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あの日 昭和20年の記憶 2月編

「あの日 昭和20年の記憶」2月編

2月3日 松谷みよ子(78 作家)東京、世田谷の海軍の施設で事務をしていた。毎晩、毎晩空襲で防空壕に飛び込むのだが、そうすると2歳半の甥が防空壕の歌を歌う。「慌てないで 騒がないで 落ち着いて 入っていましょう  防空壕」防空壕で子供が騒ぐといけないと国が子供達に教えた。靴履いて寝ていた。

2月12日 天野祐吉(コラムニスト 71) 千葉県の今の松戸市に疎開していた。近くの畑にアメリカの戦闘機が不時着した。若い航空兵が近所のお百姓さんが鍬や鋤を持って取り囲まれていた。彼は本部隊が引き取りに来るまで小学校の講堂の横の小部屋に入れられた。三人で見に行った。窓をそっと開けたら目の前に二の腕がにょっきとあった。見たことも無い桜色の二の腕で、ぶるぶるぶるぶる震えていた。顔を見たら16,7の少年だった。恐怖に顔が引きつっていた。初めて見た生のアメリカ人だった。僕らはアメリカ人を鬼畜生と教えられたいた。しかしそこには臆病そうで恐怖に震えている少年がいた。ショックでしばらく口がきけないような状態になった。

2月15日 渡辺美佐子(女優 72) 当時、東京麻布の国民学校に通っていた。大体夜中の12時に空襲警報があって後半は毎晩だった。「ザッー」て音は爆弾で「ヒュルヒュルヒュルヒュル」って音は焼夷弾。焼夷弾の方はあまり怖くなかった。父が掘った防空壕に入るのだが、音だけだと怖かった。地響きもするし。防空壕は水が出ていてじめじめしていて、すのこを敷いていた。みんなろくな物を食べていないから、おならがくさくて、怖いし、湿ってるし、臭いしで、すぐ飛び出した。父は水の入ったバケツと火の粉を払うものを持って外に立っていた。サーチライトと高射砲の火線と炎とで綺麗だった。

2月21日 早乙女勝元(作家 72歳)虚弱体質で内気だった。一番辛かったのは相撲大会。負け抜き相撲というものがあった。必勝の信念を鍛えよと言う事で、負けた者は勝つまでやる。大抵一回目で負けるとどうしようもなかった。私がいるために私のいるクラスはいつも負ける格好になった。白い目で見られた。お前みたいな者はお国のためにならないと先生からコツンと額をこづかれた。私どもは貧乏人の子供だったから近所の子供に同情する者が現れしばしば負けてくれた。勝元と言うのは本名で細川勝元にあやかったもので、わが家は男の子は戦国武将の名前がついていた。 私は「負け元」と呼ばれ、先生にさえそう呼ばれた。

2月22日 松本零士(67歳 漫画家)愛媛県新谷村(にいやむら)の母の実家にに疎開。6人兄弟。父は南方へ出征。空襲警報が鳴ると学校の近くなら学校、家の近くなら家へ行けと言われたが、学校の門前でも飛んで帰った。山へ入って遊んだ。木に登り、鬼ごっこは枝から枝へ。時々木から落ちるが、不思議と大怪我はしなかった。蜂の巣を襲う。主食は大丈夫だったが、たんぱく質がなかった。遊びを兼ねて取った。弟や妹や婆ちゃんまで喜んでくれた。蜂の子は持って帰って食べた。いためた。丸呑みもやった。めだかの丸呑み競争もやった。生きたまんま数百匹は食べた。戦後、観賞用に魚や鳥を売っているのを見て腰が抜けた。良い鳥とは食ってうまい鳥だった。良い魚とは食ってうまい魚だった。こっちは太った金魚を見るとよだれが出た。わなをしかけて鳥を取った。毛はむしらない。いろりに刺して焼いたものを醤油つけてバリバリ食った。もずの脳みそはおいしかった。もずは小鳥の中では脳みそが大きかった。うなぎも取った。

2月24日 神坂次郎(作家 77)陸軍航空隊通信兵として群馬にいた。女学生達が特攻兵達にと人形(特攻人形)を作ってくれた。特攻人形が身代わりになってくれると女学生達は信じた。一番綺麗なきれで作り、スカートの下に自分の名前を書いた。お返しに使えなくなった落下傘をマフラー代わりにあげた。風防ガラスをこすると甘い匂いがするのだが、それを使ってペンダントみたいなのを作ってあげたりした。飛行兵達は外出許可が出ると近くの町に行き、女学生達と知り合い、一緒に歌を歌った。

2月28日 北村和夫(俳優 77)飛行機工場で勤労動員。学生が鋲を打っていたもので、台湾に行くまでに落ちたものもあったそうだ。工場長の子分みたいに監視していたのが予科連(自分達はヨタレンと呼んでいた)だった。

2月25日 童門冬二(作家 77)土浦の予科練習生。募集要項の中に一日6合のギンシャリを食わせると書いてあった。朝6時になると総員起こしと言ってみんな起こされて、プールに氷を張られて15分ぐらい漬かされた。その後煮炊きに使ったコークスの上を裸足で歩かされた。ハンモックで寝たのだが、時々巡検と言ってハンモックのつり方が悪いと落とされる。まごまごしてると連帯責任になり鉄拳で顎をはられたり、精神棒(バット)で、意地の悪い下士官になると中を刳り貫いて鉛を流して、針金巻きつけて、腕をあげさせられて、けつをぶっ飛ばされた。練習機はあったけれど、乗るべき飛行機は一機も無かった。

2月26日 関根潤三(野球解説 77)東京、晴海の軍需工場に勤労動員されたいた。築地までバスで送られた。築地から有楽町まで歩かなきゃ行けなかったので、毎日銀座を歩いた。銀座で無糖紅茶を飲みながら、友達と話した。銀座の喫茶店は結構人が入っていた。当時はやっていた言葉で「人生20年」というのがあり、何ヶ月先には友達と話せなくなるかもしれないという気持ちはあった。

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コメント

先日初めてこの番組を見たのですがとっても感動しました。てっきり東京大空襲から60年の日にあわせた特別番組かと思っていたのですが、違うんですね。
DVDとか出ないのかなーとひそかに思っています。

投稿: nenneko | 2005.03.16 17:55

良い番組ですよね。
地上波でも放送すれば良いのにと思います。
DVD,出る可能性はあると思います。

投稿: tyantyan | 2005.03.16 22:49

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NHK-BS2で放送されているショートプログラムです。 嫌われ者のNHKですが、私は大好き。自分でもかなりのNHK愛好家だと自負してます(・∀・) 先日... [続きを読む]

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