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あの日 昭和20年の記憶 4月編

「あの日 昭和20年の記憶」4月編

4月1日 連合国から航海の安全を保障されていた救恤(きゅうじゅつ)品輸送船阿波丸、台湾海峡で米国の潜水艦に撃沈される。

4月2日 登川誠仁さん(琉球民謡歌手 72)アメリカ軍が上陸してきて亀甲墓の前に防空壕があってそこに逃げた。近くに竹槍があって、それでアメリカ人はかき回しながら、日本語と英語が書かれた辞典みたいなオレンジの手帳を見、「出て来い、殺さないから、出て来い」と言った。シナ事変を体験した人達がいて、殺さないよと言って初めに出て行って、皆出て行った。良いアメリカ人だった。

4月3日 ペギー葉山(歌手 71)疎開先の旅館に航空隊の若者達がやってきた。お姉さんの写真が欲しいと言われる。ポケットの中に女の人の写真を入れて出撃したいそうだ。姉の写真をあげた。

4月6日 赤瀬川隼さん(作家 73)林の木を一回引っこ抜いて、根まで掘り起こし、もっこで運ぶ。又、木を植える。偽装のためである。上空から見つからないように飛行場を作る。

4月9日 埼玉県で天然痘流行。この日までに患者15人を確認。

4月10日 中村メイコさん(女優 70)本土だけではなく大陸や南洋の島々の特攻隊の基地への慰問が多かった。明日死ぬとわかっている当時の特攻隊の方々は大学から学徒出陣したインテリの方が多く、彼らに何を慰問して欲しいと聞くと子供に会いたいなと言うんだそうである。母も私も目隠し状態で連れて行かれた。手作りで作ったような飛行場らしき所で、兵隊さんの一人が慣れない口調で司会をする。アコーディオンの人を内地から連れてきていた。軍からは軍歌を歌えと言われていたらしいが、私は軍歌は知らず「夕焼け小焼け」とか「赤とんぼ」を唄った。歌手ではないのでへたくそだったと思うが、特攻隊のお兄さん達は淡々としてむしろ虚無的な表情のないお顔つきが、聞く内に表情が出てきて、すがしい目に一杯涙をためて、歌が終わると私を一人ずつ膝にのっけって、ほお擦りされたり抱きしめてくださるんです。チョコレートをもらった。慰問が終わると特攻隊員達がメイコさんの所に集まってきた。投函して欲しいと沢山の手紙を預かった。母は内地に着くと一等最初に投函をした。

4月11日 藤子不二雄々マルA(漫画家 71)校門の前に竹を縛って何十本も置いてある。それを木刀で百回ぐらい米英撃滅と言いながら殴らないと学校に入れない。ガキ大将にメンコに似顔絵を書いた物をやって御機嫌を取った。山菜を集めなければいけなかったが、自分では布のザック一杯には集められない。ザック一杯にしないと学校に帰れない。ガキ大将がみんなのを少しずつ徴集して集めてくれた。

4月12日 ルーズベルト大統領急死。後任にトルーマン副大統領が昇格。

4月13日 ソビエト軍、ウィーンを占領。

4月14日 千玄室さん(裏千家前家元 十五代 81)徳島、海軍航空隊で白菊特別攻撃隊。飛行機は二人乗りで、パートナーは後に俳優となる西村晃さん。出撃が近い事を予感した千さんは戦友達と茶会を開く事にする。携帯用の茶箱を持ってきて、ようかんを切って6、7人の仲間と茶会を開いた。仲間の一人が茶を飲んだ後、生きて帰ってきたらお前の茶室で本当にお茶飲ましてくれよと言った。その言葉が胸に突き刺さった。そのとたんに妙におふくろに会いたくなって、「おふくろに会いたいなあ」と千さんが言ったら、みんなが「何や」ってしらけた顔で見た。千さんはさっと立って京都の方を見て、「お母さ~ん!」と叫んだ。そしたら、みんな立って、それぞれの故郷を向いて「お母さん!」と涙を流しながら叫んだ。怖い、死にに行くのは怖い。みんな怖かった。怖いけれど「怖い」と言うことは口には出せなかった。

4月15日 元英国大使 、吉田茂ら、和平工作の嫌疑で憲兵隊に検挙される。
児玉清さん(俳優 71)群馬県四万温泉に集団疎開。磨き粉を食べた。昼、じゃがいもならこんな小さなじゃがいも(原種位)2個だけだった。塩はあった。皮を食べ、茶碗に入れ、スプーンで何時間もかけてドロドロにして、塩入れてちょっとずつなめて、もたせた。4月13日の東京空襲で児玉さん達の家がある滝野川は焼け野原になった。先生が悲痛な声で君達の家がほとんど焼けましたと言うと、そのとたんに万歳!お役に立てたと言う事で。一人ずつ先生の所に聞きに行く。「先生、僕の家は燃えましたでしょうか」「ああ、残念ながら君のとこは燃えたよ」そのとたん万歳。燃えない子が二人いたが、聞いたとたん、しょぼんとなり、燃えた連中はまさに狂乱状態で万歳!万歳!

4月16日 ソビエト軍、ベルリンへの進撃を開始。

4月17日 ガンジー、インドの完全独立に向け声明発表

4月18日 清沢洌(ジャーナリスト)の日記
どこに行っても聞く話しは、兵隊さんの食糧が足らず、家庭に行ったり、食い物屋に行って食をねだることだ。銀座にも、毎日のように兵隊が来て、お腹が空いて困るから食わしてくれとねばり、これを断るのに困っている。
食事当番になると、釜から食器に盛る時に、手ですくいとって盗み食いするのが通例である。この兵隊が飢えたら秩序はどうなる?

4月19日 東松照明さん(写真家 75)家族が疎開した名古屋の家で一人暮らしをしていた。毎日軍事教練だった。体も弱く、運動神経がなく、うまく出来ず罰をくらった。とてもやってられないと思い、体温計をこすって、熱を上げ、肺門リンパ腺という事で休めた。毎日仲間と映画を見たり、街をうろついたりしていた。他の学校の生徒に因縁をつけて喧嘩した。目と目が合っただけで、ガンをつけたと路地に引きずり込んで喧嘩した。素手とかゲタとかで。鼻血を出したらやめ。不良はズボンを上げて、ゲートルを巻いて、ズボンを上に下ろした。帽子を斜めにかぶった。不良同士は喧嘩をしたが、真面目な学生には手を出さない。

4月20日 朝日新聞「アルミ貨を航空決戦へ!十銭、五銭、一銭のアルミ貨は一枚残らずお引き替え下さい」
冨田勲さん(作曲家 72)愛知県岡崎 矢作川(やはぎがわ)の堤防の工事で土運びをやらされた。予科練が上空で空中戦の訓練をしていた。よく落ちた。尾翼がとぶのだ。尾翼がとぶと、飛行機のエンジンの音がなくなる。前後に回転しちゃう。時々スッと持ち直す。川原の所に着陸するかと思うと前につんのめって火と煙があがって一巻の終わり。その間約30秒。落下傘は無い。飛行機がその分重くなるというので。尾翼に繋がる細い部分が折れちゃうのだ。

4月21日 安野光雅さん(画家 79)召集される。香川県坂出、陸軍暁部隊入隊。ちゃんとした帽子も無い。服も無くてレインコートの下は裸だった。後、ズボンと普通の靴。それだけだった。

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