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あの日 昭和20年の記憶 5月編

「あの日 昭和20年の記憶」5月編

5月2日 ソビエト軍がベルリンを完全占領。ビルマ戦線、英軍がラングーンを占領。米軍、那覇、首里に向け猛攻。

5月5日 アメリカ、オレゴン州で日本から飛来した風船爆弾によって6人が死亡。

5月8日 黒木和雄さん(映画監督 74)中学3年。学徒動員で宮崎都城の川崎航空という飛行工場に配属され、リベット打ちの練習をしていた。警戒警報が鳴った。その当時は南九州には大空襲が無く、のんびりと一応防空壕に歩いて行った。雲が低く垂れ込めていて、突然空から黒い物が二つ三つ舞い降りてきて、カラスじゃないかと瞬間思ったんですが、軍事教練で危ない時は伏せるという事が身についていたので伏せた。轟音と爆風。砂煙であたり一面が真っ暗になった。アメリカの飛行機に襲撃されたとわかった。阿鼻叫喚になった。煙が薄れていくにつれて、土砂に埋もれて、土砂のせいで体が痛いとわかった。助かったと立上がったら、すぐ側を歩いていた友人の一人が尻餅をついていて、頭がすいか割りのように割れて、脳漿が噴出す瞬間を見たような気がするんです。恐怖とショックで「助けてくれ、お母さん」という声が方々から聞こえてきて、夢中で逃げ、近くの防空壕で他の助かった工員達とふるえていた。全部で百人ぐらいいたが、この日11人の同級生が命を落とした。14,5人で歩いていて、僕らの固まりの所に一発ぐらい落ちた。4,5人が即死だった。病院を訪ねたが、即死状態の人と軽症の人にわかれていた。校葬があったのだが、興奮して40キロぐらいの所を汽車ではなく歩いて行った。中にはその時かけよって介抱したり、かついで病院まで運んだ人達がいた。私自身はまったく助けようとせず逃げたという事を大変恥ずかしく、情けなく、私の中でこの事がショックになりまして、今日まで時々やっぱり思い出し、自分が情けないという事が。
永井荷風の日記
くもりて風猶冷なり。近日見聞録。川崎の町にて家を焼かれし人民、焼け跡に小屋を立て、雨露をしのがんとせしに、巡査憲兵来り、これを取り払はむとせしかば忽衝突し、四方より罹災の人々集り来り、憲兵数名に傷を負はせしと云。深川辺にもこれに似たる事件度々ありし由。

5月11日 馬場 當 さん(シナリオライター 78)海軍三沢基地の整備兵をしていた。大型雷爆撃機連山のエンジンの油圧系統の整備をしていた。昭和20年の三月末に横須賀の基地から三沢の基地に移る事になった。二日がかりだった。上野に着いたら戦災孤児が千人もいるかと思うほどホームにうようよいて、僕達の列車が着いたら「兵隊さん、何かくれくれ」と窓から5,60本手が入ってくる。横須賀を出る時18リットル入りの缶の中にご飯を一杯詰めて来ていた。初めは握り飯を作って渡していたんだがとってもそんな事では間に合わない。子供達は目が血走っている感じで、手を突っ込んでくる。石油缶ごとホームに放った。何百人、何千人という感じの子供達がワッーと缶に寄って来る。見ていて迫力があると言うのか、すごかった。見かねた馬場さん達は次々とご飯の入ったいっと缶をホームに放り投げていった。列車が出て、乗っていた馬場さん達はどっかで良い事をしたような気持ちになっていた。だけど赤羽あたりまで来たら俺達の食う物は一体どうするんだと言う話になった。しっかりした奴がいて座席の下の石油缶をかかとでゴンゴンゴンと蹴った。二缶ばかり残しておいたよと言うのだ。みんなホッとしながらしらけた。

5月12日 笑福亭松之助さん(落語家 79)神戸で母親と二人暮しをしていた。軍需工場で潜水艦の電気系統の図面を写す仕事をしていた。家の屋根に焼夷弾が突き刺さった。母親を先に逃がした。それから言われたように天井を突き上げて消そうとしたが、何発も落ちてくるのでこれは危ないと思った。湊川神社に逃げようと思ったが、電車通りではこぶし大の火の粉がグォッーと音を立てて流れている。向に渡る事が出来ない。風上に逃げないとと思ったが風上も立って行ける事が出来なかった。パタッと地べたに伏せて這うように風上に行こうとし見つけてふと手に触ったのはコンクリートで出来た人が二人ぐらい入れるような防火水槽。この中に水がある、ここにいれば助かると飛び込んだ。先に一人入っていた人がいてふとんをかぶっていた。その布団を奪うようにして自分の方にかぶった。段々段々熱気がひどくなると向こうが布団を引いてくる、こっちもまた引っ張ると言うふうに引っ張り合っていた。中に入れない人は寝転んだままで水をくれー、水をくれー、水くれーと悲愴な叫び声をあげていた。水槽に手を伸ばして水を取ろうとする。その時人間と言うのはえげつないなあ、あさましいなあと思ったのは、水が減ると自分が危ないと思うと水を取ろうとする手をパーンとはらってしまった。後で考えてもぞっとしました。横にアパートがあって燃えていたが、これが我々の方に倒れてくると覚悟をしないといかんぞと言う人がいたが、アパートの二階の棟はそのまま垂直にパタとおちた。そうしたらおそらく覚悟をしないといけないと言った人だと思うが「安心せーい!助かったぞー!!」と言うてくれて「ああ、良かった」と思った。布団をめくって防火水槽の所にふっと立ち上がった。時間も経ってたので夜が白々と明けていた。ふっと入っていた人の顔を見たら私の母親ですねん。

5月13日 大西洋でドイツ潜水艦が米海軍に投降。同乗していた日本の海軍士官の二人が自決。
川田正子さん(童謡歌手 70)昭和18年、関東児童唱歌コンクールで二位になったのをきっかけにNHKの専属歌手となる。連日のようにラジオ番組に出演。この日もNHKのスタジオで小国民歌と言われる歌を歌っていた。

「勝ち抜く僕等少国民」作詞:上村数馬
勝抜く僕等少国民 天皇陛下の御ために 死ねと教えた父母の 赤い血潮を受け継いで 心に決死の白襷 かけて勇んで突撃だ

こうした歌は児童向けの歌番組の他、戦地にいる兵士に向けた番組「前線へ送る夕べ」で度々歌われた。

「欲しがりません勝つまでは」作詞:山上武夫
どんな短い鉛筆も どんな小さい紙切れも 無駄にしないで使います そうです(?)僕達私達 欲しがりません勝つまでは

5月14日 B29、四百機あまりが名古屋を空襲。名古屋城、消失。
最高戦争指導会議、終戦工作にソビエトの仲介を求める事に決定。

5月15日 加賀乙彦さん(作家 76)名古屋の陸軍幼年学校にいた。学校から名古屋の大空襲が見えた。他の市街は翌日になると真っ黒焦げになっていたが、お城だけまだ燃えていた。三日目になってもまだ燃えていた。陸軍幼年学校は全寮制。起床ラッパで起きてから一時間後に朝食。その間に武器の手入れ、靴の手入れ、整理整頓、かけて丘の上に行って軍人勅諭を奉読する。その前に宮城遥拝、伊勢の皇大神宮を遥拝、父母のいる方角に頭を下げる。それから帽子をかぶって勅諭を読む。読み終わったらダッーとかけて下りないと朝食に間に合わない。時々勅諭を読むのをさぼった。夕食終わってから軍歌演習を校庭でやった。校庭をぐるぐる回りながらやる。軍歌を一番、二番、三番と覚えていなければならない。歩兵の歌の時は必ず駆け足になる。日曜日は外出も自由だった。陸軍では私的制裁と言って殴ったり蹴ったり、少年兵いじめがあったが、そういう事は幼年学校ではなかった。陸軍幼年学校を出ていると早ければ19歳ぐらいで少尉になる。軍人になったとたんに激戦地に行って死ぬことになる。先輩で次々に戦死者が出ていた。

5月17日 墜落した米軍機の飛行兵を九州帝国大学医学部で生体解剖
九州医大・捕虜生体解剖事件

上坂冬子さん(ノンフィクション作家 74)この日、内務省の役人だった父親が突然倒れた。父の仕事は日本中の敵性外国人を軽井沢に集めて彼らがスパイ活動家なんかして本国に電報を打たないように取り締まる仕事だった。緊張状態が続いて、ほとんど家にいなかった。
木曽福島の旅館で会議をやっていた。くも膜下出血だった。お医者がいなかった。村長さんがよくこのような病気を手がけていて、このまんまじっとして昼も夜もまっ暗くしてほっておけと言われた。後で日本で三本の指に入ると言われている脳のお医者さんが適切な処置だったと言われた。薬は柿のしぶだった。今スキー場で有名な薮原の駐在所で生活したが食べ物が無かった。旅館では豆だらけ大根だらけの食事を出してくれたが、それでもご飯がちょっと入っているだけで良かった。薮原では家から持ってきたものだけで、どこで買えば良いかわからないし、近所に知り合いもいないし、たまーに父の部下の方が一升分のお米を持ってきてくれた。今でも野原に行くとこれは食べられる、これは食べられないとわかるのは薮原での生活のおかげだ。アカザはおいしい。タンポポなんかも浮かべておしょうゆまがいのものを入れて、すいとんを食べた。

5月18日 熊倉一雄さん(俳優 78)東京目黒の旧制都立高校の一年生。家族が疎開したため大森の親類の家に下宿していた。伯父叔母が不在で良い天気だった。警戒警報が鳴って、ホントににわかにあたりが暗くなってザザザザザザザッーと音がして雨かと思ったら焼夷弾だった。前の家の塀が燃えていたので防火用水から水を汲んできてかけていたら、背中をお婆さんがちょんちょんと叩いて「あのー、うち、燃えてるけど」「えっ」「うち、燃えてる」と二階を指して言う。「じょ、冗談じゃないよ」と二階に行ったら火の海。いろんな人が来てバケツリレーをしてくれた。しかしどうにもならなかった。後から見たら8発、落ちていた。天井はもちろん燃えてっちゃって、梁が燃えて落っこってくるという状態になって、これはもうダメだなあと思っていたら、誰も水を持ってきてくれなくなっちゃって、これはどうしたんだろうと見たらあっちこっちいろんな物が無くなっている。階段を下りたら、その辺にあったバケツも金ダライも、台所用品で役に立ちそうな物はみんな無くなっている。お爺さんとお婆さんを連れて逃げ出したが、途中にいる燃えていない家の人達に「非国民!なんで消さないんだ!」と言われた。

5月22日 森村誠一さん(小説家 72)夢もうつつも食べ物の事ばかり、価値観の第一位が食べ物だった。埼玉県熊谷の商業学校1年生。勤労先の農家で出される昼飯が何より待ち遠しかった。当時は新聞がゴミの食べ方とかムシの食べ方とかを解説する時代だった。各農家全てが銀しゃりを出してくれるのだが、おかずが違かった。良い農家だと魚なんかがつくが、一般的にはおしんことつくだにが付く程度。勤労奉仕の後情報交換した。他のが魚だ出たと聞くと、悔しいから見栄を張って塩ジャケが出たとか、つくだにが牛肉のつくだにだとか嘘を言った。嘘がどんどんどんどんエスカレートしてキャラメルが出たとかお菓子が出たとかになった。そのうちホントに出た気になった。しかし豊かな食事を出したはずの農家に行くとそんな食事は出ない。食べ物を手に入れることがあらゆる事に優先した。物を食うという事は拾う事だった。イモのきれっぱしとかを。そこらの家でイモを干しているとそのイモを盗む。干し柿を盗む。瓜とかキュウリとかトマトとかそこらの畑から盗みまくった。一欠けらの良心のかけらも無かった。収穫の多い時は家族も喜んだ。親や兄弟は喜んで食べた。けしてどこで盗んだなんて聞かない。目につけば本能的に盗んだ。そこに食物があって番人がいなければ必ず盗む。一種のパブロフの犬。まれにお腹が一杯の時もあったが、そういう時でも絶対に逃がさない。今腹は一杯だが、次飢えた時、次はいつ食えるか分からないといういつも危機意識に支配されていた。グループでいようと一人でいようと関係なかった。

大仏次郎の日記「スパイの一例。これはデマかも知らぬが、土浦の工場を、女がいつも口をあけて歩いていて、門内にも入る。これが調べたら女装の二世だったという。とにかく敵は工場の疎開先など、短時日に嗅ぎ出し確実に爆撃する。伊那の山中に横穴を掘ったのを、穴に向けて機銃掃射までしたぐらいで、知っていること驚くばかりだという。

5月25日 宗左近さん(詩人 86)東京大学哲学科の学生。前日の空襲で家を焼かれ信濃町の寺に身を寄せていた。この日は疎開先の福島から上京していた母親を見送りに上野駅に向かう所だった。午後8時半過ぎにたどり着こうと一時間の余裕を持って行った。空襲警報が鳴って寺に戻った。墓地に逃げた。卒塔婆から燃えた。半ば炎の海になったので、青山の方に向かって崖下に行った。そうしたら向こうからやって来た消防団の方達がこちらもダメですと言ってきた。墓地に帰った。大きな桐の木らしいのの下で高校生ぐらいの女の子達4,5人と大人の男の人、女の人一人ずつがいて、女の子達は抱き合って泣いていた。「お父さん、お母さん、助けて。どうかして」と金切り声を上げていた。宗さんはこの火の海の中で母親を亡くした。寺が焼け落ちるまで待って、火がやや衰えてからその上を走った。2時か3時だと思う。母親と手が離れた。母親は走る事が出来なくて、火の海の中に突っ伏したまま。僕は100メートルばかし走りぬけて後ろを見ましたら、母親が手で押すんですね、「おまえは行きなさい」と。押されるような勢いで走りぬいて、少し黒い所がある所の道の上に倒れて、1時間かそこら倒れたままで。
内田百閒の日記「町内や近所だけではなく、どちらを見ても大変な火の手である。昨夜気分進まず飲み残した一合の酒を、一升瓶の儘持ち廻った。これ丈はいくら手がふさがっていても、捨てて行くわけに行かない。朝明るくなってから小さなコップに、一ぱい半飲んでお仕舞になった。昨夜は余りうまくなかったが、残りの一合はこんなにうまい酒は無いと思った。家の焼けたのを確認したのは、夜が明けてからである。

5月27日 関根潤三さん(野球解説者 78)この日は二日前の空襲で焼けた東京原宿の兄夫婦の家に行った。空襲の日は浦和にいた。電車は上野でストップ。有楽町がやられていた。上野から歩いた。あちこちに死んでる方がずいぶんおられたが、何も感じなかった。6,70の小柄なお婆さんが明治神宮の方に頭を下げている。着物も何もきちんとしている。死んでいる。おそらく窒息で。「やりやがったな。今にみてろ」と思った。兄はニワトリを一羽だけ飼っていた。焼夷弾が五個落ちたそうだが、全部消したそうだ。他から移って、燃えた。ニワトリ一羽だけ持って逃げた。朝、ニワトリが「コケコッコー」と鳴いた。近所の人みんな喜んだ。普通の時はうるさいのだが、ああいう時は感激した。

5月28日 大田昌秀さん(参議院議員 79)学徒で組織された鉄血勤皇隊の一員だった。首里から撤退する沖縄守備軍司令部の先発隊として土砂降りの中を島の南端「摩文仁(まぶに)」に向かった。私が所属していた千早隊は守備軍司令部の受け入れ態勢を整えながら、情報宣伝をやれと言われた。梅雨時で毎日土砂降りの雨だった。下痢をしていた。途中の川で一歩も歩けなくなった。膝をついた状態になった。隊員達は早く動かないと危ないぞという事で先に行き、私一人残った。私は情報部だったので、箱型の発電機みたいなのを背負って、機密文書だから絶対に失くしてはいけないと命じられていた。指揮官の岡(?)軍曹という人がいて、戻ってきて、「きさま、歩けないなら、俺が叩き切ってやる」と日本刀を取り出し、何度も振った。歩こうとしても歩けなくって、切られるなら切られても良いと座り込んだ。学友が戻ってきて、一人が銃を取って、一人が箱を代わって持ってくれた。仕方が無いので這うような格好で付いて行った。日頃は文学青年と、当時は文学書を読むだけで不良青年と言われ、馬鹿にされ、落第させられたりしたのだが、その落第生みたいなのが、逆に傷ついた友達を親身になって世話をする、日頃勇ましい事を言っていた軍事教練で成績の良い人達が逆に精神的な異常をきたすとか、そういうのを見せられて、人間というのは極限状況に追い込まれないと本性はわからないものだなとつくづく考えざるおえないような事がありました。四日かけて摩文仁にたどり着いた。箱をあけて唖然とした。隊長の私物、げたまで入っていた。
大佛次郎の日記「牧の郷の石川氏の長女、三島駅にて、特攻隊の少年にて厚木へ帰るのが、泊まるところがないというのを、気の毒がり連れて帰る。無邪気なので家中で歓待する。隊へ行けば長靴や服が買えるというので、辻老人三百円石川氏も八百円渡し依頼す。これが大贋物にて靴から、箪笥の中にありし衣類まで鞄に入れ、悠々と送られて退去す。厚木へ面会に行きしに、盗みし靴を既に買いおる人間ありしと。

5月29日 杉下茂さん(野球解説者 79)陸軍二等兵として中国、上海にいた。杉下茂さんは知らなかったが、この日の新聞の特攻隊名簿に兄、杉下安佑の名前が掲載されていた。この発表があって初めて分かったのだと思う。爆弾そのものを操縦していくというのが神雷だった。人間爆弾みたいなもの。ロケット推進。5分かそこらしか飛ばない。親飛行機から放されたら5分かそこらで燃料が切れる。3月21日米艦隊を目指して出撃。九州沖で全機撃墜された。前年この部隊への配属が決まっていた兄は度々家に戻ってきたが、任務について口にする事は無かった。長崎の大村で戦闘機の教官をやっていた。教官を辞めて、茨城県の晃の域に来てると外出で来る。来てながらB29が東京の上空を飛んでいる。戦闘機乗りがなんで帰らないんだ、なんであれを邀撃(ようげき)しないんだと問うと、任務が違うんだから良いんだと言う。何も言わなかったが、死ぬなよとだけは言われた。

5月31日 岩城宏之さん(指揮者 72)5月25日の東京3度目の大空襲で小石川植物園の近所にあった僕の家は焼けた。植物園の中はさすがに焼けてなくて、中の事務所で近所中の人が難民やって、植物園の池の鯉をとって丸焼きにした。この春、東京の私立中学に入学したばかりだった。一度も授業は無かった。授業を始めようとすると警戒警報が鳴った。僕は体が非常に弱く、集団生活は無理だと残留児童になって、ある日突然全校の生徒がいなくなって、一年から六年までで全部で15人で、とても寂しかった。焼夷弾の不発弾を見つけては、誰かが信管を抜いて、どろどろの油脂が出てくると火をつけた。何時間でも燃えた。学校で空襲にあった時の心得を教えられていた。親指を耳の穴に入れて、鼓膜を守るため。四本の指で目を押さえる。目が飛び出すのを防ぐため。口を大きく開ける。爆風で胸が圧迫された時に空気が吐けるように。5月25日、警戒警報の後、すぐに空襲警報が鳴って、向いの鉄筋コンクリートの幼稚園の地下室に入ろうと道を渡ろうとしたら、ザーと振ってきて、僕は道の端で教えられた通りの格好をしていたら僕の周り1メートルに3個落ちてきて、ものすごい衝撃と音で、なぜか僕の体に1滴の油脂もかかってなくて、あわてて出てきた父と母と一緒に座布団で消しながら火の無い方に逃げて、気が付いたら2,3キロ離れた巣鴨の広大な焼け跡に着いた。

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コメント

たいへんよくおまとめになっていますので、「戦争を語り継ごうML」というメーリングリストでご紹介させていただきました。今後もよろしくお願いいたします。

このメーリングリストについては、下記URLをご参照ください。よろしければご参加いただければ幸いです。

http://www.rose.sannet.ne.jp/nishiha/senso/mlsanka.htm

投稿: 西羽 潔 | 2005.06.11 09:42

西羽 潔 様

読んでいただいて有難うございます。
このブログは私のメモ帳代わりになっていますが、「あの日 昭和20年の記憶」に関しては特にその傾向が強く、ろくに文を吟味せず、かなりいい加減です。
お恥ずかしい限りです。

しかしこの番組はかなり良質だと思います。
知らない事が沢山語られ、勉強になります。

西羽様の試みも素晴らしいものと思います。

投稿: tyantyan | 2005.06.11 21:13

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