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あの日 昭和20年の記憶 6月編

「あの日 昭和20年の記憶 6月編」

6月1日 米原子力政策諮問機関が全会一致で日本への原爆投下を大統領に勧告。

城戸崎愛さん(料理研究家 79)東京麹町の工場に勤労動員。防空頭巾に明るい色の余り糸で刺繍をしていた。小花に葉っぱとか、ピンクにちょっと空色の葉っぱとか。木綿のズックに白墨を水に塗らして塗りつけると白くなった。もんぺは洋裁の裁ち方でスラックスのようにした。木綿の切れでショルダーバックを作った。配給の乾パンと大豆を炒ってしょうゆで香ばしく味をつけて、それを必ず入れていた。朝出かける時は「いってきます」ではなく「行きます」だった。帰ってこれないかもしれないから。なけなしの少しのお砂糖を乾パンにからませて皆にちょっとあげた。帰ってこれないかもしれないから、2,3日分の物を重ね着していた。

6月3日 広田弘毅元首相、駐日ソビエト大使に和平交渉仲介を打診するが黙殺される。

三遊亭圓歌さん(落語家 76)東京上野の岩倉鉄道学校2年生だった。勤労動員で国鉄新大久保駅で駅員として働いていた。「配給電車ってのがあってね。夜中に一台だけコニマツ電車(?)がまわって来るんです。この駅へ止まるとこん中に今で言うと牛乳の缶缶みたいなのがあるでしょ、あのでかい奴、北海道なんかによくある。アレの中にお味噌汁が入っててね、これをその、駅員用に配達してくるんです。これなんか楽しみでしたね。加配米ってんでね、加える配る米ってん。これも駅員だという事で貰ってた時代。やっぱあの時分から、やっぱ親方日の丸だったのかな。でも我々には夜一生懸命働いてるから、お腹空いてっから助かったですよ。」「新大久保の駅なんてのは6月に焼けちゃったんですからね。夜、ピューって警戒警報が鳴って、おっこったの見た事無いですよね、若い人は。綺麗なんだよ、焼夷弾ってのが、バッーと東京中明るくするん。そこへ狙ってバッーと爆弾がおっこってくる。慌ててね、新大久保の駅はねえ、なんたって終戦直後ちょっと前にねえ、防空壕掘った間抜けな駅なんですよ。駅長が命令でね、「中島、防空壕掘れ」てん。こっちは他に仕事ねえから、防空壕堀りだけで、毎日あそこへ穴掘ってね。駅員の防空壕ってのは無いんですよ、お客の防空壕と、後駅長が一人入れるようね防空壕
と二つしかないんですけど。そこへねえ、「空襲警報発令」なんていうと、一番先に俺飛び込んじゃう。なんたっておっかねえもん。後駅が焼けるってえと、みんなバケツ持ってね、バケツリレーなんて、水運んだって、間抜けなもんで、届きゃしないよ。もっとわけのわからねえのは火ばたきってのを持っててね、火こうやって消すんです。消えねえで、火ばたきに火が移っちゃうんだから。他所をやって、他所が燃えちゃったりなんかする。「空襲警報発令」って、私が一番先に逃げ込んじゃう。みんな、他の先輩達は駅の仕事してなきゃいけない、残ってなかなか入ってこない。ざまみやがれって思ってね。その代わり、出てくるたんびに、駅長に怒られてたけどね。ある時ね、ビューンとものすごく…。まず焼夷弾がおっこってね、それから爆弾がおっこってくる。なんだかその時はね、あたしも入ってたんだけどね、後からね徐々に徐々にみんなどんどんどんどん来るんですよ。これがねえ、駅のお客だけじゃないんですね。近所通りかかってるお客まで入ってくる。だからすし詰めになって、こんなんなって。その内にぱかぱかぱかぱかって来たんでね、他の駅員もね、こんな事しちゃいられねえってんで、慌ててみんな入ろうと思った所へ、駅に空襲の爆弾がドワッーておっこってくる。みんなねえ、傷だらけになっちゃって。傷だらけってのかなあ、火傷ってのねえ。だから俺みてえに早く逃げてりゃ良かったんだよ。あれでずいぶん怪我した人もいるしね」向島に家があった。駅の仕事終わって家に帰ったら、家が焼けてた。みんな立て看板(?)でなんとかのうちはここにおりますと書いてある。圓歌さんはお婆さんと二人きりで住んでいた。お婆さんは秋田県の方にいると書いてあった。

高見順(作家)の日記「聞いた話から。東京でははだしが多くなった。女でもはだしで歩いている。盗難頻々。憂うべき道義心の退廃。ある目抜き通りで、焼け残った電柱に、中年の男がしばられていて、上に貼紙がしてある。貼紙には、-この男は焼跡で盗みを働いた者である、みせしめのためにこうしておくという意味のことが書いてあったという。

6月5日 米英仏ソ、四ヶ国がベルリン協定調印。ドイツの分割占領決める。ソビエトは占領地の工業施設の多くを賠償として持ち去る。

6月8日 正司歌江さん(75 女優)市電の電車のレールの上におばあさんがこうもり傘を持って座っていた。そこで私は傍に行って、「お婆ちゃん、夕べの空襲、怖かったねえ」と肩を触ったらそのままコトンとひっくり返った。死んでいた。漫才やりに神戸の方へ行った。いきなり空襲警報。グラマンが電車を狙っているので皆さん、降りてください。駅で止まって、みんなザッーと走って下りて、地下へ逃げてゆかれました。私と照江さんと椅子に座っていて、私の向いにもお爺ちゃんとお婆ちゃんが座っていました。私と照江は椅子の下にもぐった。私は照江さんの上にかぶさって、ギターのケースと三味線のケースで椅子の所をふたをした。前に座っていたお婆ちゃんとお爺ちゃんが逃げない、逃げられない、遅かったのね、すでにグラマンがそこまで来てる。電車の窓をダダダダダダダダと機銃掃射。椅子の下から「お爺ちゃん、お婆ちゃん、下へもぐりなさい、椅子の下へもぐりなさい」と思わず叫んでるんですけど、窓から首を出して見ている。目の前で撃たれた。

6月9日 岡田眞澄さん(69 俳優)台湾の台北にいた。交差点の渡る所にアメリカとイギリスの旗が描いていて、そこを踏みつけて歩く。その場所は遠回りだったが、わざと遠回りして踏んでいった。空襲の時とかに負傷した人を助け出す訓練を街中で急にやる事があった。負傷者役の人は赤いリボンを結ばれ、担架で運ばれるのだが、どこに連れてかれるかわからないので怖かった。日本人の父とデンマーク人の母との間に生まれた岡田さんはその顔立ちゆえ街で後ろ指を指される事があった。スパイの子供だと言われた。憲兵隊が母親に外出禁止を命じた。母の兄弟がアメリカに渡って航空隊にいるという手紙が来ていた。この戦争っていうのはいけないから止めさせなきゃと母は、天皇陛下とルーズベルトが会って話せばわかるはずだからと、早朝から日の出る方へ真っ白いのを着て膝まづいて祈っていた。


6月11日 山藤章二さん(68 イラストレーター)三重県伊勢に縁故疎開していた。この頃東京から母親が迎えに来た。焼け野原になった東京にもう空襲は無いだろうとの判断からだった。順調に行けば当時でも半日で帰れたんでしょうが、一週間近くかかって東京にたどり着いた。6月10日、東海地区の鉄道が破壊されたからだ。ただひたすら歩いた。駅舎の中の木のベンチでまどろむ、焼け残った公衆電話のボックスの中で休む、お寺さんの本堂の縁先をお借りして休む。静岡で漁師のご夫婦が一泊して何も無いけど食事でもして一日ゆっくりしなさいと言われた。ここは海から艦砲射撃がある可能性もあるけども、それを覚悟の上でうちによってみませんかと。三日も四日も歩いているから疲れ果てていた。足を引きずっていた。傾きかけたような家。足洗って、お風呂入って、頂いたご飯が白い飯と干物だった。生涯最高の飯。布団の上の大の字。夢のような一瞬。目黒の自宅。一年ぶりの東京は焼け野原だった。富士山だけは相変わらず昔のまま。
バラックとはいえ又町内が形成されてる。水道管は鉛管なので燃えない。水道管を頼りに隣組が形成されていた。

近衛文麿元首相側近 細川護貞の日記「大阪の陸軍の司令官は、「此の際食糧が全国的に不足し、且つ本土は戦場となる由、老幼者及び病弱者は皆殺す必要あり、是等と日本とが心中することは出来ぬ」との暴論を為し居たりと。空襲後の輿論調査は、挙げて軍への不信と怨嗟の声なるも、是亦彼等自らが作りたる結果なり。」


6月18日 沖縄で負傷兵介護のため従軍していた「ひめゆり学徒隊」に解散命令。米軍の猛攻の中、この日だけで47人が死亡。

6月23日 沖縄守備軍司令官牛島中将、摩文仁(まぶに)で自決。日本軍の組織的戦闘終わる。沖縄戦における日本側の死者は18万8千人。その内沖縄県民の死者は12万2千人に及んだ。

船越義彰さん(80 作家)沖縄本島にある米軍の野戦病院にいた。四日前に怪我をして捕らえられたばかりだった。それまでは海岸の洞窟に隠れていた。アメリカの艦艇が来まして「泳いで来い。この軍艦に泳いで来い。降伏した者、殺しません。泳いできなさい。日本の戦争、終わります。あんた方は良く戦ったけども、もうダメだから、降伏しなさい。故郷では親兄弟待ってますよ」と放送が来る。目の前、30メーターぐらいだから泳いでいける。でも行かない。「これから何分間、艦砲射撃止めますから、その間に来てください。泳いできなさい。泳いでこないと、又もう一遍、艦砲射撃しますから」目の前に兵隊が煙草吸うのが見えるくらい。日本軍の捕虜になった人が「私は元日本兵の誰々です。アメリカは絶対殺しません。怪我した人には病院もあります」みんな行くな行くなと言ったが、泳いで行くのがおったんです。上の方の機銃陣地からバンバン撃った、降伏していく人に。アメリカ兵がボートを下ろして助けた。米軍の艦砲射撃で負傷。右足が棒で打たれたようなしびれ方。手を入れてみたら指が3本ぐらい入る、肉がえぐられて。足は動いたが、しばらくすると足動かない、体動かない、眠くなる。「あれ、俺今死ぬのかな。眠くなるのは死ぬのかな。これが死か。なんで俺こんな落ち着いているのか」しばらくして、熱くて、目を開けたら太陽がカンカン照る下に出てる。アメリカ兵が出したんでしょう。銃を突きつけている。ヘルメットから赤い髪が見え、胸毛も見え、キラキラ光る認識票も見えた。「アイ アム ノット ジャパニーズ ソルジャー」と私が言ったら、唖然とした。口笛で他の人を呼んで、治療してくれた。

6月27日 沖縄久米島の日本軍守備隊が住民をスパイ容疑で虐殺

6月30日 秋田県花岡鉱山、強制労働させられていた中国人労働者が蜂起、収容所を脱走、憲兵、警防団と数日間戦うが、鎮圧さる。中国人の死者、418人。


 


 


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