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あの日 昭和20年の記憶 3月編

「あの日 昭和20年の記憶」3月編

3月2日 田英夫(参議院議員81)航海学校で訓練を受けていたが、乗る船が無かった。で、特攻隊(舟艇 潜水艦 魚雷)に志願するものは明日8時に当該区隊長に申し出ろと言われた。400人の中で40人位志願した。ほとんど死んでいる。田さんは志願しなかった。ところが学校を卒業して配属されたのは爆薬を積んだモーターボートで敵の船に体当たりする震洋特攻隊だった。ベニヤ板で出来ていて車のエンジンを積んだ二人乗りの船。上陸用舟艇に2隻ぶつかれば沈むだろうという予想の元に作られたものだった。

3月5日 猿谷 要(アメリカ史学者 81)福島県磐木の陸軍飛行学校の教官 練習機を飛行場に運ぶ空輸の仕事をしていた。敵が海岸に来たら赤トンボと言われた練習機で特攻をしようと言うのだ。その空輸中、猿谷さんはグラマン機にあった。練習機には銃も何も無い。うんとプロペラの回転を落として時速百キロののろのろ飛行をした。グラマンはそれだけゆっくり落とせない。失速してしまう。戦闘機は前にしか攻撃できない。で、助かった。

3月6日 池部良(俳優 87)ハルマヘラ島で陸軍中尉。初めは糧秣や弾薬が一杯あったが、全部アメリカ軍の空爆で燃えてしまった。池田さんを隊長とするおよそ80人がいた。2メートル半のトカゲがいた。銃弾は50発しかなく、銃は使えない。針金の太い奴を焼いて硬くして竹の先に縛り付けてトカゲに向かって投げるのだが、トカゲはすばやく駄目だった。草を食べようという事になった。四個分隊から各2名ずつ出して試食してもらう事になった。あたったらどうすると言う事になって、試食というのはよくわからないので隊長が試食してくださいと言われた。隊長殿が大丈夫だったら自分達も食べますからと。

3月10日 半藤一利(作家 74)東京、向島で中学2年生だった。頭の上で焼夷弾がはぜた。隣の家は油屋で一気に燃えた。消せと教わっていたので消そうとしたが、火が風を呼び火流が吹き降ろしてくる。これ駄目だと思って周りを見たら親父はいなかった。大人が逃げろと言ったので一緒になって逃げようとした。しかし行こうとした方向から逃げて来た人がこっちは駄目だ、上に行けと言うが、上は火の海だった。後ろから背中が燃えてると言われ、見たらちゃんちゃんこが燃えていた。平井橋まで逃げたが、煙がたちこめ渡れる状態ではなく、大勢の人がそこで立ち往生していた。なんとなく大勢いると安心するのかそこで座ったりしていたら、周りが一気に火の海になった。向こう岸から何艘も船が出てきて、川に落ちた人を救っていた。降りて船に乗せてもらった。岸に残ってうずくまっている人が鉋屑のように燃えた。自分も船に落ちた人を引き上げていたら、一人の人に肩をつかまれ、川に引きずり込まれた。長靴に水が一杯たまってスポーンと抜け、その拍子にホイと水上に上がった。その時襟首を掴んでくれた人がいて助かった。
医学生、山田風太郎の日記。「焦げた手拭いを頬かむりした中年の女が二人、ぼんやりと路傍に腰を下ろしていた。風が吹いて、しょんぼりした二人に、白い砂塵を吐きかけた。そのとき、女の一人がふと蒼空を仰いで、「ねえ…また、きっといいこともあるよ。…」と、呟いたのが聞こえた。自分の心をその一瞬、電流のようなものが流れ過ぎた。人間は生きてゆく。命の絶えるまで、望みの灯を見つめている。」

3月12日 早乙女勝元(72 作家)東京大空襲の後、墨田公園の桜並木が満艦飾の衣類で覆われていた。そこに逃げた人達の身に着けていた物が突風で吹き上げられ、枝という枝に貼り付いたんだろう。根という根が焼き払われていた。

3月15日 フランスで「天井桟敷の人々」を封切。この日の毎日新聞には「最新除倦覚醒剤、ヒロポン錠」の広告がある。藤本義一(72 作家)堺在住。前日の大阪での大空襲で難波新地(?)にあった父親の質屋も全焼。その事により45歳の父親は当時、神経衰弱と言ったが、うつ病にかかった。何も言わなくなり、「こより」ばっかり作っている。質屋では「こより」を使った。堺も空襲を受けた。自宅が焼夷弾の直撃を受けたが不発だった。翌日焼け出された知人を見舞うため、父親と二人で堺を歩いた。堺は堀が張り巡らされていて、小川みたいなのが一杯流れていて、割合深くて、そこに12,3人の遊女達が死んでいた。手と足が一本の紐で繋がっていた。逃げないように縛っていたのではないか。家に帰って、上着やなんかを脱がされて洗ったのだが、屍臭は取れず、焼き捨てた。

3月16日 後藤悟(76 元立行司 第28代木村庄之助)後藤さんは大相撲序二段行司だった。戦中も相撲は大人気だった。昭和19年11月、小石川の後楽園で相撲をした。四日目、6,7万のお客さんが来た。国技館では風船爆弾を作っていた。3月10日の大空襲で国技館は焼け落ちた。

3月18日 妹尾河童(74 舞台美術家)3月17日未明、神戸で無差別じゅうたん爆撃。照明弾で明るかった。焼夷弾はザッーとものすごい音がする。束ねられているのが途中で開いて、全部火を噴きながら落ちてきて、しだれの花火みたいで、綺麗だった。

3月19日。上野動物園の猛獣処分を免れていたカバの絶食処分が決まる。
近衛元首相側近、細川護貞の日記「朝日論説委員某氏の話。過日東京の焼けたる時、罹災者は皆疲れて路傍に座し居たるも、軍の自動車二台、泥水をけつて来り、参謀数名視察に来る。彼等力失せたる罹災民は皆期せずして一せいに立上がり、「お前達の為にかうなつたのだぞ、それを視察とはなんだ。」との々しり、遂にすごすご彼等は退散したる由なり。」

3月24日 黒木和雄(74 映画監督)軍旗を見たら敬礼しなければいけないのに、兵隊に見とれて忘れていた。憲兵が飛んできた。自分達三人、駅長室に連れ込まれ暴力で制裁された。

3月26日米軍、座間味島に上陸。住民170人あまり自決する。

3月27日 米軍、渡嘉敷島に上陸。山中に避難した300人以上が自決する。

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