働きに来てて、休暇か休み時間かなんかでうちに遊びに来た。焼夷弾を見て、これ、何とかしようと言って、サッサッサと頭から信管を抜いちゃって、油脂を取り出して、お風呂沸かしましょうと言って。今のように石油があるわけじゃなし、どっかから枯れ木とか薪とか集めてきて、それで火をつけて、それがもつ間だけしかお湯は沸かないけど、それすらもう無いから、あんまりお風呂に入った記憶って無いんだけど、焼夷弾でたちまち沸いた。8人家族だったが、みんなが入ってもバンバン火がついてた。

7月19日 早乙女勝元さん(73 作家)東京向島の国民学校2年生だった。この頃B29は東京の上空で大量の宣伝ビラを撒いていた。そのビラを拾うと指が腐って落ちる毒物がついているという宣伝はかなり流布されていた。最初のうちは怖々落ちているビラを覗いてみていたが、毒がついてないみたいなので拾ってみた。大本営発表以外の状況が分るような気がして、ビラが落ちてればただちに拾って家に持ち帰る。学童勤労報国隊として鉄工所に動員され手榴弾を作っていた。働いている日本人の労務者はとにかくだらけてました。毎日のようにエロ話とエロ唄と、それから闇の鉄製品を作る。砂場の端っこの方にお釜の型を作ったり、ナイフの型を作ったり、くぎ抜きなんかも出来る。そういう型を作っちゃあ、流し込んで、そういうのを鞄に隠し持っちゃあ、工場を出て闇で売る。肝心要の生産品よりも闇で売る方が大っぴらです。

作家、高見順の日記「戦災で保険金をたんまり貰った連中が、金を持っていても、しようがない、飲んでしまえと、事実、口に出してそう言って、毎日、なんにもしないで国民酒場へやってくる。国民酒場を次から次へと、飲み漁っている。顔触れは、決まっている。そういう「顔」が、おとなしく行列を作って待っている人々の前に、いざとなると割り込んで来る。そこで、喧嘩がはじまる。与太者のようなのも出現してきた。「戦う国民という気がしません」と橋本君は嘆いた。

7月22日 戸川昌子(74 作家・歌手)5月25日の空襲で東京青山の家を焼け出され、母と二人、東京の銀行頭取の屋敷で住み込み家政婦をしていた。その当時、良いおうちの奥様方ってのはみんな疎開なさっていて、女手が少ないから家政婦さんが欲しいという事はあったんですね。非常にケチだった。ご飯を炊くと、うちの母がお釜に少し残っているのを手で取ってちっちゃなおにぎりを私のためにとってくれた。おかずは何も無い。住み込みなので配給は無い。そこのおうちも配給を受けていない。私達に回ってくるものは何も無かった。坊ちゃん二人と頭取さん、その方達がうちの母が一生懸命作った食事を、とても楽しげに家族団らん風に召し上がっている。朝晩そうっと見ると、トーストから目玉焼きから、新鮮なお野菜はあるし、ソーセージみたいなのもあるし、満足って顔で召し上がってらっしゃいました。大きな普通のふすまに鍵が三つ位かかっていて、うちの母に見ちゃだめと言われていたが、見たら、砂糖からハチミツから無い物は無い、お膳に並んでたのより、もっとすごい、バターから何からかにから、現在をしのぐ位の物がホントに入ってたの。屋敷の庭では野菜を作っていた。昼になるとそれをじーっと見て、おいしいだろうなあとうちの母親に言った。夜中になってそーっと行って、母は目立たない盗みをした。トマトとかきゅうりとか。私に食べさせてくれた。


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コメント

長野とかおいしいものが獲れる時もあったが
papiたちが、栃木で前方など思ったら
papiたちが、ものものしく高田馬場など焼け出された
田舎とかを総合するみたい…


投稿: BlogPetのpapi | 2005.08.09 10:52

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